次々に目標が見つかる人、または目先の目標ではなく、長く続く大きな目標を持っている人には、五月病にはならないのです。
今週から活気のあるホーチミンに来ていますが、ベトナムにいると、五月病になる人などいないのではと思うくらい、皆、明るい未来を見て生きているように見えます。国や個人がもっともっと豊かになりたい、発展させたい、成長させたいという目標があるようです。
五月病になる人は、高い目標を持ち、その目標のために長い間、無我夢中で頑張った人であり、かつ、目標を達成した後に、次の目標を見つけることができず、気が抜けてしまう人です。
東大を目指した同じ学生でも、東大に合格することだけを目標とした人と、何かを学ぶため、あるいは何かを目指すために東大に入学した人とでは、大きな差があるのです。
東大合格者には、東大までの人と、東大からの人という言葉があるそうです。五月病になる人は前者のほうです。日本社会の中枢で活躍する人は、東大からの人というのは言うまでもありません。
日本一難しい東大に入るためには、東大に入っていない人が想像できないくらい、恐らく相当な努力と苦労をしたはずです。睡眠時間を削り、勉強漬けの日々だったことは容易に想像できます。
それだけでなく、小学生の頃から、既に優秀とされ、大学に入る12年間の間、常にトップクラスに君臨していたはずです。それを常に維持し続けなければならないプレッシャーとプライドは、凡人には理解できないことでしょう。
これほどまでに我武者羅に、無我夢中で、一生懸命に頑張った人だからこそ、その苦労の反動として、安堵の気持ちが生まれ、気力を失ってしまうのです。
元々五月病が東大入学生において生まれた言葉というのは、このように長い期間に渡って、張り詰めるほど行った人だからなのでしょう。
自分が東大に入っていないから言えるのかも知れませんが、せっかく東大に入ったのに、五月病になって中退してしまうようなことがあっては本当にもったいないと思います。
東大に入るだけでも凄いことなのに、それを活かせないというのは残念なことです。
東大に入ることが目標ではなく、それから先の目標を持つというようなことを言うのは簡単なことです。
しかし、仮に自分が東大に入れるような力を持っていたら、日本一の学校に入学することを目標とせずに、別の目標のために、小学校の頃から頑張るなどということは果たして簡単にできるのでしょうか。想像もつきません。
それができる人は、本当に凄い人です。しかし、一般の人は中々そうは行かないことでしょう。人生に大きな目標を持っている人のほうが少ないのですから。
このように考えると、五月病は、普通の人のほうが起こり易いと言えるでしょう。
しかし、なぜ東大入学生の間で起こったかと考えると、やはり単なる普通の人ではなく、長い期間、張り詰めるほどに頑張ることができた人なのです。そのように考えれば、そもそも張り詰めるほどに頑張っていない人には起こらないということも言えるのです。
簡単に言えば、頑張り過ぎないことです。
頑張り過ぎないというのは、どのようなことでしょうか。
そもそも頑張るというのはどのようなことでしょう。
辞書によれば、頑張るというのは、困難に耐え、努力してやり通すこととあります。
困難に耐えることを表す言葉には、我慢と辛抱というのがあります。この言葉、似ていますが、少し異なります。
我慢とは、辛いこと、苦しいことに耐え忍ぶという意味で、辛抱と全く同じ意味です。
我慢も辛抱も元々が仏教用語です。我慢は、辞書によれば、我に執着し、我をよりどころとする心から、自分を偉いと思っておごらず、他を侮ることとあります。
それに対し辛抱は、この世に生を受けこの世を去る時まで、心を修める一生のさだめ(法)を、心法と言い、この心法が、辛抱の語源です。
辛抱も我慢と同じ、辛いこと、苦しいことに耐え忍ぶという意味です。
同じく辛いこと苦しいことに耐え忍ぶことではあるのですが、我慢は、自分の執着心を抑えようとするところであり、辛抱は、心を静め修めることなのです。
では頑張るというのは、我慢して努力することでしょうか、それとも辛抱して努力することでしょうか。
我慢して頑張るというのは、目先の欲望や欲求を抑えることです。楽したい、遊びたいと行った欲求を抑えて頑張ることなのです。
それに対し、辛抱して頑張るというのは、この世に生を受けこの世を去る時までの人生を考え、その人生のために頑張ることです。
我慢は短期的で、辛抱は長期的と言えるでしょう。
私は、辛抱はできても我慢ができない性分です。欲望や欲求を抑えることができない凡人です。しかし、人生という長いレンジで考え、辛いことや苦しいことに耐え忍ぶことは重要だと思っています。
人生は、嬉しいことや楽しいことばかりではなく、むしろ辛いことや苦しいことのほうが遥かに多いものです。
誰だって、辛いことや苦しいことよりも、楽しいことや嬉しいことばかりの暮らしをしたいと願うことは判ります。
願うことは理解できても、楽しいことや嬉しいことばかりでなければならないと思っていたら、それは間違いです。
人生は三風五雨(さんぷうごう)と言われるように、風や雨の日のほうが多く晴れるのは僅かなのです。僅かだと知り、晴れることを期待し過ぎないことで、晴れた日には感謝できるものなのです。
晴れることを前提に、あるいは晴れることばかりを期待し過ぎていると、普通の日である風の日や雨の日に不平、不満を持ち、晴れの日に感謝できないのです。
だから短期的な我慢をして、その場を過ごそうとしても、結局また我慢しないといけないことが続き、苦しさに耐えられないのでしょう。
しかし、この世に生を受けこの世を去る時までの長い人生を基軸に考えれば、時々発生する辛いことや苦しいことなど良くあることだと、軽く受けとめられるはずです。だから、我慢することより、辛抱することのほうが大切なのです。
さて頑張るですが、自分の考えを押し通そうとする我を張るが転じて、頑張るとなったという説があります。
我を張ることが頑張るだとすれば、我を張ることは良くありません。我を張らないことが、頑張らないこととも言えるのでしょう。
(次回に続く)
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投稿者 :堀田信弘: 2010年5月19日 05:53