【堀田信弘の今日の語録】 『この会社は、きっと伸びるだろうな。他の会社と違うことができること自体に可能性を秘めているから。』


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信じるものは救われる

仏教の話をしていて、信じられるものは救われるというのは、少し変な感じですね。元々、信じられるものは救われるというのは、キリスト教の考え方ですね。

キリスト教的な考え方を言えば、神を信じれば、きっと苦しみを神が救ってくださる、導いてくださるということになるのでしょう。

信じられるものは救われるというのは、キリスト教では、神を信じればとありますが、私は、別の解釈を持っています。

例えば、人を信じるが先か、人から信じられるが先か、という疑問に対し、私は、明確に、信じることが先だと思っています。

人を信じることができるかというのは、人に信じられるかということよりも遥かに難しいことだと思うのです。

人を見れば悪人だと思え、というような気持ちがあったとしたら、きっとそのような人は、人を信じることが先だとは答えないはずです。

しかし、どんなに他人を信じない人であっても、他人から信じられたいという願望があるのも間違いありません。もし、他人も信じず、他人からも信じてもらいたくない、というような気持ちがあるとしたら、それは通常の世界では生きて行くことはできないでしょう。

また、相手のほうから信じてもらえなければ、こちらも信じることができないというのでは、あまりにも受身であり、対等ではありません。臆病の表れなのかも知れませんね。

経営者というのは、人に対して実に慎重です。自分が騙されるのではないか、裏切られるのではないか、罠にはまるのでないかと、いつも他人に疑いの目を持っている人も多いことでしょう。

人を見たら疑う気持つという気持ちになるのは、分からないではありません。引きずり降ろされるかもという恐怖心から生まれているのかも知れません。

私もそのことは、否定するつもりはありません。ただ、出会った瞬間に、「あなたは怪しい」という気持ちが顔に書いてあったら、その人と真剣に付き合えるでしょうか。

信じていたのに裏切られたことがあるからと言う人も沢山います。だからもう簡単には信じたくないというのです。

誰しも裏切られたり、騙されたりすれば、嫌気を指してそのような気持ちになるのは当然なことです。

でも、その原因は、一方的に相手にあったのでしょうか。本気でこちらは相手を信じていたのでしょうか。

私は、熱心な宗教家ではありませんが、もし、本気で信じていたら、相手は簡単には裏切らないと考えています。ただ、それが本気かどうかが重要で、中途半端に信じているように見え、内心は疑っていれば、そのことは相手にも伝わるものなのです。

人を信じなければ、信じられることなどない。これは、私の考え方です。

だからと言って、宗教家のように、誰でも闇雲に他人を信じられるかというとそうではないのも正直なところです。

但し、信じようという気持ちは、どんな人にでも最初から持ちたいのです。もし、私がその気持ちを持つことができなかったら、これほど多くの人と出会うことなどなかったことだろうと思っているのです。

信じるものは救われると言いますが、"信じる者"を、信と者を足して漢字一文字で表すと、儲けという字になります。私は、信じることができる者は、儲け者になれると思っているのです。

その逆に、今、もし儲かっていないとしたら、人を信じることが十分ではないのだと思います。きっと、身近にいる人さえも、疑っていて、相手も、こちらを信用していない証なのでしょう。

また、自分を信じられることができなければ、他人を信じられるはずもありません。

きっと、信じるものは救われるというのは、何を信じるかというと、最終的には、自分を信じ、人を信じることなのではないでしょうか。

私は、キリスト教徒ではありませんから、神を信じればきっと苦しみを神が救ってくださる、導いてくださるということを頭では判っていても、神を信じて念じるよりは、目の前で生きている人間を信じるほうが遥かに現実的なのだと思います。

しかも、人間を信じるというのは、むしろ神を信じることよりも、とても難しいことだと思うのです。

だからこそ、その難しさを越えて、自分を信じ、人を信じることができたなら、きっと自分が信じた通りの可能性が見えてきて、救われるのではないのでしょうか。

私は、そう信じています。そうすれば、必ず救われますよ。

そもそも、神を信じていても、自分ではどうしようもない災害は発生するし、神を信じているだけでは、実力が伴うはずがありません。

最後は神頼みと言うことは理解できますが、その神頼みは、自分が自分の力を発揮できた時しか、結局は神は応えてくれないのです。

でも、人間は、不思議なことに、それほどまでに神を信じ、仮にそのようにならなくても、神を恨むことはしません。なにせ、神さまですから、恨んだり、憎んだりすることも許されないのです。

しかし、これが生きている人間だと、神のようにはいきません。トコトン信じていたのに、思うような結果がでなければ、恨んだり、憎んだりするのです。

神を信じようが、人間を信じようが、信じると言う行為は一緒なのに、神は許され、人間は許されないのです。

それならば、神や他人ではなく、自分自身を信じてはどうでしょう。

自分を信じていれば、恨んだり、憎んだりすることなどありませんね。つまり、自分を信じていれば、自分の実力以下でも、実力以上でもなく、実力通りの結果がでるのです。

実力もないのに、神頼みしても、所詮無理なことなのです。

実力がないことは、自分自身が一番知っています。偶々という運が良いことはあったにしても、自分を騙し、他人を欺きい、実力以上に見せようとしても、それこそ神はお見通しなのです。神を信じる前に、自分を信じることでしょう。

(次回に続く)

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投稿者 :堀田信弘: 2011年3月11日 05:55