【堀田信弘の今日の語録】 『この会社は、きっと伸びるだろうな。他の会社と違うことができること自体に可能性を秘めているから。』


世の中について  「活・喝・勝」


悲しみと苦しみと試練

先日、京都大学の入試問題を不正にインターネットに配信した男子予備校生が逮捕されました。京都大学を受験するような能力があるのに、なぜ、と多くの人が思ったことでしょう。

実際に報道によると、予備校関係者の話として「学力的には十分に京都大学に合格する可能性があった」と報じています。

そのような学力が高い学生が、携帯電話で送信すれば、簡単に送信元が判明してしまうことなど、なぜ判断できなかったのでしょう。優秀な能力があるのに、全く愚かです。

その背景には、彼をそのような状況に追い詰めてしまった事情があるようです。

昨年の高校三年生の時、受験を前にして父親を亡くします。

どのような原因で亡くなったのかは判りませんが、もし、事故であったとしたら、それはあまりにも突然なことに、驚き、嘆き、悲しむことでしょう。もし、病気であったとしたら、病院に通って看病しなければならなったかも知れません。

何れにしても、父親を亡くして、勉強が手につかないような状況にあったことは想像できます。そのため、受験した大学は、全て不合格だったそうです。

そのような状況に置かれた経験がない人は、「それでも、それを振り切って受験に望まなければ」と簡単に言うかも知れませんが、それは他人が軽々と言うものではありません。

偶々、私の家内の妹も、高校三年生の時に、母親を亡くしました。亡くなるまでの約半年は、大きな手術をくり返し、その度に病院で手術が無事に終わるのを祈っていました。

通常の高校三年生なら、何の心配もなく、青春真っ只中で、遊びでも、勉強でも、夢中になれることでしょう。しかし、思春期というその頃の年頃は、最も敏感で、最も傷つき易くて、最ももろい精神状態でもあるのです。大人への入り口でありながら、子供なのです。

そのような時、親を亡くすという、一生に一度の最も悲しい苦しさを経験するのです。そのような状況で、勉強に集中できるはずがありません。

しかも、逮捕された彼の場合には、一人っ子で兄弟もなく、父親という一家の大黒柱を失い、母と子の二人だけになったのです。

父親が亡くなった後は、大幅に収入も減り、家計は苦しかったようです。

高校卒業後は、山形を出て、仙台で一人暮らしを始め、予備校に通います。予備校の授業料は200万円を越え、毎月母親から5万円の仕送りで生活していたそうです。

介護関係の仕事をしていた母親を想い、彼は「母に迷惑をかけるから、どうしても京大に」入りたかったと供述しています。

母親想いの息子なのに、起こしてしまった事件は、母親を悲しみのどん底に突き落とすことになったのです。

息子はやってしまったことを悔やみ、母親は、父親が亡くなって生活に苦しめさえしなければと悔やんでいることでしょう。

彼がやった行為は、決して許されるものではありません。しかし、この事件の被害者は大学なのかも知れませんが、悲しみを受けたのはこの二人の親子ほどではないでしょう。

人生は、後悔しても、もう二度と後戻りすることはできません。もし、あの時に、こうしていればと言うのは、後からなら、あるいは他人なら簡単に考えられます。

しかし、当時のその場の状況に置かれて、冷静に考えられるかというのは、どんなに京都大学に合格できそうな学力があろうとも、人間にはそれができないのです。

もし、彼が、不正をせずに、予備校関係者が言うように、実力で京都大学が入学することができていたら、もしかして将来、このような事件を取り扱う検事か、あるいは弁護士になっていたかも知れません。

それを携帯電話で送信したというだけで、大学に入れないだけでなく、逮捕までされ、一生を台無しにしてしまうのです。しかも、拘留されて、残された母親は、これから先、どうやって生きていけば良いのでしょう。

山形の地方都市では、これまで通りの暮らしさえ許してもらえないかも知れません。やっと見つけた介護の仕事も、再び振り出しに戻って働き場所、住む場所を探さなければならないのかも知れません。

この様子を、亡くなった父親は、さぞかし無念で仕方なく、天国で見守っているはずです。

自分さえほんのもう少し生きていることができたら、この家庭に不幸をもたらすことがなかったのにと、悔やんでも悔やみきれません。

しかも、死んでしまった人は、もうこの世にはいません。一年前に自分が亡くなる時、残された二人に、将来どんな出来事が待っているのかなど、想像もつかなかったことでしょう。亡くなっていく自分を見守りながら、泣きじゃくる二人をどう思ったのでしょう。

母親の年齢から想像すると、父親の年齢は、恐らく、私とそれほど差がないと思います。

今、私にも4月から高校三年生になる養護学校に通う息子と、高校2年生になる長女、そして、中学に入学する次女がいます。

もし、今年の途中で、仮に私に何らかのことが起き、彼らを残して死んでしまったとしたら、養護学校を卒業する息子の世話は誰がするのか、それから、受験生になる長女は、まさに今回の事件と同様な状態となります。

今は社長をしている私ですが、私が亡くなった後の家計は、現時点でも予想がつくくらいに厳しくなるのは目に見えています。私の母親と、妻の父親の面倒を見なければなりません。

妻のやるべき仕事は、今の何倍にもなり、生活が苦しいだけでなく、精神的にも肉体的にも限界を感じることでしょう。息子の養育費、娘たちの教育費は年々増すばかりで、年老いた二人の病院通いは益々増えることでしょう。

このように将来を悲観的に考えると、人間は、行き場をなくし、決して抜け出せないトンネルに突入した気分になるはずです。

しかし、今、私たちは、現実にそのような状況には幸いにも置かれていません。神様がそのような試練を与えていないのでしょう。

でも、世の中には、昨日まで何ら不満も不安もなく生活していたのに、ある一瞬の出来事を境にして、将来を悲観的に考え、何もかもが上手くいかなくなってしまうこともあるのです。

何の罪深いことをしてもいない人にも、なぜ神様は、そのような罪深い試練を与えるのでしょうか。もっともっと世の中には、ずるい人も、汚い人も一杯いるのに、苦しんで、悲しみを乗り越えようとしている人に、試練を与えるのでしょうか。

(次回に続く)

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投稿者 :堀田信弘: 2011年3月 7日 05:54