出所したなかりの男が、スーパーで赤ちゃんを刺し殺す事件が起きた。またかという感じた。犯罪者の再犯率が高くなっていると言う。
特に、先日起きた奈良の女子誘拐殺人事件のように、性犯罪者の再犯率はある統計によると6割を超すそうだ。このことをきっかけに、日本国内でも、特に性犯罪者の出所後の居場所を公開すべきか否かの議論が行われるようになった。
欧米では、犯罪者の人権よりも住民の人権を優先し、インターネットでの情報公開も含め充実しているらしい。しかし、日本では、どちらかというと被害者の人権よりも犯罪者の人権が重視されている感がある。これは、恐らく、性善説と性悪説の違いからくるのであろう。
そもそも、性善説と性悪説とは、元々中国戦国時代の荀子と孟子がそれぞれを説いたとされている。性悪説とは、人間の本性は本来利己的なもので悪であるとし、人は生まれながらにして罪を背負った悪人であり、どんなに良い人間のように見えても、必ずと言って良いほど、悪いところがある、と考える説でだ。
一方その逆の性善説は、人間の本性は先天的に善である、とする説である。
現代では、欧米を中心とした自由経済圏では、自由に自分の個性を伸ばすことができる一方、悪く言えば、欲望を極限にまで解放し、そして、自由奔放に際限なくどこまでも拡大することができるため、自分の欲望を堂々と追求してくると、中には必ずと言って良いほどズルをする者が出て来るものであると考えられている性悪説である。
だからこそ、自由経済には、悪をチェックし、罰を与える審判が必要であり、時には、制裁を加えるべきとの考えになっている。
現に、米国にように自由を重んじる反面、あれほど犯罪率が高い国はない。
日本は、かつて犯罪率も低く、警察の検挙率も世界一を誇っていた。しかし、近年はどうか、外国人による犯罪も増え、未解決な重大事件も多くなっている。
一方、企業社会においてはどうだろうか。ある上場大企業の社長が「企業は、ある意味、トラブルや不正との戦いであり、統制ができなければ企業が滅びる」と言っていた。
なるほど、その通り、たった一人の不良社員が起こした不祥事で、企業が倒産の危機に追い詰められるケースが多々発生していることは承知している。
つまり、この社長が言うのは、企業は性悪説で経営しなければならないということだ。
私は、こう考える。これは、確率と集団性の問題であると考える。つまり、大組織になればなるほど、確率的に極低い可能性であっても、悪(不正)が起こる可能性は高まる。
どんなに、統制しても、数が多くなればなるほど、起こりえる可能性が高まることは事実だ。しかし、社長が目が届く範囲の少数であれば、その社長の手腕によっては悪の発生率は抑えることができると思う。
つまり、その集団を作り上げる一種の思想、文化の形成が重要だと考える。
前述したように、自由奔放を掲げれば、中にはズルをしようという者が出現する可能性が高まる。だから、ある程度の、統制は必要となる。
だからと言って、人を常に悪人と思うような統制には反対である。結論から言えば、私は、性善説にたった経営をしたい。しかし、それには、一定の条件下による。その条件とは、社長が直接面接して自分の判断で採用することが可能な小規模な組織である。
具体的に言えば、100人以下であろう。これくらいの規模であれば、社長の目が届き、直接社長の声を伝えることができる。しかし、それ以上になると、社長と現場は乖離し、社長の思想が伝わりにくくなる。社長の思想が伝わらなくなれば、その分統制を強化しなければ不正の起きる割合が高まってしまう。
私は、自分自身が束縛を嫌うから、自由度に対する考えは人一倍強い。だから、できれば統制はしたくない。
以前の会社で100人を超えたときには、嫌というほど統制、統制の連続だった。また、そうしないと組織が回らないのも事実であった。でも、元来、そのような縛りは大嫌いである。だから、私は、自由と責任を掲げ、自由度に応じて、責任の範囲を大きくしようと考えた。自ら、責任を取るような風土が必要だと痛感したのである。責任と統制は別ものと定義したい。
そもそも、性悪説を前提に考える企業だとすれば、従業員を信じていないことであり、また、信じられない社員を採用していることになる。
リスクヘッジという意味からすれば正しいが、自由度を奪い、同一カラーに染めようとする共産圏的な考えだと思う。だとすれば、それは、雇う側に見る目がないのであって、個性を押しつぶす自由主義社会を否定するような考えではないか。
そうだとすれば、そのような会社は独裁企業であり、個々の力を押しつぶす会社ではないだろうか。国で言えば、北朝鮮のような統制国家であろう。
それでも、大きな企業が生き延びるのには、仕方がないというのなら、私は、大きな企業になろうとは思わない。
米国のような一国主義よりも、私は、EUのような小さな国の連合体を目指したい。社長が、100人までしか目が届かないというのであれば、100人の企業で十分だし、500人まで大丈夫であれば500人の企業になったら良い。全ての責任は社長にあるのだから、社長の目が届かないのに、千人もの会社にすること事態がおかしい。
早く分社化して、別の人間に任せるべきである。
私の採用基準は実に簡単だ。私の考えを受け入れてくれるか否かだ。それは私の言いなりになれと言っているのではない。大きなくくりで、私の思想に共鳴してくれるか否かである。私の思想と合わない人とは、好きとか嫌いとかでなく、できるとか出来ないではなく、一緒にやることはできない。
ようはその人が信じられるか否かに尽きる。極端に言えば、波長が合うかどうかである。能力はその次である。
これは、私の思想であり、他から違うとも正しいとも言われたくない。違うのであればそれで結構だし、思想があう人と仲間になりたいだけ、ただそれだけの単純なこと。そこに理屈はない。
性善説と性悪説、結局は、どういう組織にどういう文化にするかどうかの違いである。どちらも一理あり、どちらにたって運営するかでその組織のカラーが形成される、それだけ。
人を信じられなければ性悪説で運営すれば良いし、信じるのであれば性善説で良い。その結果起き得ることは、どちらであっても肝要に受け入れるべきだ。結局は、誰も他人の全てを理解することは不可能なのだから。
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投稿者 :堀田信弘: 2005年2月 7日 21:38