愛と憎しみは同じ煩悩に他ならず、裏表一体ということから、仏教では、愛も憎しみも、自己への執着の一形態に過ぎないとされているのです。
愛は、自分が愛し、自分を愛してほしいという欲求を生みます。だから、愛は、欲求そのものなのです。
だから、相手に自分の気持ちを伝えたい、そして相手の気持ちを知りたいとなり、やがて、相手を自分だけが独り占めしたいと思うようになり、仕舞には、相手を自分の思い通りにしたいと欲求は拡大、エスカレートしていくのです。
もし、その過程で、相手を独り占めできなかったり、相手を自分の思い通りに行かなかったら、折角それまで、自分が相手のためにしてきたことが無駄となり、満たされないことからやがて憎しみに変わるのです。
そして、仏教では、憎しみは悪いこととされています。憎しみは、さらなる憎しみを生み、欲と欲とのぶつかり合いから、災いを生むことになるのです。
相手を憎み、嫌いだという気持ちは、必ず相手にも反映します。そして、相手からも、自分のことを憎み、嫌われることでしょう。そうなると、相手の態度は、益々自分にとって嫌なものであり、戦争モードに突入です。
相手は、ロケットを撃ってくるかも知れません。その時、相手がなぜ自分にとって嫌なことをするのかということを考え、自分が相手に嫌なことをしていないか考える必要があるのです。
私は、熱心な仏教徒ではありませんが、教養として宗教を知ることは実に重要なことだと思います。特に、様々な宗教観を持つ外国人と接するにあたっては、最低限の知識を持っていることは重要だと思うのです。
今年から、リビア人が入社しました。彼はとても熱心なイスラム教徒であり、真面目で実直で、礼儀正しい青年です。
彼の姿を見ていると、宗教観こそ異なりますが、一つのことを信じ、そして、いつでも、どこでも宗教を通じて、自己を磨こうとする姿に感銘すらします。
神を信じるということは基本にあるにしろ、それよりも、何かを信じているということが力になって、バネになって、何かを学ぼう、吸収しよう、そして、幸せになりたいという気持ちを感じるのです。
私のような無宗教的な人間は、神のような確固とした生き方の格になるようなものが欠けており、背骨のない魚のようなフニャフニャとしているように思えます。
入信することで、簡単に背骨ができるとは思えませんが、宗教に代わる何でも良いですから、背骨を見つける努力は必要だと思っています。
私たち日本人は、どうやら、オカルト的な新興宗教が生まれたりして、宗教に溺れることを避けるようになったようです。極端に宗教に加担することで、自分の全てが吸い取られ、マインドコントロールされてしまうことを恐れているのでしょう。
しかし、考えてみれば、恐らくそのようにマインドコントロールされてしまう人は、背骨がない環境で生まれ、育ち、無菌室のような状態で生活したため、空いていた隙間に、スゥーと何かが入り込んでしまったのでしょう。
もし、生まれた時から、背骨があるような環境で育ち、躾けられていたら、きっと違っていたかも知れません。そのようの考えると、私は、自分の家庭において、何か、根本的な柱を持って、背骨があるような環境で子供たちを躾けられたかといえば甚だ疑問です。
私自身が生まれた時から、背骨があるような環境で育ったとは言えないからです。躾けこそ、厳しくはありましたが、その躾けの源となる根幹な考え方は、世間体や、教師だった父親の考え方一つであり、それは、聖書のように体系化されているものでありません。
それでも人の道を外れずにこうして生きていられることには感謝しています。
このことは、会社経営においても同様なことは言えることでしょう。
会社において、背骨となる、一つ筋の通った大きな指針柱がなければ、そこで働く人たちは、躾けられない子供のように、あちこちの方向を見て、心を一つにすることができなくなることでしょう。
わが社において、その背骨は、今の私と同様に、はっきりしたものがありません。それは、経営理念という形で明文化するというよりも、宗教のように、心の支柱となるような根本的な考え方や、風習、文化の基を形成するような魂のようなものです。
昨年は、二社が一社になって合併した年でしたが、今年は、もう過去のことを言っているのではなく、魂の源を確立しなければならない年を迎えているのです。
しかし、そのことによって、合う、合わないというような、考え方の相違が生まれるのは必然的なことです。
特徴を持たせれば、その特徴に賛同する人もいれば、受け入れがたいと感じる人もいることでしょう。
それでも、会社の根幹となる柱を立てるということは、それを恐れていてはできません。もし、多くの社員が、柱の中身の前に、柱を立てることに意味を感じず、必要ないと思うのであれば、そもそもそのような状況で柱は立たないでしょう。
宗教を例に考えましたが、多くの日本人は、柱がないことに慣れ、柱を必要としていないのかも知れません。それは、現在の日本社会そのものですから、ある意味で仕方ないことなのでしょう。
しかし、その考え方は、世界全体で見れば、とても稀なことであり、今や、その稀を武器にできるような状態ではないのも事実なのです。
もし、無宗教で無関心の人が多いというのであれば、わが国では、イスラム教徒やヒンドゥー教徒をどんどん受け入れられる状況にあるでしょうか。
正月は神社に行って願い事を頼み、葬式はお寺からお坊さんを呼んで供養し、クリスマスにはケーキを買って何の意味もなくお祝いするのです。それはそれで日本人らしいのかも知れませんね。
ただこれからの社会は、日本人だけが良ければ良いという時代ではなく、様々な価値観がある人を認め、受け入れられるようにしなければならないのです。
もし、神さまも仏様も、キリストも同居できるのが日本人らしさと言うのであるならば、どのような国であっても、異なった歴史や文化を持っている人でも、どんどん受け入れて、共に生きることができるようになれば良いと思うのです。
私は、そのような会社にしたいです。
(次回に続く)
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投稿者 :堀田信弘: 2011年1月10日 05:47