【堀田信弘の今日の語録】 2010年7月31日 『衰退の陰は、発展と共に常に忍び寄っている。』


悲しい出来事  「活・喝・勝」


死と生と

昨晩、自宅のパソコンでトラブルが発生した。突然、あるファルダーにアクセスができなくなったらしい。

そのフォルダーが入っているドライブは、パソコンが壊れた時にもデータだけは残せるようにと、標準のものとは別に増設したディスクである。

デジカメの写真やビデオ、マイドキュメント、住所録などが入っている。

貴重なデータだからと、定期的に自動バックアップするようにしてあった。万が一、パソコンが起動できなくなった場合にと、OSのバックアップも取ってあり、リスクを軽減するつもりだった。

そのハードディスクが壊れた。

パソコンは起動できるが、データにアクセスできない。中身が空っぽのようだ。全てのデータが吹き飛んだ。再起動するも、そのディスクは電源すら入らず、寿命を向かえたのかの如く、全く反応がない。

大切なデータだからこそ、別のディスクを用意し、バックアップを取っていたつもりだったが、ミラーリングという二重構造にはしていなかった。正直言って、パソコンが壊れることを予想して備え付けたつもりだが、そのディスクが壊れることまでは想定していなかった。二重化すればさらにリスクが軽減できるが、一般のパソコンユーザーがそこまでするだろうか。

住所録などは再入力すれば復元できるが、子供たちの小さな頃の写真は二度と戻らない。

失って判るその大切さ。

たかがデータだが、データによっては、もう二度と再現することは不可能なものがある。

家族旅行の写真は、全て思い出の中に消えた。

何ともやるせない気分だ。失意さえ覚える。

人間の死も同じかも知れない。

自分がいつ死ぬかなど誰にも判らない。愛する人が、いつ事故に会うか、いつ病気になるかなど想像もつかない。

ハーディスクのように、それに備えてバックアップなど取れやしない。

人は死んだら、もう二度と戻らないのである。

自分が死ぬ場合もある。自分の愛する者が死ぬ場合もある。どちらの可能性も100%だ。100%人間は死ぬ。そのことは間違いない。動かしようのないことである。ただ、判らないのはそれがいつ訪れるかだけだ。必ず訪れるのは間違いないのだが、早いか、遅いかだけが判らない。

明日かも知れない。

30年後かも知れない。

それだけが判らない。

ただ、今日は、この瞬間は、間違いなく生きている。明日は死んでいるかも知れないが、今は生きている。

死ぬことを理解すると、生きていることが把握できる。

ハードディスクは壊れたが、私の家族は、今、目の前で皆元気にしている。

過去の大切な写真は失ったが、その時の想い出は心の中に残っている。そして、これから作られるであろう未来はまだやってきていない。

死んでいないということは、生きているということ。生きているということは、いつか訪れる死に向かって、確実に一歩づつ近づいていることでもある。

人間は、この世に生れてから、毎日、毎時間づつ、死に近づく。生まれた直後から、決して死から遠ざかることはできない。

これが人間だ。だが、死を避けようとする、死を忘れようとする、あるいは死など考えないようにする、気にしないということは、その逆に、生を軽んじる、ないがしろにする、生を大切にしないということではないだろうか。

改めて、死を見つめて見ると、生が見えてくる。

多くの人は、若い頃ほど「長生きなどしなくても良い」と嘘ぶく。それは、死を身近に感じず、軽んじているからこその発言だ。死など訪れない、遠い先のことだと生をバカにしているからだ。

長生きなどしなくても良いと言うだけの行動をしているか。長生きなどしたくないというのなら、今すぐに死ねるか。

そもそも死ぬ覚悟があれば、そんな軽んじた言動などせず、無我夢中で、必死で人生を走りぬけようとするはずだ。

私は、これまで身近な人の死と、わが子の誕生による生に接した。自分自身が、生死の境こそ経験したことがないが、死の姿を見る度に、生の大切さを考えさせられた。

この世とは不思議なもので、死んでほしくない人が先に亡くなり、大切さを知る。死ぬほど憎い人ほど長生きで、生きる辛さを味わう。

そんな世の中では、生きることのほうが辛く、死を急ぐ人もいる。いっそ死んでしまえば、生きる苦しみから解放されると考えるのだろう。

だが、それさえ、生きている側の論理だ。天国や地獄があるなどとは言わないが、その人が死んでから本当に楽になるのかは、死んで見ないと判らない。以外に、死んでからも辛い死の世界が待っている可能性さえある。

だが、一旦死んだら、その辛い死の世界から、生の世界に舞い戻ることはできない。

慌てなくても、いずれ必ず死ぬ。死んだ後が辛いか楽かは知らないが、生きている辛さのほうが、まだ測りきれる。どんなに辛くても、死んだ気で立ち向かえば、命までは取られやしない。どうせ死ぬ覚悟なら、立ち向かって、命まで取られても、想定範囲じゃないか。死んで元々だから、悔いはないだろう。

こうして死を考えると、生にいることに意味を感じることができる。大切に生きろなどと自惚れたことを言うつもりはない。

だが、私のこのブログや、あるいは他人に匿名で「死ね」などとメールを送るような奴に言いたい。

どうしても「死ね」と伝えたいほど、死ぬほど憎いか。ならば、その覚悟で、そのエネルギーを生につぎ込め。下らんメールやコメントを書く暇があるのなら、その悔しさか、憎さを生にぶつけてみろ。

生を馬鹿にするんじゃない。ふざけるな。そして、「死ね」と言うことが如何に死を馬鹿にしているか知るべきだ。死を軽んじることは、生を軽んじている証拠だ、そのような人間を私は許せない。

私は、そんな軽い人間に「死ね」と言われても、動じない。私は、生を選択する。そんなに急かされなくても、いつかは死ぬさ。

最後まで読んで頂き、感謝申し上げます。

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投稿者 :堀田信弘: 2009年6月 6日 05:28