ルールとは何のために存在するのか。なぜマナーではだめなのか。ルールとモラルとはどう違うのか。
その答えについて、私はかつて社内朝礼『ルールとモラルとマナー』の中で、その違いを説明した。
罰則がない規則は、モラルであって、ルールではない。モラルは、できるだけ守ったほうが良いという道徳とか倫理感のこと。モラルを守らない人は、人間として恥ずかしいことであっても、それに対する罰則はないのだ。
マナーは、食事の仕方や、話かた、行儀などの礼儀作法のこと。マナーを守らない人は、常識を知らない人だが、これにも罰則はない。また常識というのは、一般慣例であって、国や地域、職場、職種によっても異なる。だから、環境が異なれば、常識は通用しない。何が悪い、何が良いということは軽々に言えないのである。
それに対して、ルールとは、罰則がある規則のことである。どんなに規則を作っても、それに反した行為をした際に、それに対する罰則がなければそれはルールではなく、モラルなのである。
時々、罰則がないルールがあっても良いのではという質問を受ける時がある。
私は法律家ではないから、専門的な意見は持ち合わせていない。だから、あくまでも素人の私的な考えであるが、守るべき事項を定めるルールに、守らなかった場合のことを明記しないのであれば、守っても守らなくても同じだということになるのではないかと、私は思う。
会社経営をしていると、マナーやモラルを呼びかけても徹底できないことに頭を痛めることがある。あるいは、これまではマナーやモラルで対応していたが、具体的なルールを設けていなかったため、問題が発生しても罰則を与えることができず、モラルハザードを起こすこともある。
それまで顕著化しなかった事柄が、一人の違反者の登場により、「破っても罰則がないのら、無理してモラルを守らなくても良いのでは」と気付かせる結果に繋がるのだ。人間は、誰だって規則で束縛されるのは本質的に嫌なものだ。
私は『自らに由る』の中で、『フリーダムは、拘束や束縛、規制などの概念がない存在しない完全に自由な状態のことを表す。好き勝手ができる自由の状態』だと書いた。
自由には、フリーダムとリバティーという二つの考えがある。会社は、フリーダムではない。だが、自由という日本語にしてしまうと、その違いは今一つ明確ではない。
そのことを象徴するかのように、先日、ある社員から「社員を信じて、軽やかなルールであるべき。不自由さを感じる。」という主旨のメールをもらった。
ここで言う自由ではないという意味の"不自由"とは、フリーダムではない、それともリバティーではないということを言いたいのか。私には把握できないが、何れにしても言葉の通り、社員を信じていないように映り、重いルールだと感じたのであろう。
ルールとは何のために存在するのか。なぜマナーではだめなのか。ルールとモラルとはどう異なるのか。
会社がどうだこうだという前に、ルールとはなぜ存在するのか考えてみることにしよう。
私は過去に『性善説と性悪説』の中で、上場企業の社長が述べた「企業は、ある意味、トラブルや不正との戦いであり、統制ができなければ企業が滅びる」というようなことを書いた。
それは、たった一人の不良社員が起こした不祥事で、企業が倒産の危機に追い詰められるケースが多々発生していたからである。
しかし同時に私は、『自分自身が束縛を嫌うから、自由度に対する考えは人一倍強い。だから、できれば統制はしたくない。』とも述べ、「私は、性善説にたった経営をしたい」と結論づけた。
つまり、私は、「社員を信じて、軽やかなルールであるべき」ということに対して、まったく同感であり異論はない。だから私は、最初にルールを定めるようなことはして来なかった。
マナーやモラルを重んじ、やがてルール化する。ルール化する最大の理由は、たった一人のたった一回の問題が発端となること多い。そういう意味で、私のやり方は、前述の上場企業の社長のような性悪説に立った事前の防御になっておらず、危機感的な考え方からすると失格である。
それは、私自身が「社員を信じて、軽やかなルールであるべき」と考えているからであり、性善説に立った経営をしたいからである。
しかし、現実には、フリーダムでもあるまいし、全くルールを設けないというようなことはできない。しかも、既に問題が発生していたとすれば、それに対する対処を講じない訳には行かないのである。同じ過ちが起こりえる状態を放置しておいては、一度目のミスは許されても、二度目は社会的にも絶対に許されないのである。
つまり、二度目に同じ過ちを起こさないようにするためには、マナーやモラルではなく、罰則を明示したルールでなくてはならないのだ。しかも、絶対に二度目が起こらないようにするためには、決して軽い罰則では意味がないのである。
従って、新たに定められたルールは、これまで無かったことに対する罰則だから、当然厳しく感じるはずだ。だが、それは本当に厳しいのか。何が厳しくて、何が甘いのか。
厳しいと感じるのはなぜか。そのルールに反し、自分がその罰則を犯す可能性が高いと思えば、厳しいと感じるのは自然なことであろう。
例えば、酒気帯び運転の罰則を考えれば判り易い。普段から酒を飲まない人にとっては、どんなに酒気帯び運転の罰則が厳しくなっても何ら関係ない。あるいは、どんなに酒を飲む人でも、車を保有しておらず車の運転をしない人にとっても、罰則の厳しさなど全く無関係である。
厳しいと感じる人は、その罰則を受ける可能性がある人のみなのだ。
ようは、これまでは違反しても軽いと感じていた、あるいは罰則の傍にいる側の人にとって、新たに定められたルールが現実として身の上に近づくからであろう。
もし、自分は全く酒も飲まず、車も保有していない人にとって、酒を飲んで運転する人を罰せることに対し、どれほどまでに厳しすぎると反対しようか。私は、法律家ではないから、全く理解できない。
もし、弁護士のように、自分のことではなく、他人の弁明者として、過失を犯した人にも何らかの理由や、その時の状況があるはずだと、その罰則は厳し過ぎると言うのであれば、そのような人に罰則を定めてもらったほうが賢明かも知れない。
さて、私は、「社員を信じて、軽やかなルールであるべき」ということに対し、同感であると言った。その意味は、できるだけ社員を信じ、もしかして悪事を働くかも知れないということは考えず、予め悪事を想定した堅苦しいルールは設けては行けないということである。だから、できるだけ細かいルールを設けず、少ないルールでもモラルで対応できるほうが良いと思っているのである。
しかし、経営者である以上、その信じていた社員の中のたった一人の不良社員が、モラルを破ったとしたら、それをそのまま放置することはできないのである。たった一人のために、これまで設ける必要がなかったルールを設けざる得ないことは理解してほしい。
そして、私が毎朝朝礼で社員に語りかけているのも、たった一人の不良社員が出ないようにするためである。そのたった一人さえ現れなければ、何も新しいルールなど設ける必要はない。全ては、そのたった一人のために、多くの社員が、堅苦しさを感じてしまうのだ。
私が行うことは、ルールを設けることではなく、そのようなたった一人の社員ができるだけ出現しないようにすることである。だが、そうは言っても、私は神さまではない。どんなに信じても、平気で裏切るものがでるのは人間の集団である以上、仕方のないことなのかも知れない。
それでも私は、性善説にたった経営をしたいと考えているのには、代わりない。そして、私も社員を信じて、軽やかなルールであるべきだと思っている。
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投稿者 :堀田信弘: 2009年12月 3日 05:44