場を読めない人には、場を読まない人と、場を読んでも話が周囲の雰囲気とそぐわない結果を生む人の二通りがいる。
「あたなは場を読めない」と言われても、当の本人は、場を読んでいるつもりでいるのだから、言っても無駄である。
場を読まないのと、読めないとは意味が違い。
読めない人は、一言で言えば、集中力の欠如であり、理解力の欠如が要因だ。
自分が言うとしていることに気が移って、他人が言ったことが上の空の状態になる。あるいは、単語の意味は判っても文脈が読み取れていないのと同様に、周囲という全体の話の流れについていく理解力に乏しい。
しかし、これらの事象は、決して特別なものではなく、誰にでも該当することである。
例えば、全く医学という専門知識がない人が、医学に関する話題で盛り上げっても、ひとりひとつの発言を理解するので精一杯となり、全体の流れなどついて行けなくなることであろう。
そのようなことは良くあることである。そのような時、ただ黙っていれば、場を読めないなどと言われることはない。問題は、一生懸命に話しについて行こうとして、何とか自分もその和に入ろうとするから、つじつまの合わない話をしてしまうことである。
黙っていれば良いものを、一言言ったために場を読めないと言われる。
しかし、経営者や営業、中でもリーダーを目指すような人は、黙っていれば良いでは済まされない。存在を示す必要があったり、取りまとめたりしなければならないからである。
また、営業ではあれば、顧客の接待の時、場を盛り上げ、お客の気分を高めるには、場を読んで、絶妙なタイミングでの同調や、同感を示す必要がある。また、相手が尚も気分よく話をしてもらうために、質問やネタをふる必要がある。
だから、場を読めないでは済まされない。黙っているようではいないのと同じなのである。
重要なことは、場を読むという本来の意味を理解することである。それは、話の内容や文脈を理解しようとするのではなく、相手の心を読むことである。
つまり、気づかいである。場を読めない人は、気づかい、デリカシーのない人である。これは専門性の話も関係ないし、話に耳を傾けて聞く姿勢を見せれば良いというものでもない。
気づかいとは、相手の動作を見ることである。相手の目がどこを向き、相手は楽しそうか、不愉快そうかの表情を見て、腕を組んでいるか、足はどうかなどの動作を見ることである。
これら全体を捉え、相手が望む次の動作を予測する、これが気づかいである。
相手が楽しいそうに話をしてれば、楽しくすれば良い。真剣な眼差しで話をしていれば、真剣に静に聞けば良い。
自分の話を聞いてもらえない時、こちらの話も聞いてほしいと思うことがあろう。聞いてもらえない人からすれば、その人のことを話の聞かない人を思えるかも知れない。
しかし、今は自分のほうが聞いてもらう番ではなく、自分が聞くほうの番だということがズレルから、場が読めなくなる。これはお互いの気づかいが欠けていることが問題だが、客や上司の場合、お互いなどと言っている論理はない。
気づかいとは、時にお互いではないのである。そのな考えでは、客の接待もできない。こんな理不尽なことを多く経験することは、実は、一番気づかいという能力を高める手段だったりする。
理不尽な経験がなければ、気づかいはできないのである。場を読むということは、自分のためではなく、相手のために読むのである。相手のことが読めないのは、気づかいがないからである。気づかいがないのは、お互いを対等と見ているからである。
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投稿者 :堀田信弘: 2008年8月21日 05:21