【堀田信弘の今日の語録】 『この会社は、きっと伸びるだろうな。他の会社と違うことができること自体に可能性を秘めているから。』


悲しい出来事  「活・喝・勝」


死ぬくらい苦しいこと

生きているだけで幸せだ、ということは、言葉で言うより実はそう簡単には実感できないですね。どうしても生きているということだけでは満足できず、欲が生まれるから、生きるという最も尊い欲に対し、満足を感じないのでしょう。

先日ニュージーランドのクライストチャーチで発生した大地震の際、日本人男子学生の奥田建人さんは、崩壊したビルの下敷きになってしまいました。

彼は、「どんどん強くなって、倒れた時は一瞬だった。床が抜け、がれきの下敷きで周囲は真っ暗でした。右足をはさまれて痛かった。叫んでいる人がいっぱいて、近くの仲間と落ち着こうなどとしゃべって、 時には助けてと言ったりしました。」と語っています。

12時間後、がれきが取り除かれたが、救助隊から右足を切断すると言われます。

わずか1年前の高校時代、彼はサッカー部のキャプテンだったそうです。サッカーボールを蹴って走り回っていた彼が、足を切断されると聞いてどう思ったことでしょう。もしそれが自分だったらと思ったら、やり切れない気持ちで一杯になります。

足を切らないでほしいと思うか、それとも、命だけでも助けてほしいと思うかは、その時の切羽詰まった厳しい状況にいなければ、想像のしようもありません。

彼は、「もうしょうがない。感覚もなかったし。」と言っていますが、冷静に判断できるような状況でもなかったでしょうし、あるいは、選択の余地などそもそもなかったかも知れません。

生きているだけで幸せだ、何て私たちが、そんなに簡単に言えるものではないのかも知れません。

きっと、死ぬかも知れないような恐怖的な状態におかれなければ、命の大切さなど簡単には語れないことでしょう。

命が助かったということは、命を失った人からすれば、とてもラッキーなことです。

しかし、何の被害も受けなかった私たちと比べれば、つい先ほどまで自由に歩くことができたのにと、彼にとって足を切断されたことは、ある意味で命を失ったのと等しいくらい辛いことかも知れません。

好きなサッカーができないくらいなら、死んだほうがましだ、と考えてしまうことだって他人がどう言おうと自然なことでしょう。

恐らく周囲の人は、「命だけでも助かったのだから」と慰めてくれることでしょうが、足を切断されたことがない私たちが軽々に命と比較することができるのでしょうか。

例えば、歌を歌うことが仕事である歌手が、声が出なくなり、歌を歌うことができなくなったとしたら、命を失うくらいに悲しいことであるのは間違いありません。

しかし、歌を歌うことが仕事でない私たちは、歌手を続けられなくても生きられるではないか、と思ってしまうのです。

勿論、命ほど尊いものはありません。死んでしまっては、何もならないのです。何も解決しないし、何ももうできなくなってしまうのです。

だから、死など考えるな、と思うのは当然なことでしょうが、それは、真剣に生きて、そして本当に死を目前に感じるような状況にならなければ、簡単に生きているだけで良いとは言えないのではないでしょうか。

例えば、何十年もの間、たった一人で親の看病をした人が、自分も病気になったのをきっかけで、年老いた親を殺して、自らも自殺してしまったという事件が過去にありました。

その看病の辛さ、何十年も耐えに耐えたという苦しみを知らない私たちは、90歳近い人を殺すくらいなら、あとわずか我慢すれば殺さずしても寿命を向かえるのにと、安易に考えるかも知れません。

他人が冷静にみれば、近所の人に相談すれば何とかならないのかとか考え、何十年も耐えられたのにと、その辛さ、苦しさを本当に知ることはできません。

親を殺して、自らも命を落とすほどまで追い詰められるということなど、誰もそのような経験をしていないから、理解できないのです。

死んだほうが楽だと思うほど限界に近くまで頑張ったのでしょう。何十年も頑張ったのですから、もう開放されたいと思ったのでしょう。あと何年と未来を考えるよりも、これまでの何十年の重さに耐えられなかったのだと思います。

私は先日、成年後見制度という制度について話を聞く機会がありました。

成年後見制度というのは、認知症、知的障害、精神障害などの理由で判断能力の不十分な方々を保護し,支援するのが成年後見制度です。

例えば、知的障害者の子供がいた場合、両親に万が一のことがあると、その親の不動産や預貯金などの財産を管理したり、身のまわりの世話のために介護などのサービスや施設への入所に関する契約を結んだりすることができなくなります。

そこで、事前に後見人を定め、親に万が一の場合、障害者に代わって、保護し、支援するのです。

私はこれまで多くの障害児を持つ方と知り合いました。その中には、その障害児以外に兄弟がいない方もいれば、片親しかいない障害児など、様々な環境の方がおります。

同じような障害を持つ親同士でも、将来への不安は、みなそれぞれです。養護学校を卒業するのを機に、仕事を続けることが困難になって、生活が苦しくなってしまう人も沢山いるのです。

そのような人たちの話を聞くと、世の中には、本当に様々な状況があり、人間というのは本当に公平なのだろうかと思うほどに苦しんでいる人がいることを知らされます。

そのような人の中には、どんなに励ましても、勇気づけても、出口の見えないトンネルの中にいて耐え切れないほど辛い思いをしている人もいるのです。

他人には、中々理解することはできないことでしょう。例え、頭や感情で理解できたとしても、苦しみを知ることはできないのです。

神さまは、人びとに、機会を平等に与えてくれているのでしょうか。

生まれながらに苦しい環境にいる人もいれば、死ぬまで終わりのない苦しみを背負っている人もいます。決して犯罪者のように、何か罪を犯した訳でもないのに、何をしたというのでしょう。

私は、そのような苦しみの中にいる人と出会うと、少しだけ心が洗われ、優しくなるような気がします。そして、それに比べ自分は、と、考えさせられてしまうものです。まだまだ大したことではないと、逆に励まされたりもするのです。

(次回に続く)

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投稿者 :堀田信弘: 2011年2月27日 05:12