7年前に山口県で起きた母子殺人事件の最高裁弁論に、安田好弘弁護士らが欠席した。
腹の中が煮えたぎる思いがした。
安田弁護士は、「"生きる"という権利」という本の著者。オウムの麻原彰晃の弁護人を務めた死刑反対論者の中心的人物だ。
死刑の反対を唱えることは思想だから、良いとも悪いとも論じたくない。
ただ、個人的な感覚でいえば、自分の妻と娘が暴行されて殺されたら、犯人を殺して、 自分はどうなっても良いと思うのは自然な感情ではないだろうか。
「国が犯人を死刑にしてくれないのなら、さっさと釈放してほしい。私がその時には彼を殺す」と被害者の男性は訴えた。 私が被害者の夫だったら同じような気持ちになるに違いない。
その感情を、法の裁きによって、被害者に代わって犯人に罰を与えるのが法治国家だ。
冤罪の問題や加害者にも人権がある、生きる権利があるという理由で、死刑を行うか否かはまた別問題である。
法に照らし合わせ、犯罪を検証するのが検察で、検証の問題を見つけ弁護するのが弁護士。法を作るのは国会だ。 法に従って施行するのは内閣。それぞれに役割があって、弁護士が法律がおかしいと言って、被害者も加害者も当事者そっちのけで、 裁判の引き伸ばしや混乱を起こすのは、被害者の感情を無視してのことではないだろうか。
殺人者の死刑を阻止するという正義の味方が、被害者の正義など目にないようだ。
その正義は、感情的に私は許せない。
裁判を欠席し、裁判官が5月に定年になるまで引き伸ばそうとしている。裁判官が代われば、状況が変わるとの狙いだ。
麻原被告の死刑を阻止するために、どれだけの税金と時間が費やされるのか。
裁判では、唯一の真実はなんだったのかを争う場だ。真実がどうであるかは別問題とし、法のあり方を問うのは、弁護ではなく、 立法の場ではないだろうか。
死刑制度に問題があるなら、国会議員になって、世論を集めれば良い。弁護士が弁護という建前を利用して、法の施行を防ごうとするのは、 立法にも行政にも、司法にも反することであり、正義のやり方には思えない。
会社の中でも、営業、技術、または経営というのは、役割が違う。会社の方針は経営者が決める。決められた目標、 方針を実現するのが現場の執行者たちだ。経営者の方針がおかしい、自分の考え方と違うからといって、自分の仕事をボイコットするのは、 お客さまのためになるのか。
ちまたにいる正義の味方は、自分の欲求や自分の保身の味方が多い。
自分の生き方や思想が会社の方針と違うことなど当たり前のように起きる。それに対して、 その考えでは仕事をしたくないと言う気持ちになるのなら、会社側がその考えを受け入れて変わったほうが良いのか、 自分の生き方に沿った会社に転職したほうが良いのか、どちらが会社にとって、良いことなのだろうか。
安田弁護士の死刑廃止論は、どんなに罪のある人でも、人が人を裁きによって殺して良いのかを投げかけている。死刑制度を止め、 終身刑を設けるというのも理解できる。
しかし、自分のそのような思想を貫くために、裁判の場を軽く見て、小手先の欠席というやり方は、罪を犯した人のことは考えても、 犯された人のことを考える人間的なやさしさがあるのだろか。
「試練は、それを乗り越えることが出来る人にのみに神が与える。乗り越えられない試練はない。」という言葉があるが、 自分の母子を殺されて、それでも試練を与え続けるのは、神が行っているのではなく、人間が行っているのだ。
もし、安田弁護士が加害者の担当でなかったらと、遺族の心情は当然彼を憎む方向に向かうだろう。しかし、その感情とは逆に、 また別の殺人犯は、彼を指名することになる。
麻原のように死刑にならないでいられるのなら、 裁判ができないような病気になったほうが得だと考えるヤツが出てくることだってあり得る。
この正義の味方は、誰の正義なのか。罪人を守ることか。
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投稿者 :堀田信弘: 2006年3月19日 16:07