【堀田信弘の今日の語録】 『この会社は、きっと伸びるだろうな。他の会社と違うことができること自体に可能性を秘めているから。』


世の中について  「活・喝・勝」


変えられる運命と変えられない運命

先日、ある人から「子供は親を選べないと言うけれど、実は子供は親を選んで生まれてきているのです」という話を聞きました。アメリカでは、良い子を産み、育てたければ、妊娠している間から生まれた後も、ずっと良い親になれと言われているのだそうです。

考え方には色々ありますが、自分の子供が不良になって家出をしたりするのは、親が家出をするような子を産んで、親が不良になるような育て方をしたからなのです。

不良になった子供も悪いですが、そのような子にした親も悪いのです。子供は、こんな親に生まれてこなければ良かったと思っても、そのような親に生まれるべくして生まれたのです。

少しネガティブな言い方ですが、違った見方をすれば、私の長男は重度の障害者です。その長男が、この説の通りに、私の子として生まれてきたのには、理由があるのでしょう。

彼が、私を選んで生まれたのは、私に、障害者という人がいる存在を知らせたかったのかも知れません。あるいは、私の身勝手さを正すため、または、人の優しさや弱い人がいることを判らせようとしてのかも知れません。

もし、彼が、健常者に生まれていたとしたら、きっと私が思春期の頃のように、親に反抗し、親を殴るほどまでに困らせていたかも知れません。もしそうだとしても、自分が小さい時にそのような育ち方をしたのですから、その人が親になれば、当然なことなのです。

簡単に言えば、子は、親の鏡ということなのでしょうね。子供を見れば、親の姿が見えてくる訳です。そして、親の姿を見れば、子も見えるのでしょう。

世の中には、自分の子供に対し、「何でこんなに勉強ができないのだ」とか、「何でこんなことになってしまったのか」と嘆いている人がいるかも知れませんが、子供は、親の姿を見て、そのまま素直に、その通りに育っただけなのです。

私は、予め結果が決まっているだろうという、極めて限定的な"運命"ということを信じていません。

しかし、川の流れが、上流から下流に流れたり、枯れた葉っぱが木から離れて、路上に落ちるように、地球には重力があって、しかも空気があるお陰で、風が吹き、雨が降り、季節が変わり、自然が変化し、というような大きな流れの中の"運命"はあると思うのです。

つまり、誰しもには、人それぞれに自然を背にした大きな川の流れに乗って生きているのだと思うのです。

ある人の流れは、急激な流れかも知れませんし、ある人とはとても大きな川なのかも知れません。それぞれの流れや大きさは異なることでしょう。

そして、その流れは、親から生まれた瞬間から、その親の影響を受けるという、自らは選ぶことなく決まっているのです。

たった今、アフリカの大地に生まれた子もいるでしょう。その子は、生まれる前に、アフリカに生まれるのか、日本に生まれるのかなど、想像もしていません。

この生まれた瞬間、全く同じ時間に生まれたにも関わらず、王家の跡継ぎとして生まれた子もいれば、不幸にも生まれることを望まれずにシングルマザーの子として生まれる子もいるのです。

でも、その生まれた子たちは、この親では嫌だからと言って、その場から逃げることはできないのです。

その生まれた環境の中で、大切にミルクをもらって育てられる子もいるでしょうし、寒い路上で生活して、まともにミルクももらえないで栄養失調になってしまう子もいるのです。

今、10歳の子どもは、10年間、どんなことがあったかは判りませんが、今この瞬間生きているのです。しかし、中には、10年目の誕生日を迎えることもなく死んでいった子どももいることでしょう。

今、20歳になって成人の仲間入りした人は、20年という長い間、親の手なのか、施設なのかは判りませんが、何とか無事に成人になりました。中には、昨年まで少年院に入っていた人もいるかも知れませんし、病院で誕生日を迎えた人もいるかも知れません。

運命という神さまが与えた自然な流れは、誰にも変えられません。

しかし、この瞬間、私たちは、ドアを開けて走り出そうとすれば、走ることもできるし、ベットで寝込むこともできます。それは、予め決められた運命に関係なく、自由意志で、自分が判断して、行動を起こすことができるのです。

しかし、その自分が行動した結果は、運命のせいにはしていけません。例え、それがドアを開けて走り出した瞬間に、トラックに跳ねられたとしても、それは自分が走ることを選択しただけの結果なのです。

あの時に走り出さないで、ベットで寝込んでいれば、死ななくて済んだと思っても、それは運命のせいではないのです。

決して変えることができない大きな自然の流れという運命はあるものの、その流れの中では、自由意志なのです。しかも、ただ何もせずに、じっとしていれば、運という可能性のある運命を手に入れることはできないでしょう。

自力で行動して、運命というのは切り開くのです。人は動けば動くほど、様々な出会いが起きます。

私は、出会いによって、いつも自分の運命の可能性を大きく広げてくれているような気がします。

もし、人と出会うことがなかったら、自分の人生は、とても限られたものになることでしょう。場合によっては、決して認めたくはないですが、予め定められた運命とやらに沿った生き方しかできないかも知れません。

人生の範囲と方向を、そしてその道を歩んだ時の、運命の可能性を広げるのは、自分の力で、行動次第で大きく変わるのだと思います。

ただ、私たちは、偶々かも知れませんし、運悪くかも知れませんが、地震の被害を受けたり、酔っ払い運転をした車が突然に飛び込んできたりすることもあるのです。自分の力ではどうしようも出来ないもの、自分は全く何もしていないのに、なぜなの....。

それが運命なのかも知れません。

生まれた時から、そのような被害を受けることや、予想もしない結果を招くことまで、死ぬまでの出来事がキメ細かく決まっているというのではありません。

ただ、世の中には、自分の力で何とかなるものと、何ともならないものがあり、その両方は、誰にも必ずついているのでしょう。

自分でどうしようもないことは、どうしようもないのです。それが運命であろうがなかろうが、受け入れるしかないのです。ここ日本で生まれたのも、この時代に生きているのも、自分ではどうしようもないのです。

だけれど、将来の運命が決められているわけではないのです。自分の力で切り開ける可能性は、広大に広がっているのです。それを開けるかどうかで、自分の道は変わるのです。

(次回に続く)

最後まで読んで頂き、感謝申し上げます。

毎朝6時に社内朝礼ブログをこちらで公開しています。こちらもご覧頂けたら幸いです。

この内容に共感頂けたらこちらをクリックして下さい。ありがとうございます。

投稿者 :堀田信弘: 2011年2月21日 05:10