努力して努力する、それは真のよいものではない。努力を忘れて努力する。それが真のよいものである。幸運を呼ぶ人は、失敗の原因を常に自分に帰すが、不幸を呼ぶ人は、失敗の原因を常に周りのせいにする。
これは、幸田露伴の『努力論』の有名な一節だ。
努力することを、何とか努力してやろうとしても、その程度の心意気では、所詮、努力は報われないということ。さらに、失敗の原因を自分のせいにして、一心不乱に、無我夢中で行動できる人でなければ幸運は訪れないのである。そればかりか、失敗を人のせいにしているようでは、不幸さえ招くということである。
努力をしているか。
そう尋ねられると、「それなりに」と答えるのが関の山ではないか。
努力することを、仕方なく、それなりに努力しているのあって、我を忘れんばかりに我武者羅に努力していると言い切れるか。
失敗し、反省し、何が何でも克服しようと取り組む。そして、また反省する。決して誰かのせいにしない。時には、危険をかえりみずに事に当たる。あるいは、一身をなげうって行動する。このことを、辞書には、体を張ると書いてある。
つまり、真に努力することとは、真に反省することであり、体を張って行動で示すことである。
体を張って生きているか。
身を削ってまでも、自分自身のために、努力し、痛烈に反省し、成就しようとする。必死で成就しようとするには、体を張って行動する以外にない。
愛する人を、危険をかえりみずに必死で守ろうとするのと、同じだ。それほどまでに夢中で取り組むことを体を張るというのである。
自分の身を投げ打ってまでも、愛する人を守るのは、自分がどうなっても、自分よりも大切な人を死ぬ気で守りたいからに他ならない。
言うのは綺麗だが、並みの愛情ではそこまでになれるのは至難なことである。もしかすると夫婦でもできないかも知れない。血の繋がった親子でなければ、難しいかも知れない。
それほどまでに、危険をかえりみずに、一身をなげうつという体を張るという行為は、容易くないのだ。他人のためではなく、自分自身のために体を張って行動することすらできないのに、愛する人のために身代わりになれないような覚悟をもてるのだろうか。
自分のためには死ねなくても、愛する人のためになら死ねるというのか。
同じ張るなら、そんな見栄を張らずに、体を張った姿を見せてみよ。虚しいだけだ。
誰だって、言葉では、愛する人のために身代わりになれるというのは簡単だ。しかし、自分のために体を張ったことがない人間が、何を言っても、軽い。
自分に甘く、失敗すれば他人のせいにし、努力しているふりをしているような人間が、愛する人を守れるはずもあるまい。自分だけが生き残れば良いと、深層では思っているはずだ。
体を張って生きているか。
この私は、未だ、努力して努力する、真の努力家になれていない。しかし、努力して努力は継続している。努力を忘れて努力する状態には程遠いが、それでも私は、努力している。それは誰よりも無能であることを自覚しているからである。そのために、体は張っているつもりだ。
死ぬほどまでに身を削っているかといえば、嘘になる。だが、まだまだ僅かであるが、私は、体を張って生きているつもりだ。
トップが誰よりも体を張らなければ、誰が体を張るか。私は、危険をかえりみず、自らが泥をかぶる覚悟で、指揮にあたっている。その指揮の結果は、誰のせいでもない、私の責任である。
私は以前、『腹となり胸となる』の中で、『腹心の家来である家老というのは、言い換えれば、武将の弱みもさらけ出すことさえできる、親友のような関係でもある。武将のほうは、自分が持っていない能力を持っていることを率直に認め、その家老に託すことができるくらい愛する部下でなくてはならない。』と述べた。
武将は、体を張って家老を守り、家老は体を張って武将を守る、これが腹心の中である。まさに、お互いに体を張る間柄だ。
トップとしての最大の仕事は、自らが体を張ることで、体を張って守ってくれる次代のリーダーを育て、次に託すことであろう。私は、そのような生き方をしたい。体を張って、そのような生き方をする。
体を張って生きているか。
まずは、人のためにの前に、自分のために体を張って生きてみようじゃないか。自分のためにできなければ、人のためにできるはずもないのだから。
そうして、失敗の原因を常に自分に帰すことを心がければ、きっと幸福がやってくるのは間違いない。私は、そう信じている。
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投稿者 :堀田信弘: 2010年1月31日 05:15