猫や犬は、自由の自覚がない自由の状態である。一日中何をしても良いし、食べたいた時に食べ、寝たい時に寝る、しかし、そこには自由に生きているという概念はない。
このような自由な状態のことを英語では、フリーダムと言う。フリーダムは、拘束や束縛、規制などの概念がない存在しない完全に自由な状態のことを表す。好き勝手ができる自由の状態と言えよう。
しかし、実際には、我々人間は、社会においても、家庭においても、会社においても、お金や規則、時間などで一定の規制の中で生活している。その中で、今の時代では、何を自由と考えるか、それは人それぞれに委ねられていると言えよう。
かつて、人民は、王や貴族たちの専制や迫害から解放されるために立ち上がり、人間としての平等を勝ち取った。このことを英語では、リバティと言う。だから、アメリカにある自由の女神は、Statue of Liberty と言われている。リバティは、フリーダムと違って、規制の中で、個人が選択ができることや、規制を開放することなど、奪い取った、勝ち取った自由という権利のことを指すようである。
福沢諭吉は、このリバティを訳するときに、その当時は、一般の人が使用していなかった仏教用語の自由という言葉にしたとされている。
その結果、日本人における自由の意味は、自分が自由に選択できる権利という意味として捉えられているように思える。
そして、最近では、自由の意味を表すリバティとフリーダムという二つの中間的な「個人の自由だ」という感じに取って代わってしまったような気がする。
私は、ずっと以前から「自由と責任」ある会社を目指したいという思いでいる。この考えは、これからも貫いて行くつもりだ。
自由が「個人の自由だ」と捕らえられている風潮について、私が目指している「自由と責任」にある自由という意味も、もう少し正確に理解してもらう必要があると感じるようになった。
「自由と責任」と言うと、自由を得るために責任を全うすると単純に理解される。私も、かつは、責任感を持ってもらうために、「責任を持って仕事をすれば、自由度が高まる仕事ができる」と訴えていた。
しかし、最近になって、「与えられた仕事をきちんとやっていれば、何をしても自由だろう」という考えを持つよような人達が多いことに気がつき、「責任を全うしていれば後は自由だ」という組織は私が目指しているものではないことを痛感するようになった。
かつて、ケネディー大統領は、「国家が自分たちに何かをしてくれるかを問うのではなくて、自分たちが国家に何をできるかを問おう」と演説した。
私の言う自由とは、この演説と同じ思いだ。つまり、国家という組織から与えられたものに対し、選択できる自由や、組織に文句を言う自由ではなく、自らが自分が所属する組織に対し、良くするために自発的に行動できる自由のこととなのである。
自分の会社を良くするために、自由に議論して、自由に手をあげて、そして、率先して行動しようとする人を応援する自由を与えたい。
そして、そのような人には、責任という立場と権限を持たせたいのである。
ここで言う自由は、リバティでもフリーダムでもない。強いて言うなら、自(おのず)に由(よ)るという意味だ。
これは今で言う自己責任などという個人中心の自由論とは意味が違う。
自らに由る。
自ら立ち上がって、自分を犠牲にすることかも知れない。
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投稿者 :堀田信弘: 2006年4月10日 07:16