自分から逃げない、というのは簡単なようで簡単ではありません。自分ほど厄介なものはないのです。
誰でも人間は、楽なほう楽なほうに流されるものです。誰だって進んで、辛い方、嫌な方を選ぶことなど簡単にはできないのです。できないどころか、しないというほうが自然な姿なのかも知れません。
興味があることや、楽しみなこと、安全で安心なことなど、自分に危害を及ぼさないと予測できるものに関しては、自分から進んで行動しようとします。
人から言われなくても進んで行動できるということは、その行動の先に明るい結果が見えているからなのです。それを私たちは、自信と言っているのでしょう。
しかし、行動の先に、どのような結果が待ち構えているか分からない場合や、過去の経験から嫌な思いをしたことがあるなど、決して明るい結果が予測できない時、誰しも進んで行動しようとはしません。これは当然なことです。
「なぜやらないのだ」とどんなに叱られたとしても、嫌なものは嫌だし、例え渋々行動したとしても、嫌な気分でやったものは、当然結果も比例しますから、予想通りに悪い結果となることでしょう。それで逃げ出したくないはずがないのです。
つまり、「自分から逃げない」と言われても、自然に湧き出る、逃げ出したくなる感情は抑えきれないものなのです。
では、抑えきれないからと言って逃げだしても良いのでしょうか。
興味があることや、楽しみなこと、安全で安心なことなど、自分に危害を及ぼさないと予測できるものだけを選択し、それ以外のものは排除すれば良いのでしょうか。
仮に、そのようなことは現実的にできるのでしょうか。もし、そのようなことが可能で、誰にも迷惑をかけず、ストレスもなく生きられたら、どんなにか楽なことでしょう。
楽しいことばかりの人生かも知れません。ところが、普通に生活していたら、嫌なことを避け、楽しいことばかりを選択することなど不可能に近いのです。
不可能に近いということを認識することさえできれば、様々なことがあり、決して自分に都合の良いものだけを選択できないということを認識できるはずです。世の中そんなものだと、仕方なくも認識できるのと、認識できないのとでは大きな差が生まれます。
普通に生活していたら不可能なことであっても、普通に生活しなければ可能になることが考えられるからです。
例えば、引きこもりです。嫌なことの多くは、自分からではなく、他人との関わりから持たされることを知り、対人関係を断とうとすることで、嫌な思いをしなくても良いと考えるのです。
学校にいけばいじめられる、いじめられるのが嫌だから学校に行かないというのは、この論理でしょう。学校に行かないで、家にいれば、好きなことができ、いじめられることもないのです。
ただ一度そのような状態になったら、中々そこから抜け出すことが困難になります。一度、安心で安全な環境の中で、自分のペースで自由に使える時間を持つことができる経験をすると、それ以外の全てが恐怖であり、不自由であり、辛くて嫌なことばかりに思えてしまうのは当然なことなのです。
どんな人でも、一度そこに踏み入れたら、そこから出ようという気にはならないでしょう。
先ほど前段で、『自分から逃げない、というのは簡単なようで簡単ではありません。誰だって進んで、辛い方、嫌な方を選ぶことなど簡単にはできないのです。できないどころか、しないというほうが自然な姿なのかも知れません。』と書きました。
つまり、自分から逃げ出そうということは、引きこもりの事象と酷似しているのです。この世の中は、誰でも引きこもりになる可能性は十分にあるのです。
ではどうしたら、この世の中では、決して自分に都合の良いものだけを選択できるものではないと認識し、そこから逃げないようにするのはどうしたら良いのでしょうか。
それは、自分から逃げないのではなく、他人から逃げないことではないかと思います。
前述したとおり、自分から逃げないというのは至難なことです。辛いほうを敢えて選択するというのは、自分から逃げないという気持ちがあっても簡単にできるものではありません。
それよりも他人から逃げないことです。この世で起こる出来事の大半は、必ず他人との関わりの中で生まれます。他人と関わるからこそ、嫌なことも辛いことも起こるのです。
短絡的に、「もし他人と関わらなければ」と考えてしまうと、引きこもりのほうに流れ、益々袋小路に入ってしまいます。
それでは意味がありません。他人との関わりを持つことが、自分から逃げないための最大の武器になるのだと考えるのです。
最も簡単で分かり易い例を出せば、他人からの監視というのがあります。
人間は他人を意識するからこそ、モラルやマナー、さらには理性があるのです。もし、他人との関わりがなく、他人を意識しなければ、モラルやマナー、理性など必要ありません。
動物のように本能のみで生きれば良いでしょう。例えば、服を着ることだって理性ある証拠です。他人と関わりがある時の服と、自宅にたった一人でいる時の服装は間違いなく異なります。
それは他人からの監視によって、人は関わりを持つことを大切にしようという本能が働くからです。これは欲求や欲望だけで生きる動物にはない理性という本能があるからではないでしょうか。
会社の職場を考えてみましょう。職場があるから、規律があります。規律があるから、時間通りに出勤しようとします。これは、自分から逃げないような場面を、会社という他者から用意してもらっているとも言えるのです。
もし同じことを、自分だけの生活の中で、規則正しく、しかも自分自身を罰する規律やルールを作って、自分を甘えさせない環境を作り、実践するというのは大変です。他人の監視がない状態で出来るとすれば、何か、強烈な目標や、あるいは他者に負けないという強い意思がなければ難しいのです。これができる人こそが、自分から逃げない人です。
多くの人の場合、まずは他人との関わりから逃げないことを考えるべきです。そのためには、誰かのため、何かのためと、辛い場面や苦しい状況を乗り越えられるだけの目的意識がないといけません。
高貴な考えを持てる人は、社会のため、あるいは地球環境のためという人もあるでしょう。またあるいは、家族のためや、恋人のため、子供のためという人もあるでしょう。
しかし、自分のためであっても良いではないですか。将来独立するためでも良いですし、お金持ちになりたいためでも良いのです。ようは、何かのために、他人から逃げない強い意識持てるかどうかが重要なのです。
(次回に続く)
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投稿者 :堀田信弘: 2010年4月27日 05:01