楽観的というのは、悲観的な考えよりも私は重要だと思っています。しかし、楽観的であろうが、悲観的であろうが、度を過ぎると、それは長所ではなく、短所となってしまいます。
楽観的は、度が過ぎれば、能天気です。前向きに考えるというよりは、何も考えないと言っても良いでしょう。本来は、先のことを何も考えないから、悲観的な考えでもなければ、楽観的な考えもないのですが、何も考えないということは安易だということなのです。
目先の利益だけを見たり、将来よりも今だけを見ているから、先のことを考えることができません。もっと、言えば、考えようとしないのかも知れないし、考えられないのかも知れません。さらに言えば、考える必要がないのかも知れませんね。
動物のように、この今の瞬間だけ、そして、お腹がすいたという欲望のまま、今の欲求だけで生きているのかも知れません。
このように書くと、欠点だらけのようですが、度を過ぎるということを必ずしも欠点だと決めつけるのも如何なものかと思う時があります。
そもそも、度が過ぎるということは、どの時点から過ぎているのでしょう。恐らく、一般的、あるいは常識の範囲を超えると、度が過ぎているということなのでしょう。
しかし、一般的、あるいは常識の範囲を超えると、それは簡単に異常だと決めつけるのではなく、むしろ稀に見る天才的だとも言えるかも知れないのです。
このように考えると、異常と天才は、紙一重かも知れません。通常は、一般的、あるいは常識の範囲を超えるとそれを異常とすることが多いことでしょう。現実的にも、常識の範囲を超えている人の大半は異常であることが多いのも事実です。
しかし、本当に稀に天才が存在するかも知れません。私たちは、もし目の前に、一般的、あるいは常識の範囲を超えるような天才が現れたとしたら、それを素直に天才と認めることができるでしょうか。
スポーツ選手のように、天才的な能力を持って、それがすぐさま数字という結果に表せるのなら、誰でも簡単にその人を天才だと認めることができるでしょう。
以前、私の妻の教え子に、とても変わった子がいました。妻は、その子が小学校一年生に入学した時に担任をしていたのですが、その頃から、他の子供たちとは全く違っていたそうです。
自分の机にじっとしていることができず、時々立ってはウロウロするような落ち着きのない子だったのです。いつも、何かブツブツと独り言を言いながら、中々先生の指示に従いませんでした。
彼は、昆虫の絵本がとても好きで、中でも蝶については、何百もの名前を暗記していたのです。
しかし、一方で、国語や社会が苦手で、文章問題は全く解けなかったそうです。私の妻は、夏休みが終わった頃、高機能自閉症ではないかと考え、両親にそのことを告げました。
ところが両親は、初めての自分の子供が、障害であるか、正常であるかの違いも理解できず、中々納得行かなかったのです。
やがて高学年になり、大学教授の元で、専門的に蝶の勉強をするようになったのです。毎週大学に通い、蝶の専門家になって行ったのでした。
その子は、現在、高校生になっています。これからどのような人生が待っているかどうか判りませんが、障害者というよりは、特別な才能を持った人と言えるでしょう。
このような高機能自閉症には、ビルゲイツやアインシュタインなどもそうではないかと言われています。最近では、太宰治もそうではなかったのかと報告もあります。
このような特別な存在の人は、完全に普通の人でありません。飛びぬけた才能を持っている反面、人と同じようにすることができなかったり、得意なことと苦手なことがはっきりしているのです。
健常者である私たちのようなマジョリティは、マイノリティな存在を簡単には受け入れられません。それが異常であろうと天才であろうと、自分たちとは異なった普通ではない人と位置づけられてしまうのです。
日本には、出る杭は打たれるという言葉がありますが、日本では、さらにマイノリティの存在を認めない傾向にあることを意味していると思います。
私は、若い頃、上司から「過ぎたるは及ばざるが如し」と何度も言われました。極端を嫌い、ほどほどが良いと悟られたのです。
また別の人には、いつも「時期尚早」と言われたのを覚えています。一刻も早く始めようとすると、「少し周囲の様子を見てからだ」と言わんばかりに、早すぎることを嫌っていました。
つまり日本では、一般的、あるいは常識的な範囲を、ほんの僅か少しでも超えようとすると、一般的、常識的な範囲に収めるように引きずり戻されるのです。
若い頃の私は、この考え方がとても嫌いでした。いつも範囲内だけで考えていたら、いつまで経ってもその範囲を超えるようなことができないからです。
その範囲の中の延長線上で考えても、決して劇的な改革などできないのです。常識を超え、常識を破るような発想を潰すような行為は、まさに、マジョリティ者が、マイノリティ者を認めない行為なのです。
しかし考えてみれば、世の中で成功している人は、皆、マイノリティ者です。つまり、成功している人は、極わずかであり、決してマジョリティではないのです。
例えば、日本の給与所得者の中で、年収1,500万円以上の人は、わずか人口の1.5%しかいません。ほんの180万人ほどです。
また、何らかの障害を持っている障害者は、認定されているだけでも650万人を超え、人口の5%が障害者なのです。
95%の人は、何の障害もなく、98.5%の人は、金持ちではないのです。その普通の人の考えが、必ずしも正しいとは言えません。もちろん、常識という最大多数的な考え方すれば、間違っていませんが、別の新しい答えを持つ人のことを、間違いとは言い切れないのです。
このことは、もっと小さなコミュニティである会社で考えても同じことが言えます。100人のうち、僅か1人の考えは、多数決でみれば、99人に簡単に否決されてしまいます。
でもその僅か1人の突出した考えを、もし誰かが見つけ、認めることができたら、残りの99人をも救う画期的なアイデアになる可能性があるのです。
私は、マイノリティな存在になりたいから、マイノリティな意見を認めるようになりたいと思っています。
(次回に続く)
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投稿者 :堀田信弘: 2011年1月30日 05:53