【堀田信弘の今日の語録】 2010年9月 3日 『 左手と右手は、矛盾だらけだが、決して片方が無くなっても良いと言うものではない。矛盾の両輪は、私の目指すところ。』


リーダーについて  「活・喝・勝」


内弁慶に外地蔵

先月、札幌市円山動物園のボスとして君臨していた雄のニホンザル「ナカボス」が死んだそうだ。ナカボスは、奈良県で保護されて円山動物園に来た。外では全く目立たなかくおとなしいものの、地下のねぐらでは肩をいからせて威勢よく歩き回ることから、「屋内のボス=ナカボス」と名付けられたそうだ。

私に対しては、何様のつもりかと思うくらいに、威勢良く話をする人がいる。ところが、全体会議などでその人を指名しても、何も言えない。あるいは、お客の前では、小さくなっている。ナカボスのような人だ。

何人かで飲みに行く。大体の人は、隣の人か、前の人とだけ話をする。特に、初めて会った人やお客さまと同席する時などは、自分は"聞き手"とばかりに、自ら話をすることができない。そして、できるだけ自分より年下か目下のような人の傍に行い、目上の人の"聞き手"にはなろうとしない。このこと自体は、一般的だから、そのような人を攻めるつもりはないのだが。

問題なのは、ナカボスのようなリーダーだ。気の知れた人と飲みに行くと威勢が良いのに、初めて会った人やお客さまと同席する時に、自分は"聞き手"とばかりに話をすることができない。同じ話ができないにしても、仮にもリーダーと言われている人と、そうでない人とでは全くその評価は異なる。

事務所の中では、肩をいからせて威勢よく歩き回るも、外に出ると、全く目立たず、地蔵のようにおとなしくなってしまう。ナカボスのようなタイプを内弁慶に外地蔵と言う。

内弁慶に外地蔵というのは、いつもおとなしい地蔵のような人とは違う。人見知りとも違う。井の中の蛙が、井から出た時に何もできない様である。本人は、そのことを十分に気づいているはず。

もし気づいていないとしたら、それは人間として最低である。なぜなら、自分よりも立場が弱い、下だと思われる人の前だけで威張り、威勢が良く、外に出ては、部下の代表として強い者に立ち向かうことができないからである。その姿を見た部下は、さぞかしがっかりするであろう。

自分の前ではリーダー面しているのに、外では全く立ち振る舞われない。威勢が良いのは、自分たちの前だけだと嘆くことであろう。弁慶は、強い者を表す代名詞だが、内弁慶は、内だけの弁慶で、外に出るとボスとして役に立たない最低のボスを表す。

私は『厳しいだけがリーダーではない』の中で『私が、考える強いリーダーとは、考え方や、愛情や、指導力や、言葉や、行動力や、信念やらを持って、人を率いる魅力がある人のことである。魅力が多いほど、強いリーダーと言えよう。』と書いた。

また、『強くなければリーダーではない』の中では『逃げ出せない孤独。それを背負うのがリーダーだ。辞めれば済むという程度の逃げ出す覚悟なら、責任がないのも同然だ。』と書いた。

リーダーとは、厳しいだけでもダメだが、優し過ぎるのもダメだ。魅力が多くなければダメなのだ。魅力とは、部下がリーダーの姿を見て、なるほどと頷ける存在でなければならないのである。そして、部下の前で戦ってくれる逃げ出さないリーダーでなければならないのである。

その正反対である内弁慶に外地蔵というようなリーダーは、リーダー失格という次元ではなく、人の上に立つ人間としてあってはならないのである。

しかし、人間は、例え井の中であったとしても、自分の存在を認めてもらうと威張るものである。威張れば威張るほど、その存在に周囲は、認めたくなくなるのにだ。自分が部下であった時は、そのことを良く知っていたにも関わらずにずに、いざ自分がそのポジションに就くと威張る。

偉い人と偉そうな人』の中で、『「偉そうな人」とは、偉くもないのに偉そうにしているダメ人間である。「偉そうな人」は、とにかくポジションや肩書きにこだわる。』と書いた。偉くないにも関わらず、偉いと言われたいのであろう。そのような偉そうな人は、内弁慶に外地蔵と同じだ。

『偉い人が立派な人ではない。「立派」というのは、僧が、流派から分かれて一つの派を立てることから由来していると言う。流派に入り、修行をして育ててもらって、やがて分派し独立して、新しい派を立ち上げるような人を言うのだ。』と『立派な人』の中で述べた。

偉そうにしている人が立派な人であるはずがない。内弁慶に外地蔵は、内には立派であることを認めさせようとするも、誰から立派だとは思われず、外では、偉そうにすることさえ出来ない情けない人だ。

これまで様々な経営者や政治家と出会ってきたが、内弁慶に外地蔵タイプというのは多い。そういう私も、大海という外海に出れば、否定することができないほど、小さな存在だ。

だから、リーダーと言われる人は、どんな人であっても、誰しも内弁慶に外地蔵タイプになり得るのだということを忘れてはならないのである。

だからこそ、一歩外に出た時にこそ、小さいながらも、部下を背負って、リーダーとして堂々と在らねばならないのである。それが中々できないからこそ、内にいる時には、肩をいからせて威勢よく歩き回るような内弁慶にはなってならないのである。外弁慶になれないのだから、内弁慶になってはならないのである。

私は先ほど、本人は、そのことを十分に気づいているはずと書いた。それは、気づいている人はまだマシだからである。しかし、マシであろうが、気づいていないだろうが、実は結果は同じだ。

もし気づいていないとしたら、それは人間として最低であると言ったが、仮に気づいているとしたら、最低以下ではないか。気づいていながらも、内弁慶に外地蔵を繰り返し行うようでは、誰がその人について行こうか。誰がその人に従おう。誰がその人を人として付き合うだろうか。

単に、弱いものいじめをするような人ではないか。

強い人に立ち向かえないことは、理解できる。外は厳しいから、外で存在感を表せないのは判る。人見知りをする性格やら、人と話をするのが苦手だというのも判る。だから外地蔵になることは仕方あるまい。それは、誰しも同じだ。少しづつ、少しづつしか改善できないのである。

それなのに、内でだけ、威勢良く、自分だけが完璧な人間で、偉く賢い人間だと、威張っているのか。それを、地位を利用した、弱いものいじめと言わずして、何と言おうか。パワハラである。

リーダーというのは、孤独である。孤独でも、たった一人でも一歩前にでなければならない存在である。そして、どんなリーダーであろうとも、完璧な人間など在り得ない。だからこそ、内弁慶に外地蔵になってはならないのである。

リーダーだからこそ、内弁慶に外地蔵になってはならないのである。人間の世界で、ナカボスは許されないのである。ナカボスは、きっとしっぺ返しを食うだろう。

もっと言えば、例え外地蔵になってしまうにしても、内弁慶にだけはなってならないのである。

それなら、内地蔵に外地蔵のほうがまだマシなのだ。

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投稿者 :堀田信弘: 2010年1月 7日 05:05