難題の無い人生は"無難"な人生。 難題の有る人生は"有難い"人生。 とは、今話題の筆談ホステス、斉藤里恵さんの言葉だ。なるほど、と思わせる深い言葉である。
世の中には、何もない無難な人生さえも送ることが困難な人が沢山いる。しかし、考えてみれば、何もない無難な人生が、有意義な人生かと言えばそうとも言えないのに。
私には、生まれながらに障害を持つ息子を授かった。その瞬間は、神様を恨み、なぜ私だけがこんなことになるのだろうとも思った。これから起きえる困難な道筋に、絶望的な気持ちになったこともあった。激昂して生きていこうかと思ったものだ。
しかし、彼が生まれたお陰で、私は様々な障害を持つ人や、同じ悩みを持つ親、さらにはそれらを支えてくれるボランティア活動に励む人などと出会った。もし、彼が生まれて来なかったら、私は、どれほどまでに傲慢で、人の弱さや、優しさに気付かなかったかも知れない。私は、悲しみが人を優しくすることも知った。
多くの涙も流し、何にも代えがたい嬉しさをも経験した。障害を持つ兄妹である『娘の心』も知ることができた。これは、難題のある人生を歩ませてくれたお陰なのかも知れない。本当に有難い。
私が経営者になったのも、無難な生き方を嫌い、大きな挑戦がしたかったからだ。それは当然、難題の日々が待ち受けているのは間違いない。しかし、難題を解決した時の喜びは、難題が何もない無難な人には味わえないし、やり甲斐のある仕事だ。
しかも、一人では解決できない難題には、様々な人との出会いと、手助けがあり、心から有難いと思うことが沢山ある。
無難と有難いという一文字違いの言葉だが、このように考えると、無いのと有るのとでは、これほどまでに差があるのかと振り返ることができる。
ところで、無い字がつく言葉には、良い言葉がない。
無責任、無関心、無頓着、無知、無常、そして無礼など、本来、無ければならないものを持っていないと言うことは、良くないということだ。
無神経、無表情、無計画、無気力、そして、無感動。
当たり障りの無い無難な人生を求め、その結果、安定した生活を望み、公務員を希望する。彼らは「公務員は、経営破綻しないで安定しているから」と志望動機を述べる。
この動機を聞いた面接官は、「なるほど、こいつは公務員向きだ。さすが公務員のあるべき姿を理解している。」と思うのであろうか。どっちもどっちだが、そのような人間に、我々の税金を配分することで、彼らは安定した生活をし、そして、彼らが住民のために、死ぬ気で本気で何かをしてくれるはずもない。
誰もが波乱な人生など望むはずがない。できれば穏やかで、波風の立たない安定した生活ができればと思う。人並み以上に裕福にならなくても良いから、長生きして無難な人生を静かに送りたいと考えることは自然なことである。
しかし、翌々考えてみれば、無を望めば望むほど、人は、自己中心になるではないだろうか。
安定を望めば、不安定を避けようとする。トラブルに巻き込まれないように無関心となり、責任を取らされる立場を嫌って無責任を謳歌する。無表情で、無礼だと言われようが、ストレスが貯まらないように無神経になる。無気力と言われようとも、無鉄砲なことさえしなければ、公務員ならOKだと考える。
無とは、これほどまでに人を自己中心とかし、駄目にしてしまうのか。
ちなみに私の父も公務員だった。しかし、父は、安定を望んで公務員になったのではない。仕事の内容で選び、たまたまその職業が公務員というだけだ。例えば、悪を撲滅し、世の中の治安を維持したいという志で、警察官を志望するならば、その道は決して安定的なものではない。殉職もあり得るし、転勤もしばしばで、常に危険にさらされる。唯そこに有るのは、志である。
これほどまでに無いのと有るのとでは、人生が異なってくる。
有意義、有能、有利、そして有難い。
無いという言葉に比べ、有がつく言葉は意外に少ない。それは、有ることよりも、無いことを戒める言葉が多いからではないだろうか。
有を無にしようとする試みが、仏教である。人間にある数々の欲望や煩悩を無にすることで、無の境地になる。しかし、それに向かう姿は、決して無責任、無関心、無頓着、無知、無常、無礼ではなく、無気力では、なし得ない。
一方、無から有を生むことはできようか。
できない。
何もない砂漠の真ん中で、何かを生みだそうとすれば、何か有るものを持ち込み、変化を起こさなければ何も起きない。まったくの無の状態に、何かを持ち込まなければ、絶対に有は有りえないのだ。
つまり、無責任、無関心、無頓着、無知、無常、無礼な人を、有の状態にするには、無であるその人自身では、外からの強い刺激を受けない限り、有に変わることはないのである。しかも、本人が、無神経、無表情、無気力と、無を望む状態であるとしたら、外からの強い刺激にも無頓着であり、有の側が限界を感じてしまうことだろう。
有の側は、気力と責任と、強い関心を持って接するも、持ち続けなければならない強い意志が試されるのは、有の側で、無の側はほんの僅かな一歩だけ踏み出せば良いに過ぎないのだ。無を有にするには、有の強い力が必要だが、無が有になるのは、有さえいれば僅かな力でも有になりえるのだ。
しかし、無のままでは何も変化しない。無から有は生まれないのである。有の力が必要なのである。
一方、有が無になるのも瞬間的だ。無という強い力に接すると、やれ切れず、耐えきれずに、一気に無に洗脳されてしまう。気力を振り絞っても、無気力を変えられなければ、疲れ果てて、こちらも無気力になってしまう。それほどまでに無は強く、無は憎い。
だからこそ、無にならないような心意気が必要なのではないか。
無から有は生まれないのである。
だから、私は、無に負けないように、気力を振り絞って、有を持ち続けたい。そうすれば、きっと有難いこともあるに違いない。ありがとうも無からは決して生まれないのだ。
私はこれからも、難題の有る人生は"有難い"人生だと思って、生きていく。
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投稿者 :堀田信弘: 2010年1月29日 05:14