【堀田信弘の今日の語録】 2010年9月 8日 『中身じゃないよ見た目だよ。中身がしっかりしているのなら、見た目もしっかりすれば良いんだよ。見た目がしっかりしていても、中身がないんじゃ話にならないが。』


悲しい出来事  「活・喝・勝」


理想と現実と他人

理想を追い求めると言いながらも、現実にはその理想の高さには、永遠に到達しません。到達しないから目指すべき理想でもあるのです。

目指すべき理想への過程において、周囲と比べて、自分のほうが現実よりも高い位置にいると錯覚してしまうようなことがあります。これは完全な自惚れです。

自分も理想への過程でもあるにも関わらず、上から下を見下ろしてしまうのです。実際には、同じ高さか、あるいは自分が下にいるにも関わらず、相手に、現状よりももっと高いことを望んでしまうのです。

何様のつもりだ、ということになるのでしょう。偉くもないのに、偉そうにしてと思われるに違いありません。

理想が高いということは、悪いことではありません。しかし、同じ理想を相手に求めるというのは、そう簡単なことではないのです。

個人個人で、理想の高さというのは異なります。やろうと思えばやれるのに、やっていない人もいるかも知れません。もっと高い理想を持つことで力が発揮できることもあるでしょう。

あるいは、理想どころか、現実の中で葛藤し、現実を生きることにも四苦八苦している人もいることでしょう。やりたくても出来ない弱い立場の人もいることでしょう。

自分の理想が高いということは、そのような弱い立場の人のことを十分に理解せず、自分と同じように高い理想を求めてしまう恐れがあるのです。そして、時には、それを理解できない人、あるいは、それを出来ない人のことを、軽んじてしまうようなところがあるのかも知れません。

私は、自分の息子が障害を持っているのにも関わらず、同じように障害を持つ弱い人の立場や、あるいは必死で生きようとしている弱い立場の人を、心底から理解するということが、今でもできていないと思うようになりました。

障害がない人が、障害者と同じような気持ちになり、障害者の苦しみを理解するというのは、簡単ではないのです。

そればかりか、障害者の周囲にいて、障害者と関わる健常者のことを理解するというのも実は簡単ではないのです。

息子には、一つ年下の妹がいます。さらに六つ下の妹もいます。

妹たちは、兄の面倒を良くみます。兄も妹たちにはとても優しいです。兄は、大好きな食べ物でさえも、自分が我慢して、優先的に妹にあげようとします。兄弟喧嘩など全くありません。

ある日、娘の友達がわが家に遊びに来ました。

娘の友達は、これまでお兄さんが障害者であることを知らなかったので、初めて彼を見た時は戸惑っていたようでした。

娘たちも、お兄ちゃんが騒いだりしたら困ると思いながら、何とか一緒に遊ぼうとしていました。しかし、彼は普通の子供と同じようにすることができません。そのため、一緒に遊ぶことが出来ないばかりか、むしろ彼がいること自体が邪魔になっていったのです。

それを察したのか、息子は一人寂しく自分の部屋で静かにしていました。

娘は、何度となく、一緒に遊ぼうとお兄ちゃんを誘っていました。

娘と息子のやり取りをしている姿を見た時、いつも一緒に暮らす親でありながら、妹である娘の気持ちを全く理解していないと気付いたのです。

もし、自分のお兄さんが障害者を持っていたらどう考えるだろう。もし、自分の妹が障害を持っていたらどう接することができるだろう、と考えてしまいました。

例え親であっても、兄妹の気持ちにはなれないものです。障害児の親だから、親の気持ちは判っても、自分自身の兄妹のこと出ない限り、その親でも理解することは難しいのです。

結局、障害者の息子を持って判ることは、障害者の息子のことではなく、同じような境遇を持った親のことしか理解できないのかも知れません。

障害者の息子を持っても、息子自身のことも、あるいは、その息子の兄妹のことも本当に理解するというのは、同じ立場にならないと心底から理解することは難しいのです。

同じように、娘たちには、障害者の息子を持つ親の気持ちというのは中々理解できないはずです。これは言って理解させるというようなものではなく、当事者でない限り、家族でも難しいことなのです。

家族のことでさえも、それぞれの立場や置かれた状況をお互いに理解し合うというのは、簡単でないことを知りました。ましてや、家族でもない他人の立場や状況を理解するということは大変な努力が必要なのです。

障害者を持つ親同士が集まっても同じようなことは起こります。

障害者の親たちは、同じ境遇を持つ立場から、共通の意識を持っています。同じ境遇を持つ人たちが集まって、これまでの経験したことや、体験したことなどを語り合い、何らかの参考にしようとするのです。先輩たちの経験は、とても勉強になり、これから起こるであろうことに対して、貴重な意見が聞け、仲間意識が芽生えます。

ところが、障害を持つ親と言っても、障害の種類は様々です。

全く話すことができない、あるいは歩くことができないというように、一言で言ってしまえば同じ障害者のようですが、その内容、状況、程度など、全く同じ人などいないのです。

障害者の親たちは、貴重な意見を聞いたり、仲間意識を持とうとして集まっているにも関わらず、簡単にはまとまらないのです。

お互いの障害の状況や内容、程度を聞きながら、同じような、似たような境遇の人たちの集団になって行くのです。

そのような姿を見ていると、結局集まっているのは、障害者自身ではなく、その親と言っても健常者の集まりなのです。

自分の子供よりも相手の程度が重いという話を聞けば、自分の子供のほうがまだマシだと安堵し、自分の子供のほうの程度が重いと思えば、この人と話をしても理解してもらえないと思ってしまうのです。

障害を持つ子供たちには関係ないことです。そもそも程度がどうかというのは、話を聞くだけは理解できず、仮に理解できたとしても、それに比例して家庭での負担が重いかどうかは、別物なのです。全く同じ障害の程度であっても、家族環境、仕事の中身によって、家庭の状況が全くことなるのです。

批判されるかも知れませんが、障害を持つ親が集まっても、健常者である親は、障害の程度を知り、自身の境遇、状況と優劣をつけているのかも知れません。

人間は、優劣を付けたがる動物なのかも知れません。優劣によって、自身が優にいると思う人は、劣にいる人の立場は中々理解できないのです。

障害を持っている人の気持ちまで察することができない人が、普通の人のことを理解できるはずがありません。結局、障害者の親であっても、障害者自身の苦しみなど判るはずもなく、ましてや、他人のことなど理解できるはずもないのです。

(次回に続く)

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投稿者 :堀田信弘: 2010年4月19日 05:59