マイノリティというのは、少数派と言う意味です。それに対し、マジョリティというのは、多数派という意味ですが、味方を変えると、マジョリティというのは、支配者という意味にもなり、場合によっては数の暴力ということになりえます。
身近な例で言えば、右利きの多い日本では、様々な道具が右利き用のものが多数揃えられています。それに対し、マイノリティである左利き用道具は、市場論理を考えても、あるいは、生産量に対するコストを考えても、どうしても品揃えが少なくなってしまうのです。
考えてみれば、左利きとして生まれたのは、決して異常ではありません。右利きと比べた時に、割合が少ないだけで、何かができない訳ではないのです。しかも、野球などのスポーツでは、むしろ左利きのほうが有利であったりする場合もあるのです。
数が多いほうが組織を支配するということもあります。
例えば、従業員の大半が高卒の作業員である工場を持つ企業があったとします。大半が高卒であれば、彼らがマジョリティになるはずです。一部の大卒者は、マイノリティですから、マジョリティの支配下に入るのが一般的です。
しかし、少数の白人が、多数の黒人を奴隷として差別したのと同様に、数の論理を上手に活用しようと考える人が現れるのです。
企業であれば、専門的な知識を持つ人や、語学が堪能な人を幹部にするという一線を引くことで、幹部の大半を大卒者が占めるようにします。そうすると、今度は、幹部の大半、つまり会社を運営するマジョリティは、大卒者ということになるのです。
このようにして、全体的な割合と、それを率いるある階層のマジョリティが異なることもあるのです。
なぜ、このようなことが起こるかというと、マジョリティを制した側が、数の力で、支配者になれるからなのです。
しかも、最上位者は、そのマジョリティの数が多すぎることも嫌います。つまり、極少数の僅かなマイノリティ者だけが、幹部のマジョリティとなって、一般であるマジョリティ者を少数派として支配することで、掌握しようとするのです。
もし、全体の大半を占めるマジョリティが、そのままその組織の統制を図ろうとすると、様々な意見や考えを持つものが現れ、全体の意思を統一することが困難になるのです。
いわば、マジョリティという大きな組織には、必ず、更なるマジョリティ派とマイノリティ派が生まれ、組織の中に組織が誕生して、分裂の危機や、派閥が誕生するのです。
その時、できるだけ少ないマイノリティ側が、残りのマジョリティ側を制圧できる方法を考えます。数が少ないほうが、意思決定が早く、意思の統一が図りやすいからです。
これと似たような政治形態に、共産主義があります。本来、共産主義というのは、共に栄える、支えるということですから、万人は平等なはずです。
しかし、実際には、共産主義社会の中は、階層化され、エリートと呼ばれる優秀で特権階級のものが上位にいるのです。その上位者は、指導者であり、指導者と指導を受ける側は決して平等ではありません。
とても少ないマイノリティ側である超エリートだけが、幹部になることができ、全体を指導し、統制するのです。
このようなことは、企業でも同じです。オーナー社長は、大株主であり、取締役を決めることができる代表取締役でもあります。執行においても、株式においても、たった一人というマイノリティ者が、会社経営のマジョリティを握っているのです。
もし、このような企業を国に例えるなら、国王であり、かつ、議会を運営する議長であり、そして、国の内政を司る大統領をも兼務していることになるでしょう。簡単に言えば、誰もその人に逆らうことができない独裁者ということです。
たった一人のマイノリティ者が全権力を掌握して、一般のマジョリティ者を封じ込め、封じ込められた側がマイノリティ者となって、誰も権力のマジョリティを持っているオーナーに逆らうことができないのです。
今、北アフリカのチュニジアや、エジプトにおいて、何十年も続いた独裁政治に対し、何の力もないマイノリティである大衆が、権力のマジョリティを持つ者に不満が爆発し始めました。
このようなことは、今さら始まったのではなく、これまでも歴史上で何度も繰り返されています。つまり、大衆というマイノリティの不満が募れば、どんなに権力のマジョリティを持っていても、必ず倒されてしまうのです。
思えば、現在独裁政治をしているその人も、かつては、同じように大衆を味方につけて、革命を起こしたり、独立を果たしたりして、権力のマジョリティを奪還した人たちなのです。自分がしたことを、今度は自分がされる側になっているだけとも言えるのです。
しかも、特徴的なことは、あまりにも長期的な支配であるという共通点を持っているところです。権力をひとりに集中して持っているのが悪なのではなく、支配される側に、選挙という選択肢もなければ、悪政を変えることができない制度もないのです。
もっと進んだ国であれば、長期政権に対し、権力を持つ側の中にも、新しいやり方を導入しよう、方針、方向を変えようとする勢力が台頭するはずです。それが生まれないのは、あるいは、生まれたとしても、速やかにその勢力は潰されてしまうのでしょう。
企業においても、後継者問題を抱える企業が沢山あります。これまでオーナー社長が、長期政権をして、いざ引退しようとしても、任せることができないというのは、任せることができる人がいないのではなく、そのような人を作らなかったからだと思うのです。
もっと言えば、任せるような人を育てなかったか、あるいは、育った人が去って行ってしまったのか、何れにしても、何十年間もの間、次に任せる人がいないということは、長期政権を望む、望まなかったとして、結果として自分自身しか信用できなかったのでしょう。
なぜ、多くの独裁者や共産主義者たち、あるいは、一部の経営者が、自分の血縁者に継承しようとするは、唯一、自分以外で信じられるのが身内だけなのでしょう。
身内なら、自分を裏切ることもしないし、場合によっては、引退後も操ることができるとかも知れないと思うのかも知れません。
もっと判りやすくすれば、折角得た財産や権力を他人に渡すよりも、身内に渡したいと単純に考えることは、自然なことなのかも知れません。
あの優秀な経営者であったトヨタや松下でさせ、そのようにしてきたのですから、それを批判しても、それこそ、私の言うことは、経営者にとってマイノリティな考えであり、一般的には受け入れられないのかも知れませんね。
(次回に続く)
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投稿者 :堀田信弘: 2011年2月 1日 05:04