【堀田信弘の今日の語録】 『この会社は、きっと伸びるだろうな。他の会社と違うことができること自体に可能性を秘めているから。』


世の中について  「活・喝・勝」


自分を変える

自分の弱点を知り、強みを知り、弱点を補い、強みを活かすのです。全ての始まりは、知ることです。自身がどのような状態にあるかを知らなければ、変える必要性にも気づかず、何を変えて良いのかも分かるはずがないのです。

何をどう変えれば良いのでしょう。変えることに気づき、変えようと思っても、何をどうしたら良いのやら、何からどう始めたら良いのか判りませんね。

そんな時は、行動を変えれば良いのです。

考え方を変えようと思っても、そんなに簡単に変わるはずもありません。嫌いなものを好きになれと言っても、無理なものは無理なのです。

それに対して、行動を変えることは直ぐにできます。今からでも出来ます。

問題は、変えようとした行動を継続できるかどうかです。継続できなれば、変わったことにはならないのです。

そして、どうせ変えるのなら、日常生活に関することから変えてみることです。日々の生活の中で繰り返し、繰り返し行われるものを変えるのです。

例えば朝起きる時間、運動、禁煙、禁酒、食事など、毎日毎日行われることを変えるのが一番です。なぜなら、これを変えることが最も難しいからです。これが変えられないのであれば、自分を変えるなど、ほど遠いのです。

行動を変えると、気持ちが変わります。これまで見えなかったことが、見えるようになり、気がつかなかったことに気づくようになるのです。変わるとは、見えるようになるということなのです。

人間の大脳は10日間で慣れ、3ヵ月で克服すると言われています。例えば、禁煙、禁酒などのような惰性的な行動も、辞めようという強い意思を持って、最初の10日間我慢することができ、3ヶ月間継続できれば、克服できるのです。

行動を変えるのには、最初の10日間をどう過ごせるかにかかっているのです。

仏教の世界では、行動を変えるために、修業をします。例えば、座禅というのがあります。

座禅は、釈尊が、ブッタガヤの菩提樹の下で座禅を行い、そこで悟りを開いたということが元になっています。

中国の少林寺で、9年間も壁に向かって座禅に打ち込んだのは、菩提達磨です。達磨は、釈尊の悟りを自ら直接体験しようとしたのです。それが禅宗の始まりです。

禅宗は座禅を修業の中心におき、日本では、臨済宗と曹洞宗がその流れを組んでいます。

ちなみに、道元が開いた曹洞宗の座禅は、言葉を用いずひたすら黙って座ることで悟りにいたろうとする黙照禅です。それに対し臨済宗では、師との問答を通じて、真の自己を発見しようとする看話禅といい、全く異なります。

座禅は、身心の乱れを調え、自分の心と向き合うことです。座禅という修業を通じて、これまで見えなかったことを、見えるようにしたり、気がつかなかったことに気づくようになろうとするのでしょう。

しかし、熱心な仏教徒ならまだしも、修業をすることなどできません。

人間にとって修業とは、働くことなのだと思います。

働くことは、座禅をするのと同じくらい、様々な自分を発見してくれます。時には、身心が乱れを感じ、自分の心と向き合う必要性も教えてくれるでしょう。

僧侶は修業を通じて、仏道に励みますが、私たちは、働くことによって、修業をしていると同じくらいに辛い経験や悲しい経験、欲との葛藤、憎しみを知り、もがくのです。

働くことは自分を成長させることです。

そして、働くことは、精神を磨き、心を鍛え、頭を使い、体を動かすことなのです。そして、人間が人間らしく生きて行くために最低限必要なことなのです。

聖路加国際病院の名誉院長である日野原 重明医師は、働くことが長生きする最大の秘訣だと言っています。

日野原先生は、1911年生まれの来年で100歳になる現役の医師です。毎年100を越える講演会に出演し、今でも診察をしています。また、著書「生き方上手」は120万部以上も売上、日本最高齢者のミリオンセラー作家としても知られています。

働くことは、多くの刺激を受け、頭脳も使い、精神の鍛錬にも、体力も使うので、衰えを防ぐのだそうです。働くことを止めてしまえば、一気に心も体も衰えてしまうとのことです。

定年のない農家の年寄りが長生きするのは、何歳になっても朝早くから夜まで体を動かし、農作物のことを考え、天気を心配して働いているからなのでしょう。

働くことから解放されたいと考えるのは、働くことがストレスになると考えるからでしょう。それは、働くことと生活すること、生きることが一体になっていないのです。

もし、農家のように、働くことと生活することが一体となっていれば、境目がありませんからストレスに感じるはずもありません。そして、それが生き方なのですから。

僧侶もそうです。僧侶にとって修業をすることは生活することの一部です。修業は厳しいかも知れませんが、日々の生活の中の取り組まれていることにより、生活することそのものが修業であり、修業することが生活することなのです。

聖路加国際病院の日野原先生は、「生活するために働くのではなく、働くために生活している」と言っていました。

生活するために我慢して働けばストレスになりますが、人生の中心が働くことという前提にしていると、少しくらい嫌なことを一々ストレスと考えていたら体が持たないと考えるようになるのです。つまり、ストレスだと思わないようにすることが大切なのです。

人間は、心と体のバランスが崩れると病気になると言われていますが、嫌なことをストレスだ、ストレスだと考えていると、体にストレスが良くないことを言い聞かせて病気になってくれと言っているようなものなのです。

人間は、生きている以上、嫌なことは必ず起きます。しかし、それをストレスだと考えるのと、時にはそんなこともあるわとやり過ごせるのとでは全く体に与える影響が違いのです。

そうは言ってもそれができないから、ストレスから解放されたいと思う人もいることでしょう。そして、仕事を辞め、働くことから逃れようとするのです。

しかし、考えてみれば、この世の中、働くことを辞めてもストレスから逃れることはできません。そもそも、嫌なことをストレスと考えてしまうような人は、働かなくてももっと大きなストレスが訪れるはずです。

(次回に続く)

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投稿者 :堀田信弘: 2010年5月25日 05:56