アメリカやヨーロッパでは、親が子供を殺すというような個人的な"小さな事件"は、ローカルニュースで報道されており、そのような事件は、日本以上に珍しいことではないのです。
それよりも報道する側は、国民全体に関わることや、世界情勢など、多民族が住んでいるということを前提に、大きな視点、大きな視野に立って報道されているようです。
さらに事件の大きさだけでなく、報道価値としての考え方も異なるようです。日本人は、情に流されますから、小さな家族の問題であっても、悲しく、可哀そうな事件のほうが視聴率を取り易いのでしょう。
実はベトナムでも同様な事件は起きているのです。しかし、ベトナム人の多くは、そのことを報道で知りません。共産圏なので報道規制されているということも関係あるかも知れませんが、アメリカやヨーロッパと同様に報道価値がないということは同じです。
さらに報道価値がないというだけではなく、このような小さなことを世界に向けて発信するようなことではないという威厳のようなものがあるようです。
言い過ぎかも知れませんが、個人的な"小さな事件"を取り上げて、それが国全体で起きているかのように誤解を招くような行為を、国民の恥になるようなみっともないことをあえて何回も何回も繰り返さないと言えるでしょう。
このように世界の視点で日本の社会で起きていることを見て見ると、日本だけが病んでいて、悲惨な状況だと思う必要はないのです。
日本はいま、閉塞感が強く、未来に展望が開けません。国民は、政治家のせいにしますが、実は、日本人自身が、根暗な性格を持っているから、暗いほう、わびしいほう、悲しいほうに流され、あるいは好んで望んでいるのかも知れません。
例えば引きこもりという事象があります。
これまで引きこもりは、日本社会が病んでいるということから生まれた、日本だけの事象だと思われてきました。
しかし、引きこもりは、多くの先進国の大半で起きています。昨年訪れたロシアでも問題になっているし、明るく陽気なイタリアでも起きています。もちろん、イギリスでもアメリカでも珍しいことではないのです。
しかし、日本人は、直ぐに社会が病んでいるからと、社会のせいにしたり、その社会を運営している政治家のせいにするのです。政治家を選んでいるのは、自分たち国民であることは忘れているのでしょう。
このような自分たちの国に誇りが持てなく、自分の国を悪い国だ、駄目な国だと、声を合わせて言っていれば、良くなるどころか、益々悪くなるは当然です。
このようになったのは、自分たちの問題ではなく、社会や政治家の問題であると、他人のせいにするのです。
つまり、自立できてないのかも知れません。あるいは他人事なのかも知れません。
元々、日本は、資源もないのにも関わらず、古くから交易などを通じて、国を発展させようとしてきました。こんなに小さな島国が発展できたのは、優秀な人材がいたからなのでしょう。
教育水準が高く、人材育成に力を入れていたのです。古くから儒学を学び、人間哲学にも熱心でした。
最近、日本は、ゆとり教育の弊害から、教育レベルが下がったと言われていますが、これも見方によっては、まだまだ十分な力があるのです。
日本は、つい最近まで、ほとんど科目で世界トップクラスでした。しかし、ここ数年は、スウェーデンや韓国などに抜かれ、学力が低下したとされています。
ただ、日本よりも上位の国は、小さな国ばかりです。人口が1億人を越えるような大国で、日本よりも上位になる科目はひとつもないばかりか、他の大国に圧倒的な大差をつけているのです。
同様なことは、国内でも言えます。学力診断テストの順位は、秋田県など地方の人口の少ない県が上位を占めています。それだけ人口の多い東京や神奈川県、大阪が上位になるのは難しいことなのです。
それを日本は、世界の中で行えているのです。このことは日本の誇りではないでしょうか。
ただ問題なことは、単に学力が低下しているということだけでなく、ゆとり教育によって、軟弱な子供、心の弱い子供が多くなっていることです。
しかも、親の影響からか、義務を果たすことよりも、権利意識が強く、責任感が希薄になっているように思えます。
会社経営をしていても、責任感が希薄になってきているように感じます。10年前、20年前と比べ、明らかに権利意識が強まり、責任意識が弱くなっているようです。
責任感というのは、自分の仕事や自分の行う行為について、責任を持つということです。責任を持つということは、自分の行うべきものと自覚し、自分が果たすべきものとして、他人のせいにしたり、他人に迷惑をかけたりしないことです。
言いかえれば責任感がないというのは、自分の仕事であることの自覚がなく、自分の行った、あるいは行う行為に対して、他人のせいにして、他人を巻き込んでも平気であると言えるでしょう。
では、なぜ責任感がないのでしょうか。
それは、個人主義と利己主義の混同から始まったからだとも言えるでしょう。
日本企業は、30年ほど前まで、年功序列型の終身雇用制でした。韓国のような長幼の序がそれまでは存在していたのです。
また、聖徳太子の和を尊びという考えが根強くあって、組織のまとまりを大切にしてきたのだと思います。つまり、個人よりも組織、組織の中では、年長者を敬い、団結する力が強かったのだと思います。
総中流社会と言われるほどまでに、中間層が厚かったので、消費も活発になり、それが原動力となって高度成長を果たすことができたのでしょう。
しかし、全ての物事は、良いことばかりではありません。時代と共に変化が求められ、改善されるようなもの生まれるのは自然なことです。
何かを変えるということは、何かを失うことでもあるのです。良くしようと思えば、これまで良いと思われていたことが悪いことにも思えるものです。
やがて総中流社会では満足できない人が現れます。同時に、護送船団方式のようなやり方では、世界では通用しないことも表面化します。
バブル崩壊も経験します。しかし、韓国のように、国が崩壊してしまうかも知れないような危機までではありませんでした。
(次回に続く)
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投稿者 :堀田信弘: 2010年5月 5日 05:48