赤ちゃんが生まれた時に見せる表情は、泣く、笑うであろうか。人間の代表的な感情として、喜怒哀楽というものがある。
しかし、赤ちゃんで考えてみると、泣くという行為は、怒るのと哀しいとが入り交ざっているのか、あるいは一方だけなのかも知れない。笑うという行為にしても、喜ぶと楽しいが混在し、どちらの感情なのか定かではない。
そもそも、赤ちゃんはなぜ泣くのだろう。お腹が空いたから、あるいはオシメが濡れているから、眠いからなど生理的欲求を泣くことで、伝えようとしているのであろう。
そのように考えると、泣くという行為は、必ずしも怒る行為でも、哀しい行為でもなく、単なるコミュニケーションの手段に過ぎないのかも知れない。
やがて、掴り立ちができるようになり、知恵がつくようになると、自分がほしいものが貰えないと、泣きながらダダをこねるようになる。
これが怒りの始まりであろう。
乳児期は、親から与えられるだけの言いなりであったのが、少しでも自分で行動できる幼児期になると、与えられることより、得ようする気持ちが強くなる。これを、自我の目覚めと言う。
つまり、怒りとは、人間が成長して行く過程で得られる感情である。その後、思春期に反抗期を向かえると、怒るという感情と、コントロールしようとする気持ちが不安定になりながらも、次第に抑制できるようになる。
生物学的には、怒りを抑制する脳機能は30代をピークに徐々に落ち始め、60歳の人と6歳児の抑制機能はほぼ一緒だそうである。
つまり、怒りという感情は、生まれてから身に付き、やがてそれを抑えようとする働きも身につけるようになる。30代が抑制できるピークであるのなら、その前後に位置する、10~20代と、40~50代の世代は、怒りっぽいということであろう。年を取るにつれて、怒りっぽくなるというのは、このような所以なのかも知れない。
私はと言うと、自分で分析するのも変であるが、どうやら怒りを抑制する機能は、40代になってからピークを迎えようとしているかに感じる。
私は、これまで怒りとは、若さのエンルギーだと考えていた。怒りのエネルギーを、正に使うことで、生きる馬力になると考えてきた。しかし、怒りのエネルギーは、負に作用することも多く、傷つき、傷つけられて、そのエネルギーは、次第に減衰して行くことに気が付き始めた。
私は、怒ることで、自分を奮い立たせ、角が取れた丸まった人間にはなりたくないと考えていたのだ。そして、情熱、熱く燃える闘争心は、怒りからもたらされると思っていた。
どうやら、私は、再び怒りが立ちあがる前の、抑制期というスポットに落ち始めたようだ。悲しく思う。今、そのスポットに完全に落ちないようにもがこうとしている。
だからこそ、若者に言いたい。
年老いたていの良い大人が何と言おうと、若さの特権である感情を剥き出しに、怒りまくってほしいと。怒って、イラついて、そのエネルギーを、勢いに任せてぶつけてほしい。
どうせ将来放っておいても丸まってしまうのだから、今のうちに角を研ぎすませてほしい。
キレルと言われても良いじゃないか。かつて私のようにキレテいた人間に、キレルなと言われてもアホくさいだろう。
怒れ。この怒りを何にぶつけるべきかを考えるのだ。そして、ぶつけろ。反動で、自分にぶつかったら、泣けば良い。そもそも泣くという行為は、怒るのと哀しいとが入り交ざっている感情なのだから。
それでも、若さがあれば何度でも立ち上がれる。それが若きリーダーの自我の目覚めだ。成長の証だ。
若きリーダーには、腹の中に怒りを持ち、それをマグマに行動してほしいのだ。その怒りは、きっと自信のない弱さを助けるエネルギーとなってくれよう。
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投稿者 :堀田信弘: 2008年10月28日 05:45