【堀田信弘の今日の語録】 『この会社は、きっと伸びるだろうな。他の会社と違うことができること自体に可能性を秘めているから。』


リーダーについて  「活・喝・勝」


過猶不及(かしふきゅう)

儒学の中の基本的な概念に中庸という考え方がある。私はかつて、『中庸という生き方』の中で、『私のポリシーは、中庸という生き方だ。それは、右でもなければ左でもない。上でもなければ下でもなく、思想や宗教、政党などによる大きな塊からなる考え方に、自分の考えを左右されたくない』と書いた。

私は、儒学を真剣に学んだ訳ではないから、私が書いた私の中庸という考え方は、儒学的に言って必ずしも正しいものではないのかも知れない。

私の勝手な中庸の捉え方は、片方の考え方に偏らず、それに枯死せず、右も左も、両方の考え方に耳を傾け、その時々で、自分の判断で物事を決めて行くというものである。そして、同時に、中庸という考え方は、決して中間を取るというものではないと言うことである。

中間を取るは、中庸ではない。中庸とは、悪い言い方をすればどっち付かずだ。違った見方をすれば一匹狼である。群れず、流されないということである。

私にとって、中間を取ることでないというのは、私の生き方の中で、とても大きな考え方のベースになっている。二つを足して二で割るような考え方ではなく、自分の判断で、一方を選び、一方を捨てるという考え方である。少し乱暴な考え方かも知れないが、玉虫色決着は好きでないのだから仕方あるまい。

もし、そのような考え方は、中庸とは言わないのだというのであれば、中庸という言葉を使うのは辞めよう。そして、それならば中庸とはどんな考え方なのか教えてほしい。

そんな疑問を表すかのように、孔子の考え方がある。

子貢が「師と商とでは、どちらのほうが優れているでしょうか。」と尋ねる。すると先生は、「師は何事につけても度を過ぎている。商は、物足りない。」と応えた。「それならば師のほうが優れているのでしょうか。」と子貢が尋ねると、先生は、「度が過ぎているのも、物足りないのと同じことだ。」とおっしゃった。

これは、孔子の論語にある『過猶不及(かしふきゅう)』である。過猶不及は、『過ぎたるは及ばざるがごとし』として訳される。

私は『過ぎたるは及ばざるがごとし』の中で、『昔の長老政治のように、「まぁまぁ」と言ってそれぞれをなだめるような裁定をするのは、リーダーではなく、単なる行司役だ。行司役は、リーダーではなく、中立を好み、敵を作らない振り子の役目であって、行司そのものに考えが無いのである。』と書いた。

私の最も嫌いな言葉の一つである。

その理由は、度が過ぎているのもと、物足りないのとは別物だと思っているからである。

度が過ぎているということは、やり過ぎということで、物足りないというのがその対語であるなら、やり足りないということである。

やり過ぎとやり足りないということが同じであるはずがない。

それなのに、ちょうど良いという視点からすると、それからはみ出してしまうプラスというやり過ぎも、マイナスというやり足りなさも同じだというあまりにも単純な思考に反発すら覚える。

過ぎたるは及ばざるがごとしという考え方こそが、中庸だというのであるならば、私は中庸という考え方を否定する。それほどまでに過ぎたるは及ばざるがごとしという言葉が好きでない。

やり過ぎも、やり足りなさも、同じだから、ほどほどにしろというような考え方は、個性を殺せと言っているようなものである。

嫌われないように、バランスを取れと言っているようなものである。

平時のリーダーなら、それも良かろう。しかし、そんな間を取る、バランスを取るような采配は、リーダーがいなくてもできる。ましてや、それができるリーダーが有能なリーダーとは思えない。

もしそれでも有能なリーダーと言うのであれば、中庸思想のリーダーシップとは、人々の最大公約数を取るということであり、平均値を取るということであり、リーダー自信の考え方に基づいて、方向性を示すことではないということだ。それが、リーダーシップとは到底言いがたい。

私が考えるリーダーシップとは、リーダーが、リーダーの考え方を先に示し、それに基づいて、人々をまとめ、導くことだと考える。

その考え方の源として、片方の考え方に偏らず、枯死せず、右も左も、両方の考え方に耳を傾け、その時々で、自分の判断で物事を決めて行くというのは中庸ではないのだろうか。

だから、私は、過ぎたるは及ばざるがごとしという言葉が嫌いなのだ。

そして、私なら、やり過ぎを、やり過ぎるなとは決して言わないであろう。やり足りない人間と、やり過ぎる人間とを一緒にするなんて言うのは、やり過ぎる人間に失礼だ。

大体にして、世の中、やり足りない人間のほうが遥かに多いではないか。

あたかも、やり過ぎる人間も、やり足りない人間も同じような割合で存在するかのような誤解をしているが、どれほどまでにやり過ぎる人間という、尖った人間がいるだろうか。

ましてや、いつの時代でも、やり過ぎる人間が時代を切り開くのであって、やり足りない人間が時代を変えることなどできるはずもない。芸術の世界でも、商売の世界でも、誰もがやらないことを、誰よりも早く、やり過ぎだと言われるくらいに行う異端児こそが、変革をもたらすではないか。

私は、やり過ぎるくらに、生きてみたい。やり足りない人間と同じにはされたくない。そして、やり足りない人間との間を取った案で手を打ってくれと言われても、到底、受け入れられるはずもない。

私だったら、もしそのようなリーダーが私の上司なら、私はそのリーダーの元を離れるであろう。それは、そのリーダーに魅力がないだけでなく、私という私らしさを殺されてしまうからだ。やり過ぎを批判されていたら、やる気も失せるからだ。ほどほどにやったほうが良いのと一緒にされたらたまったものではない。

だから私は、過猶不及、過ぎたるは及ばざるがごとしのような考えかは持たないし、私の組織には、そのようなリーダーは不要である。

やり過ぎを嫌うというのは、言い換えれば、極端を嫌うという解釈なのであろう。

本来、孔子が言いたかったことは、右に傾いているのも、左に傾いているのも、どちらもよろしくないということだったはず。それが中庸である。

右とか、左とかではなく、この場面では、どの考え方が最も適しているのかを考えるべきだ。右と左の中間を取るのではなく、極端な右や、極端な左よりも、それを求めるのであるならば、その手前のところから、理想とする考え方に近づけるほうが現実的ではないか。

孔子の言わんとすることが、私の解釈の通りであるなら、中庸は私の求める姿である。

経営や政治は理想である。リーダーは、その理想に向かって、一歩一歩現実を変えて行かなければならない。いつまでも理想ばかりを求め、一歩も進まないよりも、その理想の一歩、あるいは二歩手前から、進めるほうが理想に近づく現実的な進め方である。

極端な考え方が悪いのではなく、極端な考え方というほど遠い目標に向かうには、少しでもその手前から進め、最終ゴールである極端な考え方に持って行けば良い。それを極端な考え方から一歩も譲れないようでは、最終ゴールにはいつまで経っても近づけないのである。

過猶不及に対する、私の解釈は間違っているだろうか。

過ぎたるは及ばざるがごとしという言葉を、その字のままに、度が過ぎているのも、物足りないのと同じことだとの訳だけを抜き出して、バランスが重要だと解釈するほうが、間違っているのではないか。

私は、儒学を真剣に学んだ訳ではないから、私が書いた私の中庸という考え方は、儒学的に言って必ずしも正しいものではないのかも知れない。だが、過ぎたるは及ばざるがごとしという言葉をバランスが重要だと解釈する人は、中庸という考え方に基づいて、私の考えの何が間違っているかを教えて頂きたい。

それをせずに、バランスが重要だと解釈して、過ぎたるは及ばざるがごとしという言葉を用いることは、もし、その人が仮にリーダーであるならば、使わないでほしい。

それは、過ぎたるは及ばざるがごとしという言葉が、一般的にバランスが重要だと解釈されているからで、それを聞いた、やり過ぎるくらいに一生懸命な部下は、やり足りない部下と同一にされるのを嫌うからである。

私は、誰が何と言おうとも、やり過ぎとやり足りないということが同じであるはずがないと考えている。これだけは、中庸という考え方を捨てても、一歩も譲れない。

私なら、やり過ぎるくらいの人間を認め、支援し、チャンスを与えたいのである。

そう、この私もそうだったから。

最後まで読んで頂き、感謝申し上げます。

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投稿者 :堀田信弘: 2010年1月 5日 05:45