【堀田信弘の今日の語録】 『この会社は、きっと伸びるだろうな。他の会社と違うことができること自体に可能性を秘めているから。』


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苦労はさせるが不幸にはしない(2)

私の会社に入ったら、苦労をしてもらうと言っている。でも私は、苦労をさせて申し訳ない気持ちで一杯だ。苦労した分、必ずその恩返しをしようと心に決めている。だから、私は、苦労はさせるが不幸にはしないと言っている。

幸せになるには、苦労は伴うのである。苦労を惜しんでは、幸せを手に入れることなどできるはずもなく、怠けものは不幸にさえなるのである。

幸せといのは、人それぞれ幸せの定義が違うが、判りやすいところで言えば、大金持ちになるというのも人によっては幸せと思うこともあるだろう。当たり前だが、大金持ちということは、普通の人よりもお金を持つことである。それが、普通の人と同じように普通の仕事をして手に入るはずもない。普通以上にお金がほしければ、普通以上に働くか、普通以上の苦労をしなければそんな楽に幸せなんて手に入らない。これは、別にお金だけではない。

平凡に普通の暮らしができることを幸せと考える人であっても、幸せは黙っていては手に入らない。幸せは、幸せを手に入れるために苦労をしなければあり得ないのである。平凡な生活がしたいから、平凡に仕事をしていては、給与は平凡どころか、平凡以下になるのが常である。

少し話は大きくなるが、戦争のない平和だって同様だ。誰もが平和を望む気持ちはあっても、平和は努力しなければ保つことができない。平和とは苦労の甲斐あって手にいれるものだ。人間が当たり前のように吸っている空気だって、苦労して努力して環境を守らなければ綺麗な空気をタダで吸うことはできない。タダで吸っている空気だって、お金と労力を使って、吸えているとも言えるだろう。

だから幸せには、苦労が伴う。幸せを手に入れるためには、苦労をしなければならないのだ。

さて、では苦労とは何だろうか。苦労をさせるというのは、どういう意味だろうか。

私の場合、仕事を例にして言えば、"これは苦労するだろうな"と内心思って部下にやってもらう仕事がそうである。私が" これは大したことない" と思ってやってもらう仕事ではない。

少し傲慢な言い方をすれば、私ができないことをしてくれたときが「苦労をかけたなぁ」と強く感じるのである。自分がやれないことをやってもらえるのは、労をねぎらうだけの価値があるというものである。逆に言えば、例え一生懸命に寝ないでやってもらっても、申し訳ないがそれが理由で苦労をさせたとは感じないものもあるのである。苦労をしたかどうかは、やった人の感覚よりも、お願いしたほうの感覚が優先されてしまうものなのだ。

勿論、一生懸命にやってくれた人をねぎらうことはとても大切なことである。それが報われないというようなことは考えてもいない。ただ、それ以上に、自分がやれないことをやってくれたほうが、遥かに大変なことをやってもらったという心情が生まれるのは否定しがたいのものである。

そのような場合は、以外にも、やった本人にとっては、苦労したとは思っていないことが多い。こちらは苦労をかけているのに、本人は苦労を感じていない。

また、逆に「私はこんなに苦労したのに」と評価されないことを悔やんでいる人もいる。それは、自分が苦労をしたと感じているだけで、苦労をさせてしまったとは思われていないのである。こういう行き違いは、残念である。逆に、大した苦労をしたと感じていないのに、「こんな大変なことをやってくれた」と苦労を認めてくれることがあるのだから、人間の評価というのは難しい。

苦労をしたのか、苦労をさせたのか、自分が苦労を感じたのか、相手が苦労を理解しているのか、同じ苦労をしても苦労の取り方はこんなにも違う。

人間とは実に不思議なものだ。評価とは相手に評価されるものと判っていても、自分が苦労したという評価のほうを優先してしまうものである。評価とは、本人が大変なことをやったか否かという自己評価よりも、相手に何が提供できたかのほうを考えるべきである。

そんな不合理なことは認められないと言っても、相手が感じるのだから仕方ない。自分が苦労をしたと思っても、相手が大したことないと思ってしまえば、苦労も水の泡なのである。評価とはそんなもんだし、一々評価に納得いかないと言っていても始まらないのである。

リーダーも人間だし、部下も人間である。自分の欠点を追求してくる部下よりも、欠点を補ってくれる部下のほうに優を与えてしまうのは、何ら不自然なことではないのだ。

このように言うと、リーダーのために苦労をするのかと誤解されがちだが、私はそのようなことを言いたいのではない。

自分が与えられた仕事で、何日も寝ないでやったとしても、それを自己評価して苦労したと思わないほうが良いと言いたいのである。

不思議なことに、フリーとなって独立した人や社長などは、どんなに寝ないで仕事をしても、"疲れた"とは思っても"苦労した" とは思わない。なぜなら、人から指示されてやらされた仕事ではないからである。私も、今の仕事を始めて苦労をしているとは全く思っていない。苦労をさせてばかりで申し訳ないことばかりだ。

普通、"苦労した"と感じたら、苦労の見返りを考えてしまうだろう。でも、他の人からすれば、別に寝ないでやらなくても出来る仕事だったとすれば、本人の能力の問題であり、本人が考えるほど苦労するものでなかったのかも知れない。

「この仕事をやってくれないか」と頼んだ時に、快く「やります」と答える人と、「えー、私がやるんですか」と言う人がいる。頼む側からすれば、どちらが頼む価値があるだろうか。もうはや頼む時点で、評価は決まってしまっているのである。私からすれば、両者に仕事を通じて、苦労というチャンスを与えているのである。それのチャンスを掴もうと前向きに考える人と、チャンスをチャンスと考えず、「嫌な仕事が回ってきた」と捕らえる人とでは、結果がでる前から、部下としての価値が計られるものである。

快く「やります」と答える人、つまり、苦労を買った人を、私は不幸にはさせたくない。

ちゃんとした上司であれば、その人ができる仕事か否かを考え、「やってくれるか」と言っているはずである。何も嫌なことをいじめで言っている訳ではない。それを「えー、私がやるんですか」と言う人に、「頼むからやってくれないか」と頭を下げてやってもらおと私は思わない。頼めない部下に位置づけるだけで、やりたくない仕事は断る部下、つまり頼りがいのない苦労をさせることができない人と考える。

「この仕事をやってくれないか」と頼まれた時点で、頼んでいない人よりも評価しているのに、誠に残念なことだ。これは、もはや能力や成果などという評価基準では計れるものではなく、上司と部下の信頼関係、人間関係なのである。もしかすると、このことをきっかけに、仕事を断った人は、仕事を頼まれなかった能力が低いと思われていた人よりも、信頼関係の上で、下位に位置づけられるかも知れない。

私は、苦労はさせるが不幸にはしないと誓う。だから、若いうちは、苦労は買ってでも行ってほしい。

誰にも家庭の事情や、すんなりと承諾できない事業があることだって承知している。だからこそ、苦労させた人は何が何でも守ってあげたいと考えるのである。

最後まで読んで頂き、感謝申し上げます。

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投稿者 :堀田信弘: 2006年7月25日 07:45