【堀田信弘の今日の語録】 『この会社は、きっと伸びるだろうな。他の会社と違うことができること自体に可能性を秘めているから。』


世の中について  「活・喝・勝」


すること全てを楽しむのです

楽しめと言われても、楽しくないことは楽しめないという人は多いことでしょう。でも、それは、本気で楽しもうとしていないからだと思うのです。

楽しいことを楽しむことは誰でもできます。しかし、人生、楽しいことばかりではありません。それでも、楽しもうとする考えがあるかどうかなのです。

数年前、ポーランドのアウシュビッツ収容所に行った時、過酷な環境でも最後まで生き残ることができた人は、総じて前向きで楽観的な人だったということを知りました。

アウシュビッツの全員が飢えに苦しんでいる中でも、乏しい食料を病人のために与えることを続けた人、鉄格子の窓から見る若葉の芽生えや、軒を伝わる雨だれや、落葉の動きなどを美しいと感じることができた人などが生き延びました。

また、生きて出ら出られる可能性が少ないことを知りながらも、収容所を出たら、ベーカリーを作りドイツで一番に旨いパンを売ってやろう、カーネギーホールの舞台でショパンを演奏して観客の拍手を浴びたい、などの夢を抱くことができた人々が生存したのです。

何れの生存者も、収容所の中でも笑顔を絶やすことのない明るくて前向きな人々だったのです。

なぜ、誰でもいつ死ぬかも判らないような過酷で残酷な環境にいながら、彼らは笑顔を絶やすことなく、明るくて前向きな態度ができたのでしょう。殺されるかも知れない場所で、無理して明るくすることなどできないはずです。

悲しく辛い場所で、笑顔を見せることなどできないはずです。それなのに、なぜ彼らは夢や希望を持って、ほんの僅かな生きる可能性を信じることができたのでしょう。

きっと彼らは、生き残る可能性よりも、残された人生を楽しむことのほうを選んだのではなだろうかと思うのです。

人生は一度きりです。生まれた時から死に向かって、カウントダウンが始めっているのです。誰もがいつか死にます。ただ判らないのは、いつ死ぬかです。永遠に生き続けることなどできないのです。

しかし、誰もができれば少しでも長く生きたいと思うことでしょう。それは、アウシュビッツにいた全ての人が同じだったと思います。だから、誰もが僅かに生き残る可能性にかけ、それを信じようとしたことは容易に想像できます。

誰もが収容所から出られることを夢見ていたはずです。それなら、誰もが途中で発狂したり、自ら進んで自殺したりする必要はなかったはずです。

恐らく、生きることに絶望感を感じたのでしょう。このまま苦しんでも、どうせ死んでしまうのなら、早く苦しみから逃れたいとの気持ちから、自ら命を絶ったのでしょう。もしかしてここから出られるかも知れないという可能性が閉ざされたと絶望したのでしょう。

次々に死んで行き、目の前で自殺するような人を目にすれば、多くの人は、次は自分の番だと悲観的になるほうが普通です。それなのに、あたかも余命数ヶ月と宣告された末期患者のように、残された人生を楽しみたいと考えることができるのはどうしてでしょうか。

自分だったら同じように前向きになれるかどうか定かではありません。しかし、少なくても、目の前のことを、できるだけ楽しもうとしています。

楽しいから楽しむのではなく、楽しんで行うのです。それが例え草取りであっても、空き缶拾いであっても、あるいは、切羽詰った交渉事であったりと、進んで楽しめるものではなくても、楽しもうとすることができるかなのです。

気持ちの持ちようです。誰でも楽しくないことを楽しくないと考えることは簡単です。楽しいことだけをしたいというのも分かります。

でも楽しいことを楽しむのではなく、すること全てを楽しもうとするのです。例え楽しくないと思えることでも、少しでも楽しいことを見つけるのです。一瞬だけでも楽しくなる方法を考えるのです。

どうせやるのなら誰だって楽しいほうが良いに決まっているのに、始めから楽しくないと決め付けていたら、苦痛でしかありません。どうせ同じ時間を費やすのなら、楽しもうではありませんか。

楽しいことを楽しむのではなく、すること全てを楽しもうとすれば良いのですよ。楽しもうと思う気持ちが、人生を楽しめるコツなのです。

もし、余命数ヶ月と宣告されたら、残りの人生をどう楽しみますか。できれば我がまま、やりたい放題、好き勝手なことをしたいと思いませんか。

でも、それって、きっと本当に余命数ヶ月の人が真剣に考えた答えではないのではと思うのです。

アウシュビッツの例を見れば、好き勝手なことをするというよりも、目の前の出来事、目の前に広がる環境を楽しもうとするのだと思います。

特段に変わったことをしようとするのではなく、恐らく日々の出来事を楽しもうとするのではないでしょうか。人間なんかチッポケなものだと思いながら、どうせ死ぬなら笑いながら死にたいと思うのではないでしょうか。

何れにしても、人間が極限状態に置かれたときでないと、その人の本当の性格はでないかも知れません。発狂する人のことを侮蔑することなどできないことでしょう。

そもそも、今、この瞬間、当時のアウシュビッツのことを想像しようとしても無理があります。しかも、病気でもないのに、余命何ヶ月だと言われたらどうすると言われても、きっと、本当に病気の時と同じ気持ち、考えになることなどできないでしょう。

だからこそ、普段から死や生をどう考えるのかというのがむしろ大切なのだと思います。目の前に死を感じた時に、ドタバタと慌て転げることなく、死生観というのを持っているのは強いと思うのです。

そのような人こそ、真に前向きで人生を明るく楽しめることができる人だと思うのです。

それに対して、死に怯え、できるだけ長生きしようとしがみ付こうとしていては、きっと人生は楽しくないはずです。ビクビクしながら、嫌なことを避け、好きなことしかやらないようにしても、人生好きなことばかりではないことにぶち当たることでしょう。

これでは希望する長生きなどできないのです。アウシュビッツの生き延びた人たちが教えてくれたのは、長生きしたいのなら人生を楽しめということなのです。目の前のことを楽しもうとすることが大切だと言うことなのです。

何も長生きしたいから言っているのではないのです。どうせやるのなら、何でも楽しもうという気持ちを持って行ったほうが精神的には良いということなのです。

イヤイヤしながらストレスを感じて行うより、前向きに楽しくやったほうが良いではないですか。草取りだって、空き缶拾いだって、やりたくない気持ちでダラダラと時間が過ぎるよりも、さっさと楽しくやって素早く終わりにしたほうが気分が良いじゃないですか。

(次回に続き)

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投稿者 :堀田信弘: 2010年7月30日 05:41