自分が生まれた日のことを知っているか。初めて熱を出した日を覚えているか。幼稚園に入園した日の天気はどうだった。
親はしっかり覚えているはずだ。親にとっての幸せは、あなたの成長そのものだったはず。親ならば、どれもこれも、昨日の日のように覚えていることだろう。
親は、子供のために仕事と家庭の両立に悩む。子供が生まれ、生活費もかかる。少しでも良いもものを食べ、良い服を着てほしいと考えることだろう。少しでも、楽しい思い出を作ってあげたいと、疲れた体に鞭打って、子供のために休日を楽しませようとするだろう。
それが親だ。
親は、子供のために苦労をするために存在すると言っても良いだろう。子供が生まれて、楽になることなどない。子供が成長し、やがて親の面倒を見るようになる時まで、親はずっとずっと子供のことが心配でならないのであろう。
親の気持ち考えろって。
それを言っても無駄だよ。親になったことがない子供が親の気持ちを判るはずがない。
ならば、親の気持ちなど考えなくても良いから、親を手間取らせるようなことだけはしないでほしい。親の面倒など見なくても良いから、自分のことは自分でやれるようになってくれればそれで良い。そんなに多くは望まない。
そういう私は、子を持つ親になった今でも、自分の親の気持ちを判っているかと言えば、嘘になる。時代も違うし、環境も違う。親が苦労したことなど、どんなに言葉で説明を聞いても、頭で判っても心底理解などできるはずもない。昔と今は違うと思ってしまう。
それを、親の心、子知らずという。
このことは、上司と部下との間でも同じだ。
私は、毎日毎日、部下のことを思い浮かべ、何を考え、何を求めているか考えている。
へこたれずに踏ん張ってくれるか、何とかこの辛い場面を乗り越えてほしいとか、逃げないで成長してほしいと願って止まない。そう書いても、綺麗ごとにしか聞こえないことであろう。
毎日毎日、資金繰りでハラハラし、今月の給料日は大丈夫かと眠れない日が続く。そんなことを書いても、それが社長の仕事だろうと、俺には関係ないことだと思うはず。
それが普通だ。
大体にして、親の心、子知らずなのに、上司の心、部下知らずというのは、何ら不思議なことでなく、自然な姿であろう。
だが、それが自然な姿と平然としているようでは、その程度の人間にしかなれないというのも、これまた自然な姿なのである。
普通の考えしか持てない人は、普通だということだ。
その普通の人が、将来、部下を持つ上司になってから、初めて上司の心、部下知らずと嘆いているようでは手遅れだということ。それに気付くかどうかで、もはや大きな差ができている。
私はかつて、良い上司に恵まれたことがあった。
その上司は、私をどんどん引き上げてくれた。それと同時に、その上司は、私にいつも悩みごとを漏らしてくれたのだ。私は、必死で、その上司のために問題解決の一翼を担いたいと思うようになった。
その上司が苦手なこと、やりたくないことを、できるだけ引き受けようと思った。首切りも私が勝手でた。その上司の先輩にも私は、注意をした。
さらに、その上の上司に、もっと自分の上司が動きやすいように働きかけたこともある。
今思うと、その時の経験が、今の私を育ててくれたのだ。
私が仕えた上司は、出来が悪いだとか良いだとかというようなことを言うつもりはない。私にとって、誰が上司になろうとも、私は『腹となり胸となる』ことこそが、部下の務めだと考えていたのだ。
出しゃばりだったところもあったと思う。何様だと先輩からいじめられたこともある。それでも私は、上司を持ちあげることが、自分が成長することだと理解していたのだ。
これは、その上司が好きだと嫌いだとかというのとは関係ない。優秀な上司だとか、無能な上司だとか、特別扱いしてくれたとか、そんなことではない。
ドライな言い方をすれば、上司のためではなく、自分のためである。ただ私は、どんな上司であろうとも、上司を持ちあげることが自分のためだと考えたのである。
それを、世渡り上手だ何て軽々しく言ってもらいたくない。何が世渡り上手だ。上司におべっかを使ったり、上司のご機嫌取りをするような次元の低い考え方と一緒にされては心外である。
私は、何度も言うが、自分のために上司を持ちあげようとした。その結果、出世も早かったのかも知れない。だが、私は、上司にすり寄って、出世するためにしたのではない。出世というのは、成果に対する結果だ。成果を出せるフィールドを大きくするためには、上司を助け、上司の成果を高めることが自分の成果になるのである。
それを軽々に、世渡り上手と一緒にしてほしくない。百歩譲って、あなたがそれでも世渡り上手だと言うのであれば、それと同じことをやってみろ。どんな方法を使っても良いから、成果を上げてみろ。上司から信頼を勝ち取ってみろ。
私は何百人もの部下を見てきたが、私にご機嫌取りで近寄ってくる部下で、まともに成果を上がられるようなものはいない。大体にして、上司になってみれば判るが、そんな部下を信頼できるはずがない。信頼できなければ、大きな仕事は任せられない。
それが判らないであろう。だから、上司の心、部下知らずというのだ。そもそもそれを理解できないようでは、上司の心など簡単に理解できるはずがない。
私は以前、『信用と信頼の意味』の中で、『私には、信用できる部下と、信頼できる部下がいる。だが、私が頼りたくても頼ってこない、あるいは私に頼われても、頼ることができない。お互いに、頼って、頼られるような、頼い合う相互関係を築くのは、極めて少なく、難しいものである。 』と書いた。
信頼できる部下というのは、上司の心を、ほんの僅かでも知ろうとする人だ。全てを知ってほしいなどと言うつもりはない。知らなければダメだ何ても言わない。知ろうとするつもりがあるか、そして、上司を持ちあげようと、上司を仕える能力があるかということだ。
それは、上司になってから知ってももう遅い。部下である間に、行動で示せないようでは、間違いなく、自分が上司になっても、上司の心、部下知らずとただ嘆くだけだ。
もしリーダーを目指すのなら、そのチームの中で、誰よりも上司のサポートをするべきだ。それができないで、自分がリーダーになった時、誰がリーダーを支えると思うか。自分がやってこなかったのだから、仕方あるまい。
上司が嫌いだからとか考え方が違うなどと、普通の人が言うその程度の考えでは到底、上司の心など知れるはずもない。知ろうとしないのだから。
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投稿者 :堀田信弘: 2009年10月30日 05:15