【堀田信弘の今日の語録】 『この会社は、きっと伸びるだろうな。他の会社と違うことができること自体に可能性を秘めているから。』


求める人材  「活・喝・勝」


偉い人と偉そうな人

「偉い人」と「偉そうな人」とは全く意味が違う。

「偉そうな人」とは、偉くもないのに偉そうにしているダメ人間である。「偉そうな人」は、とにかくポジションや肩書きにこだわる。

役職を上げるために上司におべっかを使い、イエスマンとなって出世を勝ち取っている。やがて、上に上がれば上がるほど、自分が偉くなったかのように錯覚し、偉そうな行動を取ってしまう。

偉そうな行動とは、部下の意見に耳を傾けないことだ。特に、嫌な出来事や将来を按じた意見などには毛嫌いを示す。やがて、このような「偉そうな人」には、意見を言える部下がいなくなり、周りにイエスマンが集まって、まつりあげられて裸の王様となる。

裸の王様が社長であれば悲劇である。「提案しろ」と社長の言う言葉を真に受けて改善提案をすると、その提案は勿論却下されるのは間違いないが、それよりも提案内容によっては危険人物としてマークされてしまう。マークされた人物は、ライン系で出世を果たすのは難しい。

あなたの会社には、担がれている上司はいないだろうか。もし、いたとしたら、その原因の半分は、部下にも責任がある。

裸の王様というのは、能力のない王様を担ぐ部下がいなければ成り立たない。つまり、ダメ上司というのは、ダメ部下が作るのである。

出世をしたいダメ部下は、同じ手法で出世したダメ上司の子飼となる。ダメ上司のダメさを知っていながら、出世のためにイエスマンに成りきり、決して上司に反対意見を言わない。

このような部下に取り囲まれていると、元々能力のないダメ上司は、「偉そうな人」化し、ダメ部下しか採用しなくなる。

悪の連鎖が始まる。

ダメ上司でも有能な部下がいれば、裸の王様まではならず、阿呆殿様くらいで止まる。阿呆殿様の良さは、自他共に阿呆を認め、実権を家来に渡しているところである。そのような殿様は、自分がなにもしなくても家来が全て行ってくれるから、名目だけの殿様でも十分に機能するのである。

有能な部下とは、自分に気づきを与えてくれる部下、言い換えれば自分を映す「鏡」のように、
自分の足りない部分や問題のある部分を助言し、自分に代わって跳ね返してくれる部下である。つまり参謀である。上司の頭脳となって、作戦を考えるブレーンとも言える。

このような部下はそう多くいないが、自分を映す「鏡」のような部下は実は大勢いる。部下の大半はそうだと思って間違いない。組織とは、必ずその長のカラーとなる。このことを理解していれば、部下がミスを犯しても、部下が思ったように動かなくても、それは自分を映してことなにである。

このことさえ気づいていれば、同じ能力がなくても、裸の王様ではなく、阿呆殿様でやっていける。

部下は上司を選ぶことができない。上司がダメだと思ったら、辞める以外に方法がない。ダメなのを知って辞めないとすれば、裸の王様ではなく、阿呆殿様として担ぐことである。

しかし、上司は部下を選べる。その選んだカラーが自分を表すのである。その選び方によって、その人が裸の王様になるか、阿呆殿様になるか決めるのである。

そう考えると、何れにしてもダメな上司は結局はダメなのである。裸の王様であろうと、阿呆殿様であろうと延命するかしないかだけくらいしか違いはない。それよりも、その上司と一緒にいる部下はもっとダメだということである。

バカにバカと言われるのはもっと大バカなのだ。

有能な上司というは、ビジョンがはっきりしていて、部下と目的共有できる人である。目的に対する提案や意見を歓迎し、自分と正反対な性格な人を恐れずそばに置くことができる。部下に水を与え、水をえた魚のように悠々と泳がす。顕在化していた能力を発見し、発揮させることができるのが有能な上司であろう。

そのような上司には、有能な部下が育ち易い。有能な部下が回りにいるということは、有能なリーダが育つのである。つまり好循環するのである。

「偉い人」と「偉そうな人」とは全く意味が違う。

「偉い人」は、自分とビジョンが共有できる人である。

「偉そうな人」とは、ビジョンがない人である。「偉い人」とは、才能や技能が優れているのではなく、とびきり優秀な人という意味ではない。ビジョンさせあれば、誰でも「偉い人」になることはできるし、誰でも「偉そうな人」な人で終わってしまうかもしれない。

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投稿者 :堀田信弘: 2005年4月 5日 17:24