生まれながらに障害を持つ息子がいたお陰で、多くの障害者やその親、さらにはボランティアの人たちと出会いました。
もし息子が生まれていなかったら、あるいは健常者として生まれていたら、人生観が変わっていたかも知れません。人間関係、人間付き合い、そして、自分自身の生き方、考え方、さらには死生観まで異なっていたと思います。
正直言って、息子がいなかったらどんなに楽であろうと考えたこともありました。もっともっと自分のための時間が取れるのにとも考えたこともありました。
でも、どんなに"もしも"を考えても現実を変えることはできません。悔やんでも、ましてや彼のせいにしても仕方ありません。誰も悪くないのです。
前向きに生きようと思いました。
障害者の親たちに会うと、「神さまがこの家庭なら大丈夫だとこの子を預けてくれた」ということを良く聞きます。それを聞いて、みんな前向きになろうとしているのだと思うのです。
息子が生まれて最も学んだことは、反省するということでした。
恐らく息子がいなかったら、人の優しさや、弱い人の立場、あるいは懸命に生きようとする人がいることを十分に感じられなかったかも知れません。障害者やボランティアの人との出会いを通じて、そのような人が沢山いることを知るようになりました。
世の中には、やりたくても出来ない人、必死で生きたくても死に近づいている人など、自分ではどうしようもできない人が沢山いるのです。それなのに、健常者は、いつでも、何でも、やりたいこともできるし、話すことも、歩くこともできるのに、やっていないのです。
その都度、もっと弱い人の立場や、本当の人の優しさとは何だろうと考えさせられるようになりました。同時に、直さなければならないところが沢山ある自分の欠点に気づくようになるのでした。如何に反省することが重要なのか、そして、人に反省を押し付けることがいけないのかなどを知ったのです。
ところが、どんなに自分の欠点に気づいても、痛切に反省したとしても、そう簡単に生まれ持った性格や、育った考え方を変えることなどできないのです。人間の意思とは弱いものなのです。
これまで投稿したこのブログの中で、『反省』という言葉を約120回も用いてきました。
如何に反省することが重要なのかを書いてきました。反省という言葉を用いる度に、何度も何度も自分でも反省しました。しかし、反省を行動で示すのは中々できるものではありません。
行動で示さなければ、反省しても、反省しなくても、結果として同じなのです。もっと言えば、口だけの反省などしなくても、何かに気付いた時、行動をこれまでと変化させるというほうがもっと重要なのでしょう。
日々会社の経営に携わっていると、様々なことが起こります。会社の規模が大きくなればなるほど、それに比例して起こる量も、起こる大きさも次第に大きくなるものです。同時にいくつもの問題が重なって起こることも珍しくありません。そんな時に限って、個人的なことや、家庭での問題も起こるものです。
つい先ほどまでは反省しなければと思っていても、問題が起こり、解決に躍起になって右往左往していると、いつの間にか反省することは二の次となり、何とかその場をやり過ごそうとしてしまうものです。
忘れるという字は、心を亡くすと書きますが、忙しいと、心を亡くしてしまうものです。
問題が起こると、目の前に傲慢な人が現れたりします。真剣に話をしてもいい加減に対応する人が出たり、あるいは人を騙そう、欺こうとする人も現れます。自分だけが良ければ良いと考える人も沢山出てきます。
問題が起こり、心を亡くしていると、その心に追い打ちをかけるように、嫌なことが続くのかも知れません。あるいは、心を亡くしているからこそ、人を傲慢に見えたり、嫌な人に見えたりするのかも知れません。心を亡くして人を見ているから、相手もこちらに嫌な感情を持つという悪循環に陥るのかも知れません。
神さまが耳元で囁きます。「そう簡単に反省させないぞ」と。反省しようとする心を吹き飛ばそうとするのです。
そのような時、どうやって心を穏やかにできるかを考えなければなりません。
反省できない最大の要因は、問題の最中に入っていると、心を穏やかにしなければならないということに気づくことすらできなくなってしまっているということです。
経営者のように日々、問題だらけの中で、問題を処理しなければならない状態にいると、中々、心を穏やかにしなければならないと考える余裕がないものです。
さらに、仮に心を穏やかにしなければならないと気づいたとしても、その方法も考えられず、その時間も取ることなどできないと思ってしまうことでしょう。
それが簡単に反省させない、反省することができない元凶なのです。
しかし、元凶が判りさえすれば、意図的に、意識的に、心を穏やかにしなければと自己暗示をかけるようにすることができます。簡単には、心を穏やかにすることはできなくても、穏やかにしようとする感情、意思が生まれるというだけでも大きな進歩なのです。
そう簡単に反省ができて、自己を改善できるようなら、人間は争いごとなどしないでしょう。みな神のようになることでしょう。それができないから人間なのです。
人間であるから、面白いのです。
何も神や仏のようになりたいから、反省をするのではありません。
これまで起きたことの全ては、明日からのためにあったと思えば良いのです。
これまで起きたことはなぜ起きたのか。何に気づき、何かを得るためにあったと思えば、これまでのことは全て肥やしになるのです。肥やしにしようとする気持ち、考え方、これこそが反省なのだと思うのです。
肥やしにように思わなければ、これまで起きたことは無駄になります。後悔になります。嫌な想い出になります。あるいは、より傲慢で、非情な人間になるかも知れません。それでは、また同じことを繰り返し、何度でも嫌なことが起こって苦しみ続けることでしょう。
普通の人なら、苦しみ続けられることに耐えられるはずがありません。もし耐えられるほどの強靭な精神、あるいは無神経な精神なら、反省などする必要はないでしょう。
しかし、どうせ起きたことなら、それを肥やしに、二度と同じことが起きないようにしたいと考えるはずです。一度起きたことより、二度目に起きないようにすることのほうが、遥かに人間を成長させることでしょう。
これまで起きたことの全ては、明日からのためにあったと思えば良いのです。それだけ考えていれば良いのです。そうすれば、きっと心も穏やかになることでしょう。
(次回に続く)
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投稿者 :堀田信弘: 2010年4月21日 05:59