レオナルド・ダ・ヴィンチが描いた「最後の晩餐」。そこには、イエス・キリストが、「12人の弟子の中の一人が私を裏切る」と予言した時の、最後の日の情景が描かれている。
イエスの予言通りに、翌日裏切ったのは、左から4人目に描かれているユダという人物。
前日、ユダは、「お前がキリストに接吻して誰がキリストか判るようにしろ。」と銀貨30枚でイエス逮捕の手助けをするようにと買収される。ローマ兵士たちと共に現れたユダは、イエスの前に行き、接吻する。そして、イエスは捕まってしまう。
イエスは、そんなユダの裏切りを予知していた。それなのに、なぜ回避できなかったのだろうか。
私には、信用できる部下と、信頼できる部下がいる。
信用できる部下とは、字のごとく、信じて用いることができる人のことだ。信じて用いるというのは、その人の能力や行動などを主観的に捉えて、その行動、考え方に対して、自分が予測できる通りの結果が期待できることを言う。
期待したどおりの結果が得られなかったり、予定外の結果となれば、裏切られたとなる。しかし、深く考えてみれば、こちら側の見る目がなかっただけに過ぎないようにも思えるのだが、その無念さは、信用できなかった相手に向かってしまう。
一方、信頼できる部下とは、字のごとく、信じて頼ることができる人のことだ。信じて頼るというのは、その人の能力や行動などを主観的に捉えて、自分の力不足、自分の至らない点について、相手に委ね、頼ることを言う。身を任せることができる人である。
しかし、委ねた相手が、思ったような成果が上げられなかったとしても、元々自分の力不足、自分の至らない点について頼ったものであり、裏切りというような相手の非をとがめるようなものではない。
信用できない人というのは、その人の能力や行動などを見て、信じることができないから、用いようとはしない人のことである。
信頼できない人というのは、その人の能力や行動などを見て、仮に信じることができたとしても、自分の力不足、自分の至らない点について、自分の代りになるくらい相手に委ねられなければ、頼ることはできない人である。もちろん、信じることができなければ、当然、頼ることもできない。
信用するというのは、一方的である。お互いに信じる合う関係ではなく、一方的にこちら側が、相手を判断し、信じることである。もしかすると、こちらを信じていないかも知れないというのを承知で、自分の判断を信じることでもある。
それに対し、信頼するとは、両方向である。こちらが信じても、相手が信じていないと感じれば、成立しない。お互いに信じ合う関係を信頼関係という。
イエス・キリストには、12人の弟子がいた。イエスは、最大の裏切りものユダ以外にも、福音書の中で他の部下にも不信心感があったことが書かれている。つまり、12人の弟子の中には、信用できない者、信用できる者、信頼できない者、信頼できる者の4タイプがいたのだろう。
信用できない者は、お互いに信じることができない状態だ。信頼できない者とは、もしかすると相手は信じているかも知れないが、こちらは信じていないか、あるいはその逆である。
自分が相手を信じているか否かは、自分の心だから、自分の胸に手を当てればすぐわかる。相手が自分を信じているかどうかは、相手に尋ねても本音は判らない。しかし、その人の行動や姿勢、考え方が、自分のことを信じているものなのかどうかは、自分の判断が当たっているか否かは別にして、勝手に感じ取ることはできる。
感じ取ってしまうのだから、仕方ない。信じられていると感じ取れるものと、そう感じることができないものは、理屈ではなく、感じ方だ。その判断は間違っているかも知れないが、例え間違っていたとしても、お互いに信じ合う関係とはならないのである。
私には、信用できる部下と、信頼できる部下がいる。だが、私が頼りたくても頼ってこない、あるいは私に頼われても、頼ることができない。お互いに、頼って、頼られるような、頼い合う相互関係を築くのは、極めて少なく、難しいものである。
なぜ、イエスは、ユダの裏切りを予知していたのに、それを回避できなかったのだろうか。
イエスは、最後の晩餐にて、ユダに悔い改めの機会を与えた。イエスは、最後のパンをユダに渡し、「あなたがしようとしていることを、今すぐしなさい。」と告げた。イエスの言葉は、悔い改めなさいという意味であったのだろうが、ユダは、その意味を理解せず、パンを受け取るとすぐに出て行ってしまった。
私には、信用できる部下と、信頼できる部下がいる。
あなたには、信用できる上司と、信頼できる上司がいるか。
あなたが信用できない、信頼できないのであれば、それは相手も同じ気持ちであろう。もし、そう感じるのなら、信用できる上司、信頼できる上司の元で働くべきだ。
あるいは、他人を信用できない、信頼できないのであれば、それは例えあなたがトップになろうとも、部下はあたなを信用、信頼しないであろう。それは相手も同じ気持ちであるから。
信用と信頼、使い分ける必要はない。ただ、感ずるだけである。感ずる気持は、相手も同じだ。
それでも私は、信じようと思う。それは、私が選んだ者だから。その心は、きっとイエスも同じ気持ちではなかったのだろうか。それで私が裏切られても、仕方あるまい。
私は、信じるが先か信じられるが先かと問われれば、間違いなく信じるが先と答えるだろう。信じること信じられること。他人から信じられることよりも、自分が信じることだけ、それしか私には信じるすべがないのだ。
例え、裏切られても、それは、私が至らなかったからだけだ。その程度のことだ。
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投稿者 :堀田信弘: 2009年2月12日 05:27