私は先日の『オンリーワンよりナンバーワン』の中で、「私の心の内側は、オンリーワンという響きの良い屁理屈を並べ、堂々とナンバーワンを放棄するような小心で、弱虫な人間だと気がついた。しかも、本当は、できることならナンバーワンになりたいという隠れた願望がありながら、それを隠し体裁のみを考えていたのだ。
これは、単にナンバーワンを目指すことができない負け犬の遠吠えである」と書いた。
負け犬の遠吠えとは、自分が負けだということを見せたくないために、弱い犬ほど自分が安全だという時にだけ吠え、強い犬がいる時は吠えないということである。
自分の力不足を隠すために、自分より力がない者の前だけ弁が立つ振りを見せ、弱いものを屈服させることで、自分の弱さを隠すことである。簡単に言えば、負け惜しみだ。
しかし、プライドの高い負け惜しみだ。
唯の負け犬ではなく、小ずるい犬だ。
まず私は、自分がこの負け犬であったということを率直に認め、その上、私なりの勝ち犬というのを考えてみようと思う。
負け犬とは、弱い犬である。弱い犬が自身を弱いと認めれば良いものの、弱いとは認めることができず、遠吠えをする。
これが負け犬とするならば、勝ち犬とは、その正反対にあるはずである。強い犬である。自分が強いと自画自賛するのではなく、あえて勝ち誇った吠え方をしなくても、周囲が強い犬だと恐れられる存在となっている犬である。
ではどうしたら負け犬ではなく、勝ち犬になれるのか。
負け犬の正反対を目指せばよい。
例えば、負け犬の遠吠えが、小ずるい犬だとしたら、もっとずるい犬になれば良い。大ずるい犬だ。小に対しては大である。つまり、小ずるいの正反対は、ずるくないのではなく大ずるいことである。
弱い犬ほど自分が安全だという時にだけ吠えというのなら、吠えないのではなく、危険な時こそ吠えれば良い。強い犬がいる時は吠えないというのなら、強い犬がいる時こそ大いに吠えれば良い。
自分の力不足を隠すのが負け犬というのなら、力不足を隠さず見せれば良い。
このようにして負け犬の正反対を並べてみると、勝ち犬も大したものではない。むしろ、そのようなずるくて怖い勝ち犬になるくらいなら、まだ負け犬でいたほうがマシだと感じてしまうことだろう。
しかし、普通の人は、そこに落とし穴がある。
負け犬にはなりたくないと言いながら、蹴落として、ずるいことをして、大きな声で吠えるようなことはしたくないと汚れることを嫌う。
勝ち犬は汚く、野蛮で、ずるいと考える。だから、そこまでして勝つよりも普通が良いと思ってしまう。しかし、その考えそのものが、経営者としては、普通以下であり負け犬の象徴なのではないだろうか。
私自身、勝ち犬を目指すなら、汚く、野蛮で、ずるいこともするという判っていながら、正々堂々だ、何だかんだと理屈を並べ、勝ち犬になりたい気持ちを隠し、それとは裏腹の綺麗事をやっていたように思う。
勝ち犬は、汚く、野蛮で、ずるいばかりではないと反論をする人もあろう。しかし、その反論そのものが今の私にはもはや虚しく聞こえる。
なぜなら、その声は勝ち犬の声ではないからである。
私と同じような負け犬同士が、お互いの傷を舐めあっても仕方あるまい。
そもそも、私が知りえる勝ち犬の人なら、例え汚く、野蛮で、ずるいばかりではないという意見を持っていたとしても、そんな下らん反論などしない。それは、汚く、野蛮で、ずるいことなどという次元を遥かに越える勝負に打ち勝って来たのだから。
私のこれまでは、綺麗事が多すぎた。
つまりは、勝ち犬になる覚悟が無さ過ぎたのだった。これでは、負け犬になるのは当然である。
そして、また周囲の心地よい反応に惑わされた。今回のこの内容のように、汚いだ、野蛮だ、ずるいだというようなことを書けば、倫理に反するだ、清くないだ、あるいは法まで犯すつもりかと馬鹿げた意見に耳を傾け過ぎた。
私が言いたいのは、そのような倫理感についてではない。
心の用いよう、強い精神力のあり方、何が何でもやるという気概、迫力、ブルトーザーのような馬鹿力である。
いよいよ、2008年も今日で終わりである。
私は、来年こそはなどという陳腐な表現は使いたくない。また次の年があるような気持ちは、今年で終わりだ。
もう二度と、負け犬の遠吠えはしない。
これが私の最後の遠吠えである。さらば2008年。
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投稿者 :堀田信弘: 2008年12月31日 05:03