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組織について  「活・喝・勝」


結果主義と成果主義と能力主義

昔から、営業職には、歩合制というのがあった。営業が受注した結果に応じて、営業手当てという形で支払われるものである。受注が多ければ多いほど、手当てが増え、受注できなければゼロということもある。

その割合、つまり歩合の割合が固定給よりも多ければ多いほど、結果によって給与が変動する割合が多くなる。

そのため、歩合の割合が多いということは、歩合の割合が少ないよりも、給与が多く支払われる可能性が高いということである。

この考え方を結果主義と言う。

目に見えやすい数値という結果によって、評価することである。このことと似ていて誤解されやすいのが成果主義である。

結果主義と成果主義を混同し、誤った評価をしてしまうことがある。欧米では、早くからこの成果主義による評価が用いられてきた。これに対し、かつての日本企業は、年功序列型であり、年齢や経験年数、学歴などによって等級化を用いていた。

この制度を職能制と言う。仕事の能力に応じて、等級化し評価しようという能力主義を取り入れた制度だ。

ここでまた、能力主義と結果主義、成果主義を混同してしまう人がいる。

始めに能力主義というのは、結果あるいは成果を出すかも知れないという潜在的な能力を元に評価するものだ。その潜在的な能力は、年齢や経験年数、学歴、役割などで決められた。

能力が高いと評価したとしても、あるいは能力を発揮してくれるだろうと期待して評価したとしても、それがすなわちそのまま結果や成果を生むとは限らない。そのため、事実上の期待値と言えよう。

期待通りに結果や成果を出した人は、等級が上がる。期待通りでなかった人は、能力給に相当する部分は上がらない。しかし、その当時の給与は、能力給だけでなく、年齢給や経験給あるいは、勤続給などの名目で基本給というベースがあった。これは、営業職で言う固定給のような歩合の対象とならないものである。

このため、事実上、結果や成果が出ず、期待通りでなかった人も若干給与が上がることになり、営業のように結果によって給与を変動させたり、ゼロにすることができなかったのだ。

私が人事制度を勉強し始めた1990年代後半、バブル崩壊に伴い、リストと合わせ、多くの企業が成果主義を導入しようとした。能力主義を取り入れた職能制では、正当な評価ができなかったからだ。

しかし、いくつかの企業では、成果主義を導入し失敗した。

私は、その当時から、失敗した企業の成果主義は、結果主義と誤解し、混同して用いた結果だと考えた。

では、結果と成果は何が違うか。

冒頭の営業職は、結果主義である。明らかに目に見える結果だけで評価するからである。これに対し、成果というのは、結果も含んだものである。

結果も含んだものであるということは、結果以外の何らかのものも含めるのが成果なのである。例えば、役割だとか、過程だとか、貢献度だとか、具体的に数字で表現することが困難なものである。

それをあえて数値化し、結果と同じようにしてしまうと、結果主義も成果主義も一緒になってしまう。例えば、新たな顧客と新規取引ができたのに、それが赤字であったら、結果としてプラスマイナスゼロになるような場合もある。

しかし、私は、数値化して評価しようという試み自体は、間違っていないと思う。問題なのには、どんなに数値化しても、数値化し難いものを合計すれば、数値化の係数、配分、重みによって、正当に評価できないことがあるのである。

さらにもっと問題なことは、そのように数値化された評価を、受け入れる側の社員が理解できないことである。理解できなければ納得できるはずがない。頑張ったことには変わりないのに、報われないと感じてしまうことである。

結局は、部下の活躍を、どう上司が評価するかであって、数式を用いて作成された評価システムでは成果を表せないということである。それが欧米の成果主義と異なるところだ。

欧米の成果主義は、上司と部下が話し合って、予め目標や期待すべき役割を定める。その達成度合いによって、どんな成果を認め、何は認められないのかを、予め定めた目標や期待すべき役割に沿って、評価する。

例えば、今期は売上げアップを期待するという目標を定めたら、その時には赤字にならなければ利益を求めるものではないことを確認するのだ。そのようにして、目標をできるだけ単純化し、あとは、数値に頼らず、上司の期待に応えたか、信頼できる部下かと言った曖昧さを有効に使い最終評価することである。

日本人が苦手なことは、この曖昧さである。

部下から曖昧であることを指摘され、上司は堂々とそれに対し反論できない。反論できないから数値に頼ろうとする。さらには、『嫌われたくない症候群』となり、部下に甘い評価をしようとする。その結果、評価に差を生むことができない。差が生まれなければ、評価の意味が薄れるのである。

私の考える理想の評価制度は、実に単純だ。

一般職は成果主義で、管理職や営業は結果主義である。さらに、一般職の成果主義は、結果の割合が5、残りの5は、上司からの期待、求める役割、上司との信頼関係に対する数値化し難い結果である。

そこには、年齢も学歴も、性別も国籍も関係ない。そして過去の経験も不問だ。何をしたのか、払っている給与に見合っているかどうかである。

そして単純に、80対20の法則に則り、2割の優秀者だけをできるだ多く配分されるよう評価する。さらに成果があがらない2割についてはマイナス評価をし、残りの6割は、評価に差を持たせない。

普通の会社は、最も人数が多い普通の成果をあげた6割の人に対し、緩やかな差を設けようとする。しかし、その差は僅かでありながら、それに対して一生懸命に労力を使っても、評価される側から全く評価されない。

6割の人には、一生懸命にやってもやらなくても、評価されないのである。なぜなら、評価されるということは、給与が上がらなければ評価に値しないからである。

そして、評価される側は、結果や成果よりも、努力や能力、過程を認めてほしいと考えており、その考え方の溝は、永遠に生まれない。

経営者が経営努力して行わなければならないことは、そもそも評価することよりも、会社全体の業績を上げ、6割の普通の人へも還元できるようにすることだ。これは評価システムの問題ではない。

普通に働いている人が報われるようにするのが、経営者の仕事なのである。立派な評価システムを作ることではない。どんな陳腐な評価システムを用いても、優秀な人は2割だし、成果があげられない人は必ず2割出るものである。

それならば、評価システムはできるだけ単純で、かつ、評価に時間と労力を使わないほうが、それこそ、会社の業績に貢献できる。

面接して評価するのも重要だが、その時間に成果をあげられるような配慮してあげるのも、重要なのではないか。大体にして、評価側の上司が、皆が幸せになるように、営業をして結果をあげていれば、評価などする必要もあるまい。

まずは、上司自身が結果を出せばそれで良い。

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投稿者 :堀田信弘: 2009年12月11日 05:47