コンピュータの歴史では、CPUを早くし、メモリを大きくすることで、計算速度の速さを競っていた。やがて、 逐次処理では限界が見られ、複数の計算機を連ねた並列処理の時代に変ってきた。
並列処理の初期では、メモリを共有し、CPUを複数持つ密結合のマルチプロセッサと呼ばれるコンピュータが登場した。 メモリを共有しているため、ここからあそこまでの番地は、こちらのCPUが担当し、 あちらからどこそこまでは別のCPUが担当するといったことが簡単にできたため、比較的簡単に利用できる代物だった。
しかし、CPU速度よりも遥かに遅いメモリへのI/Oがネックとなり、メモリ競合を起こすため、 折角複数のCPUを連ねてもその数分の性能を発揮することはできなかった。しかも、このタイプのコンピュータは、 メーカ独自のCPUとメモリでないと動かないオーダーメイドのため、高額で一般に普及するのは至らなかった。
そこで登場したのが、CPUとメモリをそれぞれ持つコンピュータ同士を繋ごうという構想である。例えば、 専用のコンピュータを作るよりも、世界中の何千ものパソコンをネットワークでつなぎ、少しづつ分散して処理しようという試みだ。 ひとつのパソコンの処理能力は低くても、数多く繋げば、専用の巨大なコンピュータに勝てるだとうという発想である。
この考えは、クラスターと呼ばれ、現在のグリッドコンピュータのもととなっている。
ドリームクラスターは、この考えをもとに、丁度1年前の今日(4月1日)設立された。
そもそも、密結合の逆転は、メモリの競合にある。それは、同一のプログラムをCPUの数に応じて分割し、 均等に処理しようという発想だからである。メモリを必要としない処理の間は、非常に早い速度を出せるが、一旦、メモリI/Oを行うと、 同時にメモリを利用しようとするため、競合が起きるのである。限りなくメモリを利用しないプログラムを作成できれば、 CPUの数の比例して処理できるはずれある。
しかし、この考えは、単純な繰り返し演算にか向いていない。各CPUに別々の処理を行わせることは、メモリ競合を引き起こすため、 不可能なのである。
このことは、組織に例えると、プログラムという名の一人のリーダがいて、部下というデータが異なる業務を処理するようなものである。 部下に与えたデータの数は同一であるため、中身が違っても同時に処理が終わるはずとして、リーダは部下に指示している。ところが、実際には、 データの数が同じでも、桁数がまちまちのデータが存在することが多々あり、同時に処理が終わることは不可能となる。しかも、人間は、 能力に差があるのは当然のため、どんなに優秀なリーダが旗を振ろうと、差が起きるのは当然なのである。
つまり、密結合の組織とは、文化や風土、規律、制度が厳格で、一枚岩のような強固な組織を目指していると言える。
これに対し、疎結合の組織とは、ひとりひとりの能力の差があることを前提に、 できる人ができるところをできるだけ行うよう分担して行うものである。密結合と違って、プログラムと呼ばれるリーダは、複数おり、 それぞれが自分の持分を指揮し、部下というデータもそのリーダが得意な分野を受け持つという組織である。
ネットワークで例えれば、疎結合とは、最低限のプロトコル(決まり)だけが定義してあり、誰もが自由にノード(結合点) に接続することができ、ハブを置けば、何台でも繋げるインターネットのようなものである。
米国の社会学者マーク・グラノベターが発表した「弱い絆の強さ論」にあるように、これからの会社は、 密結合よりも疎結合のほうが強くなるのは間違いない。組織という箱の中に詰め込んで、個性をつぶし、規制の中で統制する時代ではなくなった。 これからは、いかに一人ひとりの個性を活かせるかが課題である。ノードは、誰にも公平に与えられるべきであるが、 そのノードの使い方によって、そこを流れるトラフッィク量は平等ではない。トラフィックをあげる努力をしたものは、 さらにその下にノードが生まれ、アメーバーのように繁殖するだろう。
ドリームクラスターでは、「弱い絆の強さ論」を「自由と責任」と解釈している。できるだけ自由度を高め、規制をなくし、 余計なメモリ競合が起きるような会議や社内活動を排除し、それに応じた責任を自覚させることが、「弱い絆の強さ論」だと思っている。
一歩間違えれば、インターネットのような無秩序な組織になりかねないが、責任という結果主義で、 問題があれば自然淘汰されるようにしなければならない。
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投稿者 :堀田信弘: 2005年4月 1日 06:45