「やりたいことをやれ」というのは、本田宗一郎の言葉である。私の好きな言葉だし、私もそのような経営をしたいと考えている。
私は、やりたい人に、やりたいことを、やりたいようにさせたい。これは、私が、グループの社長に望むところである。
やりたい人にさせる。当然なことである。やりたくない人に、仕事を任せても上手く行くはずがない。
では、やりたいこととは何だろうか。どうやら、やりたいことを正しく理解していない人が多い。
まず、簡単に言えるのは、やりたくないことの反対であるのは間違いない。人は、やりたくないことをさせられては能力が発揮できないばかりか、ストレスにさえなるだろう。だから、やりたくないことよりは、やりたいことをやったほうが良いに決まっている。
しかし、やりたくないことでないことをやることは、やりたいことをするのとは同じではない。
それでは、人は、それほどまでにやりたいことを持っているのだろうか。強烈な想いを抱き、信念を持ってこれがやりたいというものがあるのだろうか。本気で、死ぬ気でやりたいことであろうか。
私は、やりたいことがある。しかし、今、この瞬間、何もかも全てを投げ捨てて、本気で死ぬ気でその事に没頭できるかと問われると、私は自信がない。そのように問われれば、私のやりたいことなど、その程度のものであって、心底からやりたいものではないのかも知れない。
その程度のものなら、”やれれば良いな”という漠然としたことに過ぎないのではないかと言われても反論できない。それでは、”やれれば良いな”ということと、やりたことを混同しているのではないだろうか。
私がひとつ反論するとすれば、私のやりたいことは、何としても実現したいことであるのは間違いない。ただし、今、この瞬間、何もかも全てを投げ捨てて、本気で死ぬ気でその事に没頭できるかと言われると、私はその手順は違うと思う。
私は、何としてもやりたいことのためには、やるべきことをやることが先だと考えるからである。言い換えれば、やりたいことのために、やるべきことをやっている。だから、私にとってやるべきことは、やりたいことのために我慢している訳でもなく、やりたくないことをやっているのでもない。
もう一度、やりたいことを定義すると、やりたくないことの反対である。だから、その定義に従えば、私が今行っているやるべきことは、私がやりたいことに違いないのである。
つまり、やりたいことは、二つに分類できる。ひとつは、そのことが、やるべきことに位置づけられた時、やりたくないものではないことである。そしてもうひとつは、今、この瞬間、何もかも全てを投げ捨てて、本気で死ぬ気でその事に没頭できるくらいのものである。
私は、今、爽やかな気持ちで毎日楽しく、前者のやりたいことをやるべきこととして行っている。そして、それは後者のやりたことを手に入れるためのステップだと考えているのだ。
私は、やりたい人に、やりたいことを、やりたいようにさせたい。
しかし、それには、条件がある。その条件は、その人のやりたいことは、今、この瞬間、何もかも全てを投げ捨てて、本気で死ぬ気でその事に没頭できるくらいのものであるかということである。
もしそのような信念的なものを持っている人なら、やりたいようにさせよう。この私が、そこまでなりきれない信念的なやりたいことを持っているのなら、敬意を評し、やりたいことをやりたいようにさせる以外ない。
しかし、もし、私のやりたいことと同じようなその程度のやりたいことであるのなら、まずはやるべきことからやってもらう。何もかも全てを投げ捨てて、本気で死ぬ気でやる気持ちがない人に、やりたいようにさせて良い結果が生まれるとは到底思えないからである。
はっきり言って、その程度人には、任せられない。なぜなら、その人が、死ぬ気でやるから任せてくれと言い切らないからである。
やりたいこととは何だ。それはどの程度のものか、考えに考え抜いてほしい。その上で、二つの道の何れかを選んで欲しい。一方は、一か八かのいばらの道、もう一方は、やるべきことをコツコツ重ねる努力の道だ。
やりたいことを、軽々しく口にするな。真剣に考えて、重い決断をしなければ、本当のやりたいこととは言えないのだから。
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投稿者 :堀田信弘: 2008年1月 7日 03:42