私は今、リビアの首都トリポリから、日本に帰国するため、オランダのアムステルダムにいます。トリポリからアムスタルダムまでは、地中海を越え、4時間ほどかかりました。これから日本に向けて帰国しますが、14時間もの長いフライトになりそうです。
ここオランダのアムステルダムは、約60年ほど前、ナチスの占領下にありました。1942年、ユダヤ系ドイツ人の少女、アンネ・フランクは、ここアムステルダムのプリンセンフラハト通りの隠れ家に身を潜め、ここでの2年間の生活を日記に記したのでした。
1944年8月4日、アンネたちの隠れ家を発見されます。隠れ家に潜んでいた8人のユダヤ人は、何者からかの密告を受けて、出動したアムステルダム駐留のオランダ人ナチス党員保安警察の職員によって逮捕されたのです。
その後、アンネたちはナチスの強制収容所に連行されることになります。1944年9月、アンネたちを乗せた移送列車には、3日間かけて、ポーランドにあるビルケナウ強制収容所(第2アウシュヴィッツ収容所)に到着します。
私は、3年ほど前にアウシュヴィッツにあるビルケナウ収容所を見に行きました。ビルケナウ収容所は、アウシュヴィッツ収容所では収容しきれなくなったため、第二収容所として大規模に増設されたのでした。
ビルケナウ収容所は、東京ドーム約37個分の広大な敷地の中に、300以上の施設からなる巨大な収容所です。想像もできないほどのその広さに、まず驚くことでしょう。
ビルケナウ収容所に、隣のアウシュヴィッツ駅から、強制収容所内まで延びる鉄道引込み線が完成したのは、1944年5月のことです。この鉄道は、ここビルケナウ収容所が終点で、死の門という建物が敷地の入り口にあるのです。映画でもおなじみの場所です。
アンネたちがこの終着駅に到着したのは、この引き込み線が完成してから僅か4ヶ月後でした。
アンネと一緒に列車に乗っていた1, 019人のうち549人が労働不能と判断されて、一度も収容所に入ることなく、駅の左側に仕分けされます。
引き込み線ができて僅か4ヶ月後であったにも関わらず、この巨大な収容所も既に定員オーバーとなっており、この頃から、労働できない人は収容しないようになっていたのです。
そこで、仕分けされた人たちは、大きな農家のような建物に連れて行かれ、服を着替えて、シャワーを浴びるように指示されたのです。
人々は、天井についているシャワーのような蛇口に顔を向けて、シャワーを浴びるもの思っていました。しかし、そのシャワーには、毒ガスが混ざっており、そのままシャワーを浴びながら死んで行ったのです。
アウシュヴィッツでは、過酷な労働を強いられ、収容所で亡くなる人もいましたが、実は、最も多いのは、収容所に一度も入ることもなく、ガス室で亡くなった人が遥かに多いのです。だからナチスはこのことを隠すために、開放直前に最初にガス室を破壊したそうです。
アンネたち家族は、全員労働可能と判断されました。アンネは、ビルケナウ収容所の中の、南側の収容施設(全体の3分の1程度の棟数)に送られたようです。
この収容施設は、ビルケナウ収容所の中でも、1943年以降に建てられた最も新しい施設でしたが、新しい施設ほど雑に作られており、南側は湿地帯となっていて、水辺の上に十分な基礎工事もしないで建てられていました。
主に、そこは、女子収容所となっていて、特段に粗末なつくりであったと伝えられています。アンネはここの29号棟という場所に入れられ、丸刈りにされて、左腕に囚人番号の刺青がされたのです。
それから約2ヶ月近くここで収容されますが、まもなくアンネは、シラミやダニに食われて、傷口が化膿していったそうです。
10月末、アンネたちは、ドイツにあるベルゲン・ベルゼン収容所に送る者の選別を受けることになります。
ビルケナウ収容所から、比較的に健康で、または病気だが回復の可能性が見込めると判断された人たちをベルゲン・ベルゼン収容所に送る計画が始まったのです。その第1陣の移送者は、若くて元気な女性収容者3000人とされたのです。
アンネは、この選別をされる際、まっすぐ立って、堂々としていたと言われています。
比較的元気な人が選別されるということを噂で聞いて、恐らくアンネは、選別されることで、ビルケナウ収容所よりも良いところに行けると思ったのでしょう。
そして、病弱になっていた母親とはここで最期の別れとなります。アンネは、姉たちと共に、ベルゲン・ベルゼン収容所に移送されることになったのです。
アンネたちは、4日間かけて、ビルケナウ収容所からベルゲン・ベルゼン収容所に移送されます。
ベルゲン・ベルゼン収容所には、恐怖のガス室はありませんでした。しかし、ベルゲン・ベルゼン収容所は、無駄なお金を使わずに、元気な人を処分するための施設で、食事を与えず餓死させる方法を採っていたのでした。
栄養失調のためにチフスなどの高致死性の伝染病も流行し、半分以上の収容者が、数ヶ月以内にこの収容所で死亡していったのです。
アンネも、ビルケナウ収容所からベルゲン・ベルゼン収容所に移送されるところから、ほとんど食事を与えられず、ベルゲン・ベルゼンに到着した時には既に体力を失っていたそうです。
やがて体力の衰えたアンネは、チフスにかかり、間もなく息を引き取ったそうです。オランダ赤十字では、1945年3月31日をアンネの死亡日としていますが、実際には、アンネの姉妹も亡くなり、生き残った証言者が少ないことから、正確な日付は判らないそうです。
ベルゲン・ベルゼン収容所が、イギリス軍によって開放されたのは、1945年4月15日でした。アンネが亡くなってから、数週間後です。もし、あと数週間だけ生き残ることができたら、と思うと胸が締め付けられます。
私は、スティーヴン・スピルバーグ監督の「シンドラーのリスト」という映画をみて、アウシュヴィッツに行きたいと思ったのでした。
原作は『シンドラーズ・リスト 1200人のユダヤ人を救ったドイツ人』というもので、ポーランドには、実際にシンドラーの工場跡が残っています。
私は、あの映画を観るたびに、シンドラーのような経営者になれたらと思っています。世界がいつまでも平和で、二度とアンネと同じようなことが起きないようになればと、ここアムステルダムから祈っています。
(次回に続く)
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投稿者 :堀田信弘: 2011年1月20日 04:50