【堀田信弘の今日の語録】 『この会社は、きっと伸びるだろうな。他の会社と違うことができること自体に可能性を秘めているから。』


悲しい出来事  「活・喝・勝」


心に余裕がない状態

心に余裕がなくなると、他人に関わる余裕もなくなってしまいますよね。自分のことだけで一杯一杯になってしまい、他人のことまで気が回らなくなってしまうのです。

つまり、心に余裕がないということは、他人の気持ちを察する余裕もない、ということであり、人間関係をギクシャクさせてしまう可能性があるということなのです。

他人の気持ちを察することができなくなったら、相手はどう感じることでしょう。

心に余裕がなくなると、そんなことにさえ気が回らず、相手がどう感じるかというよりも、自分の考えが伝わりさえすればどうでも良いという気持ちになってしまうものです。

ところが、そのような精神状態で自分の考えが伝わるはずもありません。そもそも、伝わる、伝わらない、という前に、相手のほうは、直ぐにこちらの余裕の無さを感じるとことができるでしょう。

そうなのです。心に余裕がある人は、直ぐに相手の気持ちを察することができるのです。

通常、人間関係というのは、同じ場所、同じ時間を共有し、共感を求め合っています。うなずいたり、相づちを打ったりして、相手との共通点を探りあい、少しでも同じところがあれば、それに共感し、お互いの気持ち、考え方を認識しようとするのです。

もし、最初から相手と喧嘩しようという気持ちでいると、うなずくことも、相づちを打つこともせず、相手との共通点を探ろうなどという気など起きないでしょう。

喧嘩しようとしているのですから、相手に共感などするつもりは毛頭ないのです。喧嘩に勝つことを考えている訳ですから、相手を屈服させ、こちらの言うなりに、謝罪するなどの行為にもって行きたいのです。

このような気持ちの状態で、相手と仲良くなれるはずがありません。つまり、心に余裕がないという状態は、自分のことで精一杯で、相手に共感などするつもりは毛頭ないのと同じ状態なのです。もっと言えば、喧嘩を売っているのと、同じようなものなのです。

喧嘩を売られたら、気分が良いものではありません。自分の心に余裕がないため、相手をそのような状態に追い詰めてしまうのです。それほど、心に余裕がないというのは、人間関係を悪化させてしまうのです。

しかし、頭ではそのことを理解できても、実際に自分が心に余裕がない状態になると、周囲のことが見えず、周囲の声にも耳を傾けられなくなってしまうものです。

相手にかまっていられない、その相手がどうなろうとも、自分さえ良ければ良いということになるのです。ところが、自分さえ良ければという考えでは、絶対に良い結果を生みません。

心に余裕がなくなった背景には、様々な事情や、原因があったことでしょう。心がズタズタになるほどまでに、辛く、厳しい状況が続いたのかも知れません。悲しさが重なり、涙も枯れて、強く立ち向かおうと決心したのかも知れません。

精神的に追い詰められるくらいの何かがあったのですから、そのことには同情します。でも、その辛さを引きずって、喧嘩越しに見えるような余裕のなさで、何かが解決するでしょうか。何かが前進するでしょうか。

辛く、厳しい状況が続いたのかも知れませんが、このまま頭をカッカ、カッカとさせて、心に余裕がない状態を続けても決して良いことはありません。

人間関係というのは、必ず相手があるのですから、何ら関係ない人をも巻き込み、さらに辛く、厳しい状況が続くことになってしまうことでしょう。それはでは、益々、心に余裕がない状態に追い詰められてしまうでしょう。

そうなると、悪のスパイラル状態になってしまいます。最初の原因は、誰かのせいで、自分のせいではなかったのかも知れません。しかし、この悪のスパイラルの状態になってしまったら、これから誰かのせいではなく、自分が自ら悪循環を生んでいるのです。

最初は同情されたかも知れませんが、いつまでもその同情は続きません。自分だけは、いつまでも誰かのせいにしていても、周囲の人たちは、その本人が最も悪いと思うようになって行くのです。

このような現象は、身近なところでは、人と人が別れる時にも発生します。別れる原因は様々ですが、一般に別れは対等ではないことが多いものです。

極端に言えば、死に別れもそうですが、残された側は辛く悲しく、そして、いつまでも未練が残ります。しかし、考えてみれば、残した側も、本来なら同様に辛く悲しいはずであるのに、死んでいっているからそのことは図るすべがありません。

そのようなことから、一般に、残された側は、一方的に残していった側よりも、自分のほうが辛く悲しいと考えてしまうのではないでしょうか。

何れにしても、人の別れがもとで、心に余裕がない状態が生まれる可能性があるのは事実です。

別れは、人と悲しませ、そして、辛さをもたらします。長く時間を共にした仲であればあるほど、その辛さは、その時間に比例して大きくなることでしょう。

あれほど楽しく一緒に過ごしたのに、あれほど一生懸命に一緒に頑張ったのにと、過去に多くの愛情や、労力や時間を費やしたほど、悔いが残るかも知れません。そして、別れと共に、その悔いが、後悔となり、やがて、憎しみに変化したりすることがあるのです。

愛が憎に変わるのですね。これがまさに、心に余裕がなくなる状態と同じなのです。

愛と憎は、全く正反対であるのに、愛が深ければ深いほど、裏切られたり、騙されたりすると、その反動で憎は非常に大きくなるのです。

ブッタは、「愛より愛は生じ、愛より憎しみは生じる。憎しみより愛は生じ、憎しみより憎しみは生ずる。」と説きました。

愛と憎しみは、隣り合わせであり、愛が深ければ深いほど憎しみの可能性も大きくなるのは、愛が本質的に、自己を愛することを中心としているからなのです。

実は、相手に裏切られた、騙されたということよりも、自分が、あれほど一生懸命に一緒に頑張ったのに、尽くしたのにと、自分が施したことに対して、報われなかったことに対して憎しみの心が生まれるのです。

もし、全く、一生懸命でもなければ、尽くしもしなければ、例え裏切られても、騙されたとしても、自分が施したことが少なければ、報われることの期待がない訳ですから、憎しみの心は生まれないのです。

つまり、憎しみの心というのは、自己愛、自己中心から生まれるものなのです。そのような状態に陥っているということが、愛がある時は、見えないものなのです。

(次回に続く)

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投稿者 :堀田信弘: 2011年1月 8日 05:46