彼女に「今度の誕生日は何がほしい」と尋ねる。すると、「別に何も要らない」と答える人と、「あれを買って」と答える人がいるだろう。
日本には、人に対して行動や言動を控えめにする言葉として、遠慮という言葉がある。
私は、この遠慮という考え方が好きだ。実に日本的であり、高貴な精神に思う。
なぜ、高貴な精神か。それは、動物と同様な人間の欲求に対し、知性、理性という動物にはない人間ならではの自己コントロールができるからである。
このことを、遠慮という言葉で表現してしまうと、いかにも日本人的で、国際的ではないような印象を与えてしまうかも知れないが、私は、日本人だからという前に、人間として優れた知恵が遠慮なのだと思う。
彼女に「今度の誕生日は何がほしい」と尋ねる。すると、「別に何も要らない」と答える人と、「あれを買って」と答える人がいるだろう。
では、あなたは、その彼女のために、喜んで買ってあげるのか。
それは、その彼女を愛しているからか。愛している彼女が欲しがっているのだから、与えたいと考えるのか。
では、その彼女の心理は何なのか。彼に「何がほしい」と尋ねられて、自分がほしいものを答える。それでは、それほどまでに彼女を愛しているあなたは、彼女から「何がほしい」と尋ねられたなら、「あれを買って」と答えるのか。
彼女が喜んでくれるなら買ってあげても良いと考えている優しいあなたは、きっと彼女から「何がほしい」と尋ねられたなら、「別に何も要らない」と答えるのではないか。
それほど愛して、彼女の気を引きたいのなら、仮にほしいものがあったとしても「あれを買って」と答えるはずがない。
そしてまた、彼女が「あれを買って」と要求しても、実はあなた自身に要求したいものがあるから彼女の要求に不満を感じないのであろう。ならば、もしあなた自身に要求したいものがないとするならば、あなたは平気で彼女の要求を受け入れられるのだろうか。
この例は、馬鹿げた例だが、これが遠慮の身近な例である。
遠慮近憂 (えんりょきんゆう)という言葉がある。これは、先のことまで考えないと、必ず急な心配事が起こって苦しむことになるという意味である。目先の欲求ばかり考えて、将来のことを考えなければ、問題が起こるということから、目先の欲求をせず、遠慮したほうが人間関係がスムーズに行くということから遠慮という言葉を使うようになった。
遠慮できない人がいる。
例えば、昨日、敬老の日を向かえた老人である。彼らの中に一部の人は、自分は年老いているから、優先されるのが当たり前だと考えている。 若い人も、決して年老いた人を追いやって、冷遇しようなんて考えているつもりはない。
ところが、年老いて若い人に年寄りであることを伝えるために、年寄りの権利と、彼らが考える当たり前の欲求を明さまに表現しようとする。
電車を待つ列。エレベータを待つ順番。彼らは、当たり前の権利として、割り込みをする。
これは頂けない。あなたは、彼女の例と同様に、年寄りだから仕方ないと、年寄りの一方的な欲求、要求を受け入れられるか。さすがに、愛している彼女とは違って、不満に思うことであろう。
私は、年寄り全体を批判するつもりはないが、年寄りの中の一部の人がそのような行動をしている人がいて、不満に思うのである。
私が不満に思うのは、遠慮という実に日本的な考えを、人生の先輩である年寄りが壊すからである。「今の若い人は遠慮することも知らないで」と若者に遠慮という考えを継承しようという立場にありながら、遠慮なんて関係ないというあの元気で傲慢な態度は何なのだろうか。悲しいことだ。それで、若者が遠慮などできるはずがない。
遠慮をする、これは人間としてとても高貴な行動だと思う。
誰もが疲れている時に、席を譲ることは、若いからできるのではない。若い人だって疲れているし、若い人の中にも気分が悪く体調を崩している人だっている。ようは、遠慮する気があるかどうかである。年寄りだって、障害者を見れば席を譲ることができる人はいる。年老いているからと言って、自分のほうが障害者よりも優先されると一方的に決めつけるのは身勝手ではないか。
人に遠慮を求めるのは許せない。自分が遠慮できないくせに、遠慮しなさいというのは矛盾している。
人間は、これしてくれ、何がほしい、何は嫌だと欲求をぶつけていてはうまく行かない。
目先の欲求ばかりを要求していれば、遠慮近憂となる。簡単に人に要求するのは遠慮したほうが良い。何がほしいと尋ねられて、はいはいとほしいものを答えるようではきっと上手く行かないであろう。
人に要求するのは遠慮しよう。
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投稿者 :堀田信弘: 2008年9月16日 06:16