1965(昭和40)年8月6日、兵庫県川西市生まれの39歳。
兵庫・川西明峰高から立命館大を経てトヨタ自動車入社。88年ソウル五輪では銀メダル。ドラフト2位で1990年にヤクルト入り。 野村前監督の英才教育を受けて球界を代表する捕手に成長し、5度のリーグ優勝、4度の日本シリーズ制覇に貢献。91年に首位打者。 94年には盗塁阻止率6割4分4厘の驚異的な記録を残した。
その古田敦也選手がついに2000本安打を達成した。
私の父の教え子が元ヤクルトの広沢克己さんということもあって、私は以前からヤクルト・スワローズには間接的な関わりを持っていた。 特に、古田選手は、私と年齢がひとつ違い、誕生日が1日違いということもあって、活躍ぶりに関心を持っていた。
古田選手は、入団した年からレギューラー捕手となり、2年目に首位打者、3年目の92年には、 ヤクルトを14年ぶりにリーグ優勝に導いた。中でも記憶に残るのは、その年の夏、ファン投票1位で出場したオールスター戦で、 史上初のサイクルヒットを記録したのは今でも覚えている。
何よりも私が彼をすごいと思っている点は、98年から日本プロ野球選手会会長となり、昼間は選手会の活動をして、 夜から試合に出てヒットを打つ姿である。記憶に新しい2004年の球団改革問題では、 合併阻止と新球団参入に尽力を尽くし、楽天誕生に貢献した。
名実ともに名選手だ。どの球団の選手からも慕われる選手会会長としてのリーダシップも素晴らしい。
そして何よりも2000本安打を達成した時のシーン。記念ボールにサインをし、スタンドに投げ入れてしまった。 このシーンを見たときは、とても感激した。通常の人ならとてもできないことだ。勝負の世界に生きる人は、 記念やらジンクスやらを気にすることが多い。そんな中、彼は、形式的なことやジンクスなどを嫌い、常に打ち破る精神力を持っている。
もともと、眼鏡をかけるキャッチャーは成功しないと言われ、大学卒業後のドラフトではどこにも指名されず、 止む無く社会人野球に進んだ経緯がある。ヤクルトに入るときも、コンタクトレンズにしなければ指名できないと言われたものの、 これを強く拒んだそうだ。今では有名になった彼の眼鏡は、フィット感に優れ、激しい動きをしても全くズレないことで知られている。
眼鏡をかけるキャッチャーは成功しないというジンクスは崩れ去った。古田という選手が誕生していなければ、このジンクスは続き、 能力があってもプロ野球に入れない人がいたことだろう。
そういうジンクスや言い伝えなどに立ち向かう人は少ない。正確に言えば、例え立ち向かおうとしても、それを拒む世間一般というものや、 しきたりが許してくれない。なんとも非科学的なことか。
記念ボールを手にした瞬間、それはもう過去の栄冠に浸ることになる。過去を大切にするか、未来を大切にするか、 この辺が人としての行き方を左右するだろう。成功した人ほど、過去を守りたがるものだ。過去に浸ってしまうと、失うことへ恐怖感が生じ、 新しい大胆な挑戦が行えなくなる。
かつて、首位打者争いをした落合博光は、名球会入りを拒み、過去の栄冠を捨てて、名選手であったという肩書きではなく、 新人監督として選手から学ぶ姿勢で優勝を掴んだ。別に、名球会という隠居クラブに入らなくても、落合の功績は残っている。
経営者でも、地元の何とかクラブとか、何とか会などを組織し、社長連中が酒を飲んで集まっている。 社長自らがごみ拾いをするボランティア活動ならまだしも、社長がボランティアに参加したことなど見たこと無い。 地元に名を残すことだけを考えている。
記念ボールを投げられる社長は皆無だ。
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投稿者 :堀田信弘: 2005年4月25日 19:46