経験をすることは、とても重要なことです。様々な経験によって、人間は鍛えられるのだと言って良いでしょう。仏教における精神の鍛錬の一つに修行があります。修行は、人間の欲望から解放され、生きていること自体に満足感を得られる状態するために行われます。
人間の苦しみの根源は、欲であるということから、その欲を取り除くには、苦しい修行をしなければならないと考えられているのでしょう。
確かに欲を取り除くための修行は大変苦しいことでしょう。しかし、熱心で真面目な仏教徒でないからこそ軽率なことが言えるのかも知れませんが、苦しみの根源である欲に乱れているこの世に生きることのほうがもっと苦しいのではないでしょうか。
人間は、何の経験もしなければ苦しむこともないでしょう。家の中にこもって、他との出会いもなければ余計な関わりも生まれないはずです。
しかし、人間には欲があるのです。もっと楽になりたい、もっと良くなりたいという欲があるのです。ある意味で、苦しい修行に加わり、欲望から解放されたいというのも一種の欲ではないでしょうか。
欲望から解放されたいという欲があるからこそ、あえて苦しい修行に参加しようと考えるのは邪道でしょうか。
結局のところ、人間は生きているだけで、それだけ修行しているようなものとも言えるでしょう。
仕事をして様々な経験をして、出会いをして様々な恋愛をしたりすることで、苦しみ、悲しみ、時には喜び、笑い、そして怒るのです。
中でも、人生の大半の時間を費やす仕事は、働くことで様々な経験と様々な感情、様々な欲求を与えてくれます。
人間関係で苦しみ、難しい課題で悩み、自分の限界を知り、時には助けてもらった時のありがたさと、嬉しさを知ることができます。
いっそのこと仕事など辞めてしまいたいと思うことは誰しもあることでしょう。
その瞬間です。その瞬間が、試されている瞬間なのです。
誰に試されているか、それは自分です。自分自身の弱さに対し、乗り越えるのかどうかが問われている瞬間なのです。
強くなるかどうかの瞬間なのです。だからこそ苦しみます。悲しみます。辛いことでしょう。
欲のために苦しんでいるのではないと思うことでしょう。何も要らないから、解放してほしいと願うかも知れません。頑張ってもお金になる訳でもなく、乗り越えても褒められる訳でもないかも知れません。それなのに、なぜ苦しまなければならないのだろうと、思うこともあるでしょう。
何かを経験をすることというのは、大それたことではなく、その程度のことなのです。
僧侶は修行をしますが、仕事では修業するのです。何も、特別な技や特別な体験をすることだけが修業ではないのです。
多くの修業、つまり多くの経験を積めば積むほど、人間は強くなります。経験の数、もっと言えば、汗や涙の数だけ、精神力が鍛えられていると言えるでしょう。
これまで経験した全てのことは決して無駄にはなりません。時間の経過とともに、過去の経験は小さくてチッポケなことに思えることでしょう。チッポケに思えるということが大きくなったという証なのです。
若いうちには買ってでも苦労しろという言葉があります。
同じ経験でも、苦労をしたという経験でなければ意味がないのです。苦労しない経験など、経験したことになりません。歯を食いしばって動き、失敗し、苦しみ、悲しんだ経験だけが、骨となり肉となるのです。骨となり肉となったのが自信なのです。
成功体験は、贅肉です。肥満の元です。
多くの経験を積んでいるうちに、中には肥満の元となる成功体験もすることでしょう。しかし、若いうちの成功体験は、年老いてから苦しみます。それは失敗した苦しみではなく、成功体験から抜け出せない苦しみです。言い換えれば、良かった時の想い出から出ることができず、次第に体力と知力が奪われていく状態です。
経験が邪魔をするのです。若いうちは経験を求めていたのに、経験が豊富になると、経験が余計な邪魔をして新しい経験を受け入れなくなってしまうのです。
このことは誰にもやがて訪れることでしょう。新しいものに向かう好奇心が継続できるかと、未知への期待と欲望が継続できなければ、新しい経験をすることに憶病になり、恐怖になることでしょう。
できるだけ多くの経験をしたほうが良いことには間違いありません。経験が少ない人よりも、経験が多い人のほうが、難局な場面や困難な状況を乗り越えるすべを知っているからです。
しかし、経験の数が増えれば増えるほど、経験論で物事を考えるようになります。好奇心や未知への期待と欲望が旺盛な若いころは、経験不足を、若さという勢いで補うことができるのです。
それが若さの特権です。若さは、怖さを知らない強みです。未経験だからこそ、これまでと違った方法で立ち向かうことができる可能性を秘めているのです。
今の社会は、もはや過去の経験では語れないほど、複雑で未知数なものになっています。現代社会では、経験した人も、経験していない人も、全く関係なく、新しい発想や新しい考え方が求められ、受け入れられる状況なのです。
経験した人は、過去の経験におごってはいけません。過去の経験は、もはや通用しないのです。しかし、過去の経験は、方法として通用しなくても、その経験は確実に自信となっています。だから無駄ではありません。その自信を持って、新しい経験に立ち向けるかどうかが問われるのです。
経験していない人は、経験者の話に耳を傾けなければなりません。もはや通用しない方法だとしても、それを分析することで、新しい方法が見つかるのです。そして、未経験であることを活かした新鮮で斬新な発想を行動で示すのです。
しかし、経験していない分、かなりの確率で失敗することでしょう。でも、失敗しても、その経験に携わることができた勇気が、次のさらなる挑戦に繋がるのだと思います。
逃げては行けません。この場から、この状況から逃れようとしても、何ら自分のためにはなりません。そればかりか、きっと将来、やった後悔よりも、やらなかった後悔をすることでしょう。
今この瞬間だけ、逃げて、逃れて、楽にしようとしても、人生においては、何ら楽にはならないのです。せっかく成長しようとした芽を自ら摘むことは、これからも逃げて、逃れる人生が待っているだけなのです。
(次回に続く)
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投稿者 :堀田信弘: 2010年4月25日 05:00