自分のために生きるというと、自己中心でわがまま、自分勝手という意味に捉えられるかも知れません。
それは違います。自分のために生きることができない人が、他人のために生きることなどできるはずもないのです。
他人のために生きるというといかにも高貴な考え方に思えますが、時には、他人のために生きるというのは、他人に依存して生きるというような弊害だって起こり得るのです。
例えば、結婚して、夫のために仕事を辞める女性がいます。愛する夫のために、夫に尽くし、家事に専念するということ自体は悪いことではありません。
しかし、夫のために行うことのみが生き甲斐となり、あなたのためにと頑張っているということが夫婦関係を息苦しいものにして行くことだってあり得ることでしょう。
夫は妻のために働き、妻は夫を支える、とても微笑ましいことですが、子供が生まれることによってやがてその関係は次第に変化します。妻は子供に掛かりきりになり、夫は子供の成長に合わせるかのように仕事が忙しくなります。
妻は、これまでの「あなた」という対象が夫のためという考えから、子供のためと変わるのです。一方、夫は、妻のためから、家族のためへと変わるのも、それぞれが恩着せがましい関係になってしまうものです。
妻は、子供のためにと必死で頑張ります。やがて子供は大きくなり、母離れできない子供と、子離れできない母親が誕生します。
女性が子供や夫のために生きることを否定している訳ではありません。
他人のために生きるというということが、相手のために良かれと思ったことでも、相互依存の関係なり、自分の生き甲斐に他人を巻き込んで、お互いに自律できない関係になることがあるのです。
自分の人生が、相手のためだけに生きることで、それでも幸せと思えるのならそれでも良いでしょう。しかし、良いという意味は、結局は、それは相手のためではなく、自分のためなのです。相手のためと言いながら、自分が幸せになれるということは、自分のため以外のなにものでもないことでしょう。
しかも、そのように思われて尽くされた相手のほうは、それを幸せと思うかどうかは別物なのです。本当に相手のためというのであれば、自分の幸せはさておいて、相手が望むために生きるということです。
それならば「私はあなたのための頑張った」と恩着せがましい感情は生まれないことでしょう。そして、その相手が自分の子供なら、親離れできない子供にするのではなく、早く親離れして、自律した生活ができるようになることを願うはずです。
あまりにも他に依存するような考えが生まれると、時にそれは危険な考え方になる可能性もあります。
熱心な宗教家の中には、神や教祖のために自分を犠牲にしてまで命をかけるような人がいます。神のため、人々のためと言って、他の宗教を認めず、戦争さえも肯定するように宗教に、神に依存してしまうのです。
様々な宗教が存在し、様々な神を信じることは自由です。しかし、その神が、他の宗教の人と争いをすることまで認めているとしたら、それは本当に尊敬に値する立派な神なのでしょうか。恐らく神は、そんなことは望んでいないはずです。
争いをする人たちは、神という大義名分を持つことで、自分たちの行動を正当化し、他を排除することで、自分と同じ価値観を持つ人々の社会にしたいのではないでしょうか。神や宗教の問題ではなく、人間のエゴです。
もしこの世に神という考え方や、存在がなかったら、地球はもっと平和だったのかも知れません。皮肉にも、同じように救いを求める人々でありながら、それを実現するための考え方、手段、そして規律が異なるというだけで、悲しい人々同士が対立することになるのです。
これこそが正に神や宗教に依存してしまったが故の、自己中心的な考えなのかも知れません。
自分のために生きるというのは、真に自立するという意味です。わがままや自分勝手にするということではありません。
宗教を信じるも信じないも良いし、さらに周囲に信じている人も信じてない人もいて良いではないでしょうか。他人まで自分の考えに巻き込む必要はないのです。そして、仮に神を信じたとしても、自分は自分です。神父のように神に支える立場なら別ですが、そうでなければそこから何を学ぶかは自由なことです。
私は私、あなたはあなた、自分は自分なのです。
隣の人がどんな宗教を信じようが、自分が信じる宗教を批判されようが、真に自立をしていれば、自分は自分のためになるかということだけを考えれば良いのです。
福沢諭吉は「学問のすすめ」の中で「独立の気力なき者は必ず人に依頼す、人に依頼する者は必ず人を恐る、人を恐るる者は必ず人にへつらうものなり」と書きました。
この文を借りれば、自立と依存との関係は「自立の気力なき者は必ず人に依存す、人に依存する者は必ず人を恐る、人を恐るる者は必ず人にへつらうものなり」と表せるのではないでしょうか。
つまり、自立の延長に独立があり、依存の延長に依頼があるのです。自立、独立の気力がない人は、人を恐れ、人を恐れる人は、人にへつらうものなのです。
ちなみに、"へつらう"の意味は、相手の気に入るように機嫌を取ることを言います。嫌われることを恐れるから、嫌われないように"へつらう"のです。
ところが人間は、相手の気に入るように機嫌を取っていれば嫌われないかというと、そんなに簡単なものではありません。むしろ、嫌われる覚悟で、本気で向き合い、あるいは、そもそも嫌われる、嫌われないなど考えずに真剣に付き合おうとするようでなければ、いつまでもご機嫌を取っていれば嫌われないというものではないのです。
結局のところ、人に依存し、"へつらう"というような感情が生まれるのは、自分に自信がないからなのでしょう。自分ができないことを他人に託そうとするのでしょう。
なぜ自分に自信がないのでしょう。
自分に嘘をつくからです。
自分の気持ちに嘘をついて、自分が信じられないからではないでしょうか。
自分の気持ちに正直に、自分のために、自分のことを考えれば良いのに、過去の失敗した経験がずっと引きずっていて、自分が答えを出すよりも、他人に答えを出してもらいたいと思うのです。
私は私、あなたはあなた、自分は自分なのです。失敗したことも、答えを出せないのも、それも含め、自分は自分なのです。そして、他人は他人なのです。自分を受け入れることが重要です。他人にどう思われようが、そんなに立派な自分なんていないのですから。普通の自分で良いじゃないですか。
(次回に続く)
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投稿者 :堀田信弘: 2010年4月29日 05:01