【堀田信弘の今日の語録】 『この会社は、きっと伸びるだろうな。他の会社と違うことができること自体に可能性を秘めているから。』


組織について  「活・喝・勝」


説得するな。説教しろ

私はかつて『説教と説得と説明』の中で、『説教とは、教え導くために言い聞かせること、説得とは、よく話し聞かせて相手に納得させること、説明とは、自分の考えを解き明かして、判り易く述べることである。』と述べた。

先日、 佐々木 宏さんが書いた『説教するな。説得しろ!』という本を読んだ。今回のタイトルは、それをひっくり返したものである。タイトルだけを見れば、馬鹿げていると思われることであろう。

著書によると説教人間は嫌われ、説得人間のほうが好かれるというのだ。

まぁそんなことは、言われなくても誰でも判ることである。誰だって説教されるのは嫌だ。だから余計に「あんたに説教される覚えはない」となるのであろう。それほどまでに、説教とは、上から目線だと思われるのである、これは普通の感情であろう。

しかし、私はこの本を読んで、説教するな、説得しろというのは、嫌われたくないのなら、好かれるほうの説得を行えとも言えるのではと思えた。そして、人が嫌がる説教をするより、説得して納得してもらったほうが良く、嫌われずに済むという訳だ。

これもまた、なるほど、当たり前の論理である。

一般の読者や、あるいはまだこの本を読んだことがない人からすれば、誰しも説教は嫌だと思っているのだから、説教人間は嫌いだということになろう。

だがしかし、説教と説得という全く異なることを、混同していないか。もう一度、よく考えて見ないか。

私は、説教とは、教え導くために言い聞かせること、説得とは、よく話し聞かせて相手に納得させることと言った。

言い聞かせることと、納得させることとは違う。

説教するな、説得しろというのは、言い聞かせることは嫌われるから、本人が納得するようにするというようなものだ。

そもそも説教とは、キリスト教などで、宗教の教義・教典を、その信者や民衆に、口頭で説き明かすことである。仏教では、説経(せっきょう)という。

しかも説教とは、単に教義・教典を伝えるだけでなく、説教者が、その意義、意味について、教えることである。ともかく、説教とは、納得させることではなく、考え方を教えることなのである。

その教えに納得でないこともあるかも知れない。あるいは理解できることもあろう。その中で、自分自身のためになると自らが判断し、それを受け入れる、受け入れるかいなかは、本人の問題なのである。

一方、説得とは、よく話し聞かせて相手に納得させることである。ある意味、納得していない状況において、親身になって話をすることで、納得するように転換させることである。説得するとは、簡単に言えば、気持ちを変えさせることなのだ。

説得によって、新しい気づきがあり、本人が納得して、気持ちが変わるのだから、それ事態は悪いことではない。しかし、このように分析してみると、本当に、説得が嫌われないかというとそうでもないような気がする。

説得した側は勝ちとなり、説得された側は、時に屈した側になることがあるからである。心底から、自分の判断で納得したのなら、説得してくれた人に感謝すらするのかも知れない。

例えば、目の前で自殺をしようとしている人を、何とか説得して引きとめたとしよう。そのことに対して、本人が説得されたことに納得すれば、命を救ってくれた恩人である。

だが、説得できなかったとすれば、説得できなかった人の説得力がないのか、あるいは説得に屈しなかった人の意思が強いのか、それは誰にも判らない。ただ判ることは、説得できないといことは、説得しても、その人の考え、気持ちは変わらなかったという事実である。

私はこれまで何度も、来るものを拒まず、去る者は追わずと言い続けて来た。その中には、説得してまで去るものを追わないという考えがある。

ある意味で、それは冷たいことではないかと思われることでだろう。しかし、私は、本音か建前かは別にして、自らが辞めると言っている人間を、説得して、気持ちを変えさせても良いことはないと思っているからだ。

他人から言われて気持ちを変えるような状態で、辞めると言い出すような人そのものが、私にとっては追う価値がないのである。うがった言い方をすれば、説得されて、引き止められることで、自分がどれほど大切な人間なのかを試そうとしているようにさえ思えてくるのである。

そういう意味では、冷たいと言われても、反論しない。ただ、辞める、辞めないで、駆け引きはしたくないだけだ。そのような事態に陥った時点で、私はその前の気持ちで、これからも同様に接することができないのである。

このように、私は、説得をするという行為は、好ましくないと思っている。

しかも、人の心など、そう簡単に変えることはできないと思っているのだ。

さて、恋愛はどうか。

男女が知り合い、恋する間柄になる時、頼むからこちらを愛してくれと説得しようか。相手の気持ちがこちらを向いていない時に、よく話し聞かせて相手に納得させること、すなわち説得をするだろうか。

私は、そのような場面では、人は説得ではなく、どちらかと言うと説教をするほうのが近いのではないかと思う。恋愛で説教などしていないと言うのは簡単だが、そのやり取りは、説得よりも説教に似ている。

説教とは、教え導くために言い聞かせることである。説得のように、納得していない状況において、納得するように転換させることではない。

恋愛で言えば、教え導くというのは、自分の考え方、自分の夢、自分の生き方などを語り、信頼、信用してもらうようにすることである。言い聞かせるといのは、話をして、そのような考えかがあるのだということを、知ってもらうということである。

知ってもらったうえで、それに共感できれば、恋愛に発展するであろうし、共感できなければそれまでである。納得するとかしないとかという次元ではない。

つまり、それは宗教でも同様である。牧師の説教、坊さんの説経に、共感が持てるかどうかは、受け取り側に委ねられているのである。説得のように、何とかこちらを向いてほしいというのとは異なるのだ。

説教されるのは、誰しも嫌なことだ。

しかし、リーダーというのは、教え導くために言い聞かせることをしなければならない立場である。自分の考えを明確に表明し、方向性を示し、共感を得るのが仕事である。

けっして、話を聞かせて相手に納得させることがリーダーの仕事ではないと思う。

説教されることは誰でも嫌だが、それでもリーダーは説教しなければならないのだ。説教するのが嫌だと言っているようでは、教え導くために言い聞かせることを拒むことであり、リーダーを降りるべきである。

私で言えば、このブログを書くという行為そのものが、説教なのである。これは、説得ではない。

共感できる人も、できない人もいる。それは、それで良い。

共感させるためではなく、共感してもらうためでもなく、まずは自分の考えを明確に表明し、方向性を示すことである。

リーダーとは、そのような存在ではないのだろうか。

最後まで読んで頂き、感謝申し上げます。

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投稿者 :堀田信弘: 2010年3月18日 05:27