【堀田信弘の今日の語録】 『この会社は、きっと伸びるだろうな。他の会社と違うことができること自体に可能性を秘めているから。』


教育について  「活・喝・勝」


判ると解ると分かる

私は若い技術者であった時、日々、顧客システムのトラブルシューテイングを担当していた。私が、最初に先輩から徹底して教えられたのは「トラブルは問題ではない」ということである。顧客との会話や議事録には、「問題」という言葉を用いることさえ禁じられ、徹底されていた。

トラブル(trouble)を辞書で調べると、"揉め事"、あるいは"騒ぎ"というような意味となる。問題は、problemやaccidentであり、トラブルはその前段階だというのが、「トラブルは問題ではない」の根拠となっている。

つまり、トラブルが発生して時点では、"騒ぎ"であり、その騒ぎの内容を正しく分析し、それが事故や事件などの問題に発展するということなのである。場合によっては、"騒ぎ"を抑えることで、問題にならないこともあり得るし、あるいは、"騒ぎ"の原因を正しく理解すれば、その後に問題に発展したとしても、速やかな対応ができるということなのである。

それを、"騒ぎ"の段階で、何ら分析もせず、いち早くトラブル=問題としてしまうと、事故や事件と認定してしまうことになり、関係者間での対立を生むきっかけになりえる。対立構図になると、"騒ぎ"を抑える段階を越えてしまい、お互いが保身するため、原因究明も困難になる可能性があるのだ。

だから、「トラブルは問題ではない」というのは、単なる言葉の定義ではなく、トラブルが起きた際の心構えと、その後の対応を理解させるためのものであったのである。

事業を営んでいると、様々なトラブルが起こる。

もちろん、中には、事故や事件に発展する問題もある。それは結果なので、仕方ないことである。しかし、仕方ないで許されないのは、問題になる前の"騒ぎ"の段階で、トラブルとして正しい認識、分析、対応ができないこと、かつ最も問題なのはその段階で報告がなされないことだ。

先日、一緒に仕事をしている業者の方から、「トラブルは問題ではない」という言葉を思い出させてくれたメールが届いた。

「現時点で大きな問題に発展していませんが、二社間で認識のズレがあり、打ち合わせ中にギクシャクしたトラブルが起きました。私のほうで上手く仲介し、問題にならないように致します。ご一報まで。」とあった。

私は、「トラブルは問題ではない」という言葉を思い出したのと同時に、わが社の社員だったら、上司だけでなく、関係各位に、このように問題となる前段階で、"騒ぎ"であるトラブルを報告し、これからその対処に至る旨の報告ができるだろうか、と考えた。

判る、解る、分かるの違いが判るだろうか?

判るとは、あるささやかな事象が起きた時、それがトラブルだと判断できることだ。"騒ぎ"が起きても、"騒ぎ"と認識できなければ、トラブルであると判断できない。判断できないのだから、この時点で報告することも、あるいは、これから起こり得ることの想定も、その背景も、冷静に分析することなどできない。

判ろうとしない人がいる。

目の前で"騒ぎ"が起きているのに、自分の手に負えないほど大きな"騒ぎ"にならなければ、"騒ぎ"が起きていても、"囁き"くらいにしか認識できない。これは、判らないのではなく、判るイコール顕著化した問題と捉えているため、問題の前段階であるえ潜在的な問題という認識がないためだ。

そのため、揉め事に関わりたくないとの他人事となり、意図的に判ろうとしないのである。

このようなことを許すと、その後、問題に発展した際に、事の収集に手間がかかり、面倒なことになる。従って、判ろうとしない人間は、判らずやということだ。そして、判らずやこそが、トラブルメーカーなのだ。

トラブルだと判断できた後にするのが、解るということである。解るとは、トラブルの内容を的確に把握でき、時系列的に分析し、その内容の原因が解明できることである。"騒ぎ"と判れば、その"騒ぎ"の原因や発端が解るはずである。

つまり、判れば解るはず。ところが、ここにも解ろうとしない人がいる。

目の前で"騒ぎ"が起きているのに、自分がそこに巻き込まれて、火消し役となることを避け、面倒なことから逃げようと、原因や背景を的確に分析しようとしない。あるいは分析能力がない。何れにしても、トラブルだと判っているのに、そのトラブルの内容を詳しく解ろうとしないのである。

これも解らずやだ。この解らずやは、責任力の欠如、あるいは逃避癖がある、無責任でいい加減な人間だ。こんな人間がいると、見つけたのは私、片付けるのは別の人いう状態となる。はっきり言って役に立たない。

"騒ぎ"の原因や発端が解った後に行うのは、対処方法の選択である。一つの事象には、必ず複数の対処方法がある。まず、その対処方法をできるだけ多く洗い出し、そして、それぞれの利点、欠点を分析する。すると自ずから、最もベターな対処すべき方法が分かるはず。つまり、分かるとは、分別して、その違いが分かることである。

ここにも分かろうとしない人がいる。

端的に言えば、大原則である一つの事象には、必ず複数の対処方法があるということを認識していないのだ。最初に思い浮かべた対処方法で頭が一杯になり、次の手を考えることができない。そのため、複数の中から選択するということができず、思いつきで突っ走ってしまう。この分からずやは、論理的思考が欠如しているということである。

このような分からずやは、感情に流され易く、時にはパニックになって、冷静に段取りすることができないのだ。

判る、解る、分かるの違いが判るだろうか?

これが判らなければ、トラブルを収束することなどできない。

私は、二十代前半の頃、冒頭のように先輩から、徹底して教育を受けた。判る、解る、分かるもその時に学んだものだ。

さて、今の先輩は、後輩に何を、どのように徹底して教育しているだろうか。

あるいは、経営者は、部下に、徹底して教育しているだろうか。

「お前何て辞めてしまえ」と怒鳴るくらいに、厳しく教育しているだろうか。「辞めてしまえ」と言いきれないようでは、教育していないのと同じだ。「辞めてしまえ」と言って、辞められるのが嫌だと思っているから、言う前に辞められてしまうのだ。

「辞めてしまえ」と言って、それで辞めるような人などいらないというくらい真剣に、徹底して部下を教育する意気込みが必要なのだろう。

それが判らないようなら、辞めてしまえ。

それをあなたは、判るか、解るか、分かるか。

それとも、役立たずの判らずやか、解らずやか、分からずやか。

最後まで読んで頂き、感謝申し上げます。

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投稿者 :堀田信弘: 2009年9月28日 05:07