"使えない"部下には、三つのタイプがいる。指示通りに出来ない部下。指示通りにやらない部下。指示と異なったことをする部下。これらの結果は、全て"出来ない"という点で一緒だ。
しかし、何れも使えない"出来ない"部下なのだが、中には、仕事ができる部下と仕事ができない部下が混在する。
つまり、上司が考える"使えない"部下というのは、仕事のできる、できないということは関係ないということである。
言いかえれば、上司が"使える"と思う部下は、指示通りに結果が出せる部下、指示通りにやった場合の問題点を事前に洗い出し、そしてその対策を講じてくれる部下、そして最後は、指示通りにしたが、失敗しそうになったため、とっさの判断でその失敗を回避できる部下とでも言えよう。
これらの"使える"部下の共通点は、一言でいえば、上司を支えてくれる部下だ。どんなに出来ない上司であろうが、足りないところがあろうが、それを補い、上司を補完してくれる部下を使えると感じる。つまり、上司に仕える部下ということである。
私はこのことを『仕える事が仕事である』の中で、「仕える事が仕事である。我が我がと自分がやりたいことだけをやっているのは仕事ではない。部下に仕え、上司に仕え、そして、顧客に仕える。社会に仕える。人のために仕えるのが仕事だ。」と言った。
つまり、上司であろうが、部下であろうが、人に仕えることが仕事であり、仕えられなければ仕事ができないということである。
だから、仕えることができる部下の共通点は、仕事ができる部下ということになる。この中には、仕事ができない部下は含まれていない。能力が高いということである。
上司が"使えない"と思う部下には、仕事ができる部下と仕事ができない部下が混在すると言った。仕事ができる部下なのに、なぜ、その部下を上司は使えないと思うのか。
それは、自分を補完してくれない、つまり仕えてもらえないと感じるからである。正確に言えば、仕事のできるできない、能力のある、ないの前に、仕えようという気持ちがあるかどうかが大きいのである。その上で、上司の至らない点を見事に補完して仕えてくれる部下のことを、仕事ができる部下、使える部下と呼ぶのであろう。
上司の側から見れば、"使えない"部下というのは、仕事のできるできない、能力のある、なしに関係なく、自分を補完してくれるどころか、自分の足を引っ張る存在なのである。面倒な部下だ。
・能力がなく、指示通りに出来ない。
・能力がなく、指示通りにやらない。
・能力がなく、指示と異なったことをする。
・能力があるが、指示通りに出来ない。
・能力があるが、指示通りにやらない。
・能力があるが、指示と異なったことをする。
これは冒頭で書いた、何れも"使えない"部下である。
だが、ここには能力がないものと能力があるものがいる。何れにしても、使った結果、結果が出せなかった"使えない"部下であることには変わりないが、さて、どちらか一方を使うとすれば、能力があるほうとないほうと、どちらを使うか。
一方、"使える"部下とは、
・能力があり、指示通りに結果が出せる部下
・能力があり、指示通りにやった場合の問題点を事前に洗い出し、そしてその対策を講じてくれる部下
・能力があり、指示通りにしたが、失敗しそうになったため、とっさの判断でその失敗を回避できる部下
何れも能力がある部下であり、能力がなければ、上司を支え、仕えることはできない。仕える部下は、能力があることが前提である。そうでなければ、見事な結果を出すことなどできない。
さて、問題に戻って、能力がないものと能力があるものがいた場合、どちらか一方を使うとすれば、どちらを使うか。
能力がないものを使えば、間違いなく上司を補完できる仕える部下にはならない。一方、能力があるものを使えば、ある割合で、上司を補完できる仕えてくれる有能な部下ということになる。
だが、一方では、能力があるがために、上司に不満を持ち、上司に反乱を起こす構えをみせ、上司の足を引っ張る"使えない"部下になる可能性がある。これは、自分の能力の高さがあだになり、向かう敵な上司となるからである。
私の答えは明らかである。
既に何度も同じことを書いているが、私の基本は、『来るものは拒まず』だ。私は『この指とまれ』の中で、「こんな私に「この指とまれ」。こんな私が嫌なら来なくて結構。「来るものは拒まず」、能力は問わない、やる気だけだ。そんな人なら誰だって良い。」とも書いている。
つまり、黎明期の企業にとって重要なことは、足の引っ張りあいをすることよりも、どれだけ一致団結できるかということに尽きる。能力のあるなしよりも、好きか嫌いか、方向性、目指すものが一緒かどうかだけである。
これは誤解を恐れずに言えば、排除の論理と言っても過言ではないかも知れない。
だが、同時に誤解してほしくないことは、能力のあるなしよりも、好きか嫌いかと言ったが、それは決して好きか嫌いかのほうが、能力のありなしよりも上だということではない。私が最も理解してほしいのは、むしろこちらの方である。
団結し、強く、有能な組織を形成するのは、上司が部下に仕え、部下が上司に仕えることができる関係である。補完できる、仕えることができるの能力がある人しかあり得ない。ここでは、具体的にどんな能力が問われるかが問題ではなく、上司の足りないところ、部下の足りないところを補完できる能力ということである。つまり、補完しようという気持ちが持てないようでは、どんなに能力があってもその能力を発揮できないのである。
私は、この仕えることができる組織を目指すべきだと考えている。だから、能力がない人よりも能力がある人を求めることは当然である。当然ではあるが、例え能力があったとして、お互いに補完できる相性が合わなければ、能力よりも、相性を重視するということである。
さらに、最も重要なことは、仕えてくれない部下の側に一方的な問題があるのではなく、仕えるに値しない上司の側にも相応の問題があるということを、上司は理解することである。
上司は、権力者だ。いつでも気に入らない部下を切ることも可能だろう。自分に逆らう仕えない反乱分子として切るのは簡単だ。しかし、本来、能力がある人間を切るというのは、上司の失態である。上司の能力不足、器の小ささである。そんな上司に嫌気をさすから、折角有能な部下が反乱を起こそうとするのである。
能力のない人間を使い勝手が良いと使う上司は、仕える部下を持てない。反乱されないように、使いえない部下を集めているだけである。本当に有能な上司というのは、能力がある、一歩間違えれば反乱を起こすかも知れないくらいの有能な部下を、側近におくことができるかだ。
私は、能力よりも、相性を重視すると言ったが、それはあくまでも仮に同じ能力だった場合のケースである。もし、仮に、相性が同じで、能力に違いがあれば、それは当然に能力が高いほうを選択するのは間違いない。
何れにしても最も求める人材は、能力が高く、相性が合い、お互いを補完できる関係である。
より高い能力を持った人間を側近にしたいと思うのなら、自分自身がより高い統治能力を持った上司にならなければならないのである。それぞれが異なった能力を認め合うことができれば、それが相性というものである。
そもそも補完する能力がないのなら、相性も何もない。
仕事ができるということは、仕える能力があるということ、つまり補完できる力を持っているということだ。
仕える能力がなければ、仕事ができるとは言えないのである。それは、仕える側も、仕えられる側も双方に言えることである。
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投稿者 :堀田信弘: 2009年9月26日 05:07