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      <title>HottaWorld：：「活・喝・勝」</title>
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      <description>「活・喝・勝」は、堀田信弘の”君ならなれる！確率より可能性で選ぶリーダーに！”を伝えるリーダー養成塾コラムです。</description>
      <language>ja</language>
      <copyright>Copyright 2010</copyright>
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         <title>すること全てを楽しむのです</title>
         <description><![CDATA[楽しめと言われても、楽しくないことは楽しめないという人は多いことでしょう。でも、それは、本気で楽しもうとしていないからだと思うのです。
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楽しいことを楽しむことは誰でもできます。しかし、人生、楽しいことばかりではありません。それでも、楽しもうとする考えがあるかどうかなのです。

数年前、ポーランドのアウシュビッツ収容所に行った時、過酷な環境でも最後まで生き残ることができた人は、総じて前向きで楽観的な人だったということを知りました。

アウシュビッツの全員が飢えに苦しんでいる中でも、乏しい食料を病人のために与えることを続けた人、鉄格子の窓から見る若葉の芽生えや、軒を伝わる雨だれや、落葉の動きなどを美しいと感じることができた人などが生き延びました。

また、生きて出ら出られる可能性が少ないことを知りながらも、収容所を出たら、ベーカリーを作りドイツで一番に旨いパンを売ってやろう、カーネギーホールの舞台でショパンを演奏して観客の拍手を浴びたい、などの夢を抱くことができた人々が生存したのです。

何れの生存者も、収容所の中でも笑顔を絶やすことのない明るくて前向きな人々だったのです。

なぜ、誰でもいつ死ぬかも判らないような過酷で残酷な環境にいながら、彼らは笑顔を絶やすことなく、明るくて前向きな態度ができたのでしょう。殺されるかも知れない場所で、無理して明るくすることなどできないはずです。

悲しく辛い場所で、笑顔を見せることなどできないはずです。それなのに、なぜ彼らは夢や希望を持って、ほんの僅かな生きる可能性を信じることができたのでしょう。

きっと彼らは、生き残る可能性よりも、残された人生を楽しむことのほうを選んだのではなだろうかと思うのです。

人生は一度きりです。生まれた時から死に向かって、カウントダウンが始めっているのです。誰もがいつか死にます。ただ判らないのは、いつ死ぬかです。永遠に生き続けることなどできないのです。

しかし、誰もができれば少しでも長く生きたいと思うことでしょう。それは、アウシュビッツにいた全ての人が同じだったと思います。だから、誰もが僅かに生き残る可能性にかけ、それを信じようとしたことは容易に想像できます。

誰もが収容所から出られることを夢見ていたはずです。それなら、誰もが途中で発狂したり、自ら進んで自殺したりする必要はなかったはずです。

恐らく、生きることに絶望感を感じたのでしょう。このまま苦しんでも、どうせ死んでしまうのなら、早く苦しみから逃れたいとの気持ちから、自ら命を絶ったのでしょう。もしかしてここから出られるかも知れないという可能性が閉ざされたと絶望したのでしょう。

次々に死んで行き、目の前で自殺するような人を目にすれば、多くの人は、次は自分の番だと悲観的になるほうが普通です。それなのに、あたかも余命数ヶ月と宣告された末期患者のように、残された人生を楽しみたいと考えることができるのはどうしてでしょうか。

自分だったら同じように前向きになれるかどうか定かではありません。しかし、少なくても、目の前のことを、できるだけ楽しもうとしています。

楽しいから楽しむのではなく、楽しんで行うのです。それが例え草取りであっても、空き缶拾いであっても、あるいは、切羽詰った交渉事であったりと、進んで楽しめるものではなくても、楽しもうとすることができるかなのです。

気持ちの持ちようです。誰でも楽しくないことを楽しくないと考えることは簡単です。楽しいことだけをしたいというのも分かります。

でも楽しいことを楽しむのではなく、すること全てを楽しもうとするのです。例え楽しくないと思えることでも、少しでも楽しいことを見つけるのです。一瞬だけでも楽しくなる方法を考えるのです。

どうせやるのなら誰だって楽しいほうが良いに決まっているのに、始めから楽しくないと決め付けていたら、苦痛でしかありません。どうせ同じ時間を費やすのなら、楽しもうではありませんか。

楽しいことを楽しむのではなく、すること全てを楽しもうとすれば良いのですよ。楽しもうと思う気持ちが、人生を楽しめるコツなのです。

もし、余命数ヶ月と宣告されたら、残りの人生をどう楽しみますか。できれば我がまま、やりたい放題、好き勝手なことをしたいと思いませんか。

でも、それって、きっと本当に余命数ヶ月の人が真剣に考えた答えではないのではと思うのです。

アウシュビッツの例を見れば、好き勝手なことをするというよりも、目の前の出来事、目の前に広がる環境を楽しもうとするのだと思います。

特段に変わったことをしようとするのではなく、恐らく日々の出来事を楽しもうとするのではないでしょうか。人間なんかチッポケなものだと思いながら、どうせ死ぬなら笑いながら死にたいと思うのではないでしょうか。

何れにしても、人間が極限状態に置かれたときでないと、その人の本当の性格はでないかも知れません。発狂する人のことを侮蔑することなどできないことでしょう。

そもそも、今、この瞬間、当時のアウシュビッツのことを想像しようとしても無理があります。しかも、病気でもないのに、余命何ヶ月だと言われたらどうすると言われても、きっと、本当に病気の時と同じ気持ち、考えになることなどできないでしょう。

だからこそ、普段から死や生をどう考えるのかというのがむしろ大切なのだと思います。目の前に死を感じた時に、ドタバタと慌て転げることなく、死生観というのを持っているのは強いと思うのです。

そのような人こそ、真に前向きで人生を明るく楽しめることができる人だと思うのです。

それに対して、死に怯え、できるだけ長生きしようとしがみ付こうとしていては、きっと人生は楽しくないはずです。ビクビクしながら、嫌なことを避け、好きなことしかやらないようにしても、人生好きなことばかりではないことにぶち当たることでしょう。

これでは希望する長生きなどできないのです。アウシュビッツの生き延びた人たちが教えてくれたのは、長生きしたいのなら人生を楽しめということなのです。目の前のことを楽しもうとすることが大切だと言うことなのです。

何も長生きしたいから言っているのではないのです。どうせやるのなら、何でも楽しもうという気持ちを持って行ったほうが精神的には良いということなのです。

イヤイヤしながらストレスを感じて行うより、前向きに楽しくやったほうが良いではないですか。草取りだって、空き缶拾いだって、やりたくない気持ちでダラダラと時間が過ぎるよりも、さっさと楽しくやって素早く終わりにしたほうが気分が良いじゃないですか。

（次回に続き)]]></description>
         <link>http://www.hottaworld.com/archives/2010/07/post_863.html</link>
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         <category>世の中について</category>
         <pubDate>Fri, 30 Jul 2010 05:41:27 +0900</pubDate>
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         <title>心と体のバランス</title>
         <description><![CDATA[小学生の頃、ある発表会に参加し、生まれて初めて大勢の人前に立つ時がありました。余りにも緊張してドキドキしていると、付き添ってくれた先生が、「手の平に人という字を書いて飲み込んでごらん」と言ってくれたのを覚えています。
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でも効果があったのかどうかは定かではありませんが、生まれて初めて極度に緊張すると息苦しくなるという体験をしたことは今でも忘れません。そのような体験が功を奏してか、今では大勢の人前で話すことに少し慣れを感じるようになってきました。

さて、「息」という字は、自分の心の状態を表すと書きます。気分が滅入っていると、ため息が出たり、退屈だとあくびが出たりしますね。緊張してドキドキしていると、息も荒くなります。息は、自分の心の状態を表すのです。

人間は、息を吐くためには、息を吸う必要があります。吸うから吐くのか、吐いたから吸うのか、どちらが正しいのでしょう。

通常、人間は、吸うことも吐くことも意識していません。意識していないからこそ、自分の心の様子が表れるのかも知れませんね。

水泳での息継ぎの場合には、吐くのが先です。水の中で思い切って息を吐いてしまえば、水の外に口を開けて顔を出すだけで、意図的に吸い込まなくても自然に空気が入ってくるというものです。

これと似たようなものにヨガがあります。私は先日、子供たちと簡単なヨガを体験してきました。

ヨガでは、まず気管支や肺に残っている空気を、鼻から息を吐くところから始めます。できるだけ多く、長く吐くことができるようにするそうです。

初めての人や慣れていない人は、中々十分に吐くことができません。それは、呼吸を意図的に調整することに慣れていないからだそうです。私たちは普段、息を意図的にコントロールすることなどしないですね。

呼吸というのは、意志とは無関係に内臓の働きを支配し、調節する自律神経によって行われます。自律神経は、心臓や呼吸器系の働きを活発にする交感神経と、逆に心臓などの働きを抑えてリラックスさせる副交感神経からなっています。

ストレスや緊張などによって、交感神経が過剰となって、心臓が強く働き過ぎて高血圧や肩こりなどの症状を招くことが多くなります。

本来、自律神経は、意図してコントロールできるものではありませんが、呼吸を意図的にコントロールすることで、自律神経を揺さぶり鍛えることができるのです。

人間は、息を吐く時は副交感神経が働き、吸う時は交感神経が強く作用するそうです。そこで、できるだけ長く息を吐くことで副交感神経が刺激され、体をリラックスさせる効果があり、自律神経を正常作用させるようです。

つまり、息を吐くということは、体や心をリラックスしようとする働きのようです。逆に息を吸う時のほうが、交換神経を刺激し、緊張感を生むのかも知れません。

緊張した時には、深呼吸をと考えがちですが、自律神経と呼吸器の関係から考えると、息をゆっくり、長く吐くことのほうが、緊張をほぐすというのは以外な発見でした。

このように体の働きを詳しく知ると、心と体というのは、一体であることが良く判ります。心が体を動かしているというよりも、体が心を動かしているかのようです。

心と体のバランスが重要だと言いますが、心と体は別々なものではなく、一体なのです。
健康というのは、心も体も両方とも健康でなければならないのです。

人間の体には、心という臓器は存在しません。取り出して見てみることも触ってみることも出来ないのです。ですから、心の病気になっても、外科的に手術をして直すということはできないのです。

しかし人間にとって、心というのは、なくてはならない大切なものです。心も体と同様に、健康でなくてはなりません。心と体とは密接な関係があり、心の健康が損なわれれば、体の健康も損なわれ、体の健康が損なわれれば心の健康も損なわれるのです。

それでは、どのようにしたら心の健康を保つことができるのでしょう。あるいは、体の健康を保つために運動を心がけるように、心の健康を保つために心がけることはどのようなことなのでしょうか。

ここでは専門的なことを知ったり、学んだりするところではありませんので、違った角度から考えてみることにします。

体調を崩す、病気になるというには、必ず何らかの原因があるはずです。不規則な生活をしていたり、寝不足や、過労などを続けていれば、何れそれが積もって体に影響を及ぼすだろうことは素人でもわかります。

同様に、心のバランスを崩したり、悩んだりストレスに感じたりするには、必ず何らかの原因があるはずです。

体の病気の場合には、その原因を取り除くために投薬をしたり、外科的治療をしたりします。しかし、心の場合には、単にその原因を取り除けば良いということにはならないのです。

例えば、今の職場で働くことがストレスであり、その原因がその職場での人間関係だとします。そこまで原因がはっきりしているのだから、原因を取り除けばよいかというとそうではないと思うのです。

勿論、根本治療として、根治させるのは、その職場を辞め、別の職場に移るということも考えられることでしょう。体に変調を来すほどの場合なら致し方ありませんが、そのような逃避行動ばかりを繰り返していたら、どの職場に行っても同じことを繰り返すだけです。

ストレスは悪という考えがありますが、一概にはそうとは言えません。ストレスがあるからこそ、そのストレスを乗り越え、解消しようとする意思が働くのだと思います。

このことは、体を鍛えるために運動するようなことと同じだと思うのです。心を鍛えることを意識して、努力しようとしなければ、心はどんどん弱くなってしまいます。ストレスから逃げるのではなく、心を強くするためのきっかけだと考えることも重要なのです。

だからこそ、様々な経験や体験をした人ほど、力強い精神力を持っているのです。それは、生まれ持ったのではなく、経験や体験によって心が鍛えられたのです。当然、経験が浅い人ほど、初めての出来事にはストレスを感じることでしょう。

重要なことは、そのストレスとどう向かい合い、そしてさらに、ストレスを解消すべく、リラックス、リフレッシュするような自分なりの生活の楽しみ方を確立することが重要なのです。

避けて通ることよりも、受け止められるように心を鍛えることが大切なのです。そして、心に栄養や、休養も与えることも大切なことでしょう。

このようにして、目に見えない心というものを、自分なりに可愛がって、メンテナンスすることが、楽しく生きる術ではないでしょうか。これがストレス社会で生き延びるために、ストレスと向かい合う方法だと思います。

逃げないこと、立ち向かうこと、そして、気分転換を図ること、溜めすぎないこと、これが心のバランスを保つことだと、私は思います。簡単に言えば、人それぞれが、それぞれの考え方を持って楽しく生きれば良いだけのことです。

生活を楽しめば良いのです。楽しもうとするのです。楽しいと思うのです。簡単なことです。

（次回に続く）]]></description>
         <link>http://www.hottaworld.com/archives/2010/07/post_862.html</link>
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         <category>世の中について</category>
         <pubDate>Wed, 28 Jul 2010 05:40:51 +0900</pubDate>
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         <title>気力、関心、感動のある自発的な組織</title>
         <description><![CDATA[無気力、無関心、無感動。これらの特徴を持つ学生のことをスチューデント・アパシー（Student apathy）というそうです。アパシーというのは、無気力・無感動なことです。
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ある本によると、スチューデント・アパシーに陥りやすい人の性格と生活習慣が載っていました。アパシーになる2つの共通の性格とは、まずは完璧主義者です。

何でもきちんとやらなければ気がすまない性格の人ですが、時間に限りがある時や、他にも同時にやらなければならないことが重なったりすると、その性格とは裏腹に、全てが中途半端になってしまうという特徴があるそうです。

完璧主義者であるその人は、その中途半端な状態が許せず、そのような失敗をすると、直ぐに無気力状態に陥りやすいのだそうです。

さらにもう一つの特徴は、体内時計の調整が苦手な人だそうです。スチューデント・アパシーになる人は、朝が苦手で、朝から学校に行くことができません。

そもそも人間の体内時計は、一日が24時間ではなく、25時間だそうです。従って、そのまま放っておくと、毎日１時間づつ後ろにずれて行ってしまうのです。それを、朝起きて日光にあたると脳にセレトニンが増えて、体内時計を元に戻すのです。

スチューデント・アパシーになる人は、夜型の傾向が強く、それまでの中学・高校とは違って一人で早起きしなければならないことができず、朝起きられないのが常態化してしまうのだそうです。

何となく無気力、無関心、無感動という言葉は、このような学生には起こるべきして起きているように思えます。

しかし、完璧主義者で、朝が弱いという共通点だけをみると、無気力、無関心、無感動という症状がでるのは、何も学生に限ったことではないはずです。

４年間の大学生活でアパシーであった人が、それから30年間、無事に社会人生活を過ごすことができるのでしょうか。あるいは、大学の時にはアパシーでなかった人でも、長い30年間の間にはアパシーになってしまうことがあるのではないでしょうか。

私は専門家ではないので、完璧主義者で、朝が弱いという共通点だけを取り上げて、それがアパシーになる特徴であるということを言い切ることはできません。

完璧主義者で、朝が弱い人など世の中には沢山いますので、それが絶対要件ではないと思います。また、仮に完璧主義者で、朝が弱い人がアパシーになり易いということを認めたとしても、その逆にアパシーだから朝が弱いということも言えるはずです。

そもそも、無気力、無関心、無感動の人が朝早起きするとは思えません。朝弱いから無気力、無関心、無感動になるのではなく、無気力、無関心、無感動だから朝が弱いと考えたほうが妥当に思います。

また、完璧主義者だからこそ、無気力、無関心、無感動になるというよりは、無気力、無関心、無感動の人の中には完璧主義者の人がいると言ったほうが妥当でしょう。

しかしこの場は何れにしても、アパシーを分析して研究する場ではありませんから、専門的な解釈は、専門家に任せることにします。

それよりも会社経営者として考えてみると、無気力、無関心、無感動な部下がいたら、果たしてどうやって指導したら良いかということです。あるいは、無気力、無関心、無感動な部下を生まず、気力、関心、感動のある集団にするにはどうしたら良いかです。

皆さんなら、気力、関心、感動のある集団というのは、どのような集団を思い浮かべますか。

私は、自発的な集団、これこそが気力、関心、感動のある集団であると考えます。

自発的に行動ができ、自発的に反省し、自発的に見直し、自発的に目標を掲げることができる集団です。

そのような組織で働いている人たちは、当然、自発的な人たちの集まりのはずです。気力、関心、感動というのは、自発的に行動しなければ得られないのです。

さて、どうしたら自発的な集団、組織にすることができるでしょう。

自発的の対義語は、受動的です。簡単に言えば、受身です。それに対し、自発的というのは、前向きです。人から言われてするのではなく、自ら考えて行動することです。

そのためには、行動するための答えを教えるのではなく、行動するために何が必要かを考えさせることが重要なのでしょう。

自発的に行動するには、自発的に考えさせることが第一歩だと思うのです。自分が考えたことなら行動し易いですが、他人が考えたことを行動するのは中々本気にはなれません。

自分で考えたことを、自分で行えるようにしてあげれば、自ずと自発的に行動できるはずです。そもそも気力がある、関心を持つ、感動するということは、他人から与えてもらうのではなく、自ら感じるものですから当然なことです。

その当然なことを推奨すれば良いのです。そして、より自発的な人をどんどん抜擢していけば良いのです。推奨するということは、会社が認め、より高い自由度と責任を与えてあげることですから、抜擢することが会社としての意思なのです。

組織における最大の力は、力を結集した時です。力の結集というのは、それぞれの力を持ち合って、出し切った時に表れるのです。それが最大限にできるのは、自発的な集団であると思うのです。

しかし、組織の中に入ると、どうしても受動的になりやすくなってしまいます。言われたことをやっていたほうが楽であり、責任も転換できるからです。

自発的というのは、責任も伴うのです。責任を好んで引き受ける人が少なくなってきているように思います。それは失敗を恐れ、リスクを回避しようとする気持ちが働くからでしょう。あるいは、苦労をしたくないという気持ちがあるのかも知れません。

もし大半の人がそうであったとしても、組織のリーダーは、それでは問題です。リーダーが自発的でなく、部下が自発的になれるはずがありません。だから、組織のリーダーにする際の条件は、能力や成果よりも自発的に行動できるかどうかがポイントになるのです。

アパシーの学生は朝が苦手だと言いましたが、リーダーにとって苦手や、好き嫌いというのは関係ありません。それを気力で跳ね返すやる気がなければならないのです。

だから、わが社の幹部社員は、責任が重い人ほど、自然に朝早く出勤しています。これは、受動的ではなく、自発的な行動の表れなのです。

そもそも、アパシーの学生のように、朝が苦手だと言っているようなリーダーには、自発的に行動できる組織にすることなど任せられるはずがありません。リーダーがやる気に漲っていなければ、組織は活性化せず、自発的な行動を受け入れられるはずもないのです。

気力がある、関心を持つ、感動することができる自発的な考え、行動ができる人たちが集まった組織、これこそが、これからの激動、激変の時代を勝ち残る集団になることでしょう。

（次回に続く）]]></description>
         <link>http://www.hottaworld.com/archives/2010/07/post_861.html</link>
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         <category>組織について</category>
         <pubDate>Mon, 26 Jul 2010 05:40:16 +0900</pubDate>
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         <title>気力を高める方法</title>
         <description><![CDATA[積極的に他人と関わろうという意欲が起こらないのは、気力の問題だと断じましたが、そもそも、人間の気力とは何でしょう。
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気力とは、辞書によると、何かを行おうとする精神力、気持ちの張り、充実していることとあります。

簡単に言えば、心の様子を風船に例えると、気力があるというのは、空気が充実して膨らんでいる状態と言えるでしょう。それに対し、気力がないというのは、心の空気が不足していて萎んでいる状態です。

つまり、人間の心は、膨らんだり、萎んだりするのです。この状態を表すのが気力なのです。

風船のようにいつもいつもパーンとパンパンに張った状態にあると、何かのきっかけで割れてしまうかも知れません。あるいは、どんなに空気が満タンの状態にあっても、放っておけば翌日には自然に空気が漏れて、シンナリと萎んでしまうかも知れません。

以前、ある年配の社長から、「あくびをしないようにしている。あくびが出そうな時は、大きく手を上げて、深呼吸をするようにしている」という話を聞いたことがあります。

この社長によると、「頭の中は、いつも意識して自分で喝を入れないと、自然に気力が薄れるものだ」と言っていました。そして、あくびが出るということは、今まさに喝を入れなければならない状態だそうです。

あくびは、退屈、無気力、無関心という頭の中を表している典型的な自然な行動です。無意識に出るこのあくびに対し、喝を入れないで放っておくと、次第にあくびの回数が多くなり、あくびをかけばかくほど、気力、やる気が奪われて行くのです。

それを防ぐには、あぐびを撲滅しようという発想です。それが自分で頭に喝を入れるということなのです。喝を入れるというのは、失われそうになる気力を取り戻すために、頭に刺激を与えることなのです。

手足を動かしたり、意図的に気分転換を図ろうと行動することが重要なのです。そして、もう一つ重要なことは、自分自身で頭に喝という刺激を与えることよりも、他人から刺激を与えられたほうがもっと頭が活性化するということです。

この頭の活性化こそが、気力を高め、気力を維持する源なのだと思います。つまり、気力がなく心の空気が不足していて萎んでいる状態というのは、頭の中が活性化していないということなのです。

活性化していないから、活性化させる必要があるのですが、あまりにも無気力な状態が続き、気力を出そうという気持ちすら起きなくなると厄介です。

どんなに外部から刺激を与えようとしても、それを意図的に避けようという気持ちになるからです。言わば、引きこもりの状態と言えるでしょう。外からの刺激を、逆にストレスが増える外部要因と認識するようになり、刺激を受けないようにしようとなるのです。

こうなると専門的なカウンセリングを受けないと、素人では動かしがたい状態に陥ってしまうことでしょう。だからこそ、このような状態にならないうちに、外からの刺激を受ける時間を、意図的に確保するようにしなければならないのです。

意図的、意識的に、少しだけ踏ん張ってみることです。そして、このままダラダラとしていたら堕落してしまうと自らを奮い立たせることです。これができれば、頭は活性化することでしょう。

あくびをしないようにするという社長も、これは自己暗示であり、自分自身が作り上げたお呪いのようなものなのです。それでも、薄れてしまいがちな気力を何とか維持しようと工夫をしているのです。

こう言う私も全く同じです。今日の、この時間も、実は気力がなく困っていました。だから、気力とは何なのかを考え、それを書くことで、気力を取り戻そうとしているのです。

気力がなくなるということは、誰もが陥ることです。論理的に、目標がどうの、具体的な理念がないとどうのといった理屈ではなく、自分自身を奮い立たせる意識を持っていなければ、人間はどうしても楽なほう楽なほうに流されてしまうのです。

そしてその楽を選ぶたびに、気力は失われていくのです。ナニクソという、歯を食いしばる状況を経験して、耐え、立ち向かうのです。そうすれば、気力を維持することができるでしょう。

病は気からと言いますが、気力がなければ病気にもなります。病気になれば、気力もなくなります。気力がなくなってから取り戻すのではなく、今ある気力を、常に高め、維持することが大切なのです。そのような気力があれば、病気などしません。

赤ちゃんを産んだばかりの女性が、眠い目を擦りながら、夜中に何度も起きて、赤ちゃんにミルクを行えるのは、やなければという強い意志と、それを支える気力が充実しているかでしょう。

このやらなければという気持ちが、踏ん張って気力を出す支えになっているのですね。

誰からやれと言われて渋々と行っても気力が出ません。自らがやれなければという責任感や達成しようとする欲求がなければ、どんなに人から言われても駄目です。自らが、自分にやらなければと指示しなければならないのです。

しかも気力というのは、全く同じ状態を維持するのは極めて困難です。プロ野球選手のイチローでさえも、気力を保つには苦労しているようです。

あのイチローでもそうなのですから、ここは思い切って、ずっと気力を維持するのは不可能だと思ったほうが良いかも知れません。

逆らっても、苦労するだけですから、極めて難しいことは、思い切って丸呑みしてしまうことです。そうすれば、気力が落ちるのは当たり前であることを受け入れられることでしょう。

そして、当たり前のことが当たり前に起きているだけですから、自然に受け入れれば良いのです。問題は、このように自然に波があるわけですから、どうしたら、気力が薄れた時に、どうやって再び回復させるかということです。

落ちたままの状態が長く続いてしまうと、それが慢性化し、それが常態化してしまいます。これは怖いことです。この一点だけを避けようとすれば良いのです。

気力が落ちている時の自分を在りのまま受け止め、その時にはリラックスしたり、リフレッシュしたりして、気分転換を図るのです。楽しいことや、好きなことを思い切り行うことが良いと思います。

ダラダラと部屋で寝転ぶことを、リラックスやリフレッシュと捕らえる人がいますが、これは間違いです。いつでも寝転ぶことなどできますし、行動しないということは気力回復には繋がらないからです。

何も考えずにゆっくりとしたいというのなら、南国のリゾート地にでも行って、普段とは異なる環境で、のんびりすることが重要なのです。これはゴロゴロと家にいるのとは違い、意図的にリフレッシュを手に入れようと行動していることなのです。

行動するのと、行動しないのとでは雲泥の差があるのです。気力を意識するのなら、頭に刺激が行くように、何らかの行動をすることが重要なのです。

（次回に続く）]]></description>
         <link>http://www.hottaworld.com/archives/2010/07/post_860.html</link>
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         <category>リーダーについて</category>
         <pubDate>Sat, 24 Jul 2010 05:39:38 +0900</pubDate>
      </item>
      
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         <title>人との関わりを捨てることと得ること</title>
         <description><![CDATA[最近、他人との関わりを煩わしく思う人が増えているように思えます。もし、人間が他人との関わりを捨てたらどうなることでしょう。
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一方、できれば面倒なことには関わりたくないという心境になることも判らないわけではありません。

人と関わりを持つからこそ、嫌なことが起こったり、気分を害したりするわけです。もし、関わりがなければ、その嫌なことが起こる可能性を回避できるのです。

つまり、関わりを持つことで何かを得られるというメリットの可能性よりも、嫌なことが起こるかも知れないというデメリットの可能性を自ら絶とうとするのです。簡単に言えば、メリットなど要らないから、デメリットを避けたいということです。リターンよりリスク回避とも言えるでしょう。

このような考え、気分になることは、特別なことではありません。疲れている時や、病気で寝込んでいる時など、誰が好き好んで誰かと会おうとするでしょうか。面倒くさいというよりは、避けたいという気持ちになることのほうが自然なことです。

それはメリットやデメリットなどという計算高い考えではなく、気力の問題なのです。体が弱っていたり、気持ちが滅入っていたりすると、人と関わりを持とう、会おうという気力が湧いて来ないのです。気力が失せているのです。

このことは誰にでも起こることです。このように考えてみると、他人との関わりを煩わしく思うということは、関わりを持とうとする気力がないのだと言えるでしょう。逆に言えば、他人との関わりを持つには、気力が必要だと言うことです。

メリットとデメリットを天秤にかけて考えるというのではなく、精神的にも肉体的にも健康で、健全で、気力に満ちていなければ、積極的に他人と関わろうという意欲が起こらないのです。気力の問題なのです。

しかし、健常者の場合には、簡単に気力の問題だと片付けられますが、他人との関わりに障害を持つ場合には、事情が異なります。

アスペルガー症候群という発達障害があります。

アスペルガー症候群は、他人の情緒を理解することが苦手で、行間を読むことが苦手だという特徴があります。もう一つの特徴として、アスペルガー症候群の75％以上は男性で、自閉症の特徴と同じです。

私の長男は、自閉傾向がある知的障害者ですが、アスペルガー症候群は、言語障害も知的障害もない自閉症とも言われる高機能自閉症です。

古くは、アインシュタインやエジソンなどもアスペルガー症候群だったと言われ、最近ではスティーブン・スピルバーグ監督も診断を受けています。

原因はまだ解明されていませんが、天才型の優秀な知能を持った人に多いとも言われています。大学の研究室には相当数の人たちが該当するとも言われているのです。

仮に健常者の位置づけを、自閉傾向も知的障害も持たない人たちとすると、それ以外の少数派の人たちを、自閉傾向を持つ人と位置づけられます。さらに、自閉傾向を持つ人たちを、知的障害を持つ人と、知的障害を持たない人とに別けられるのです。

何れにしても、健常者からすると、少数派の人たちですが、彼らの目線で見ると、違ったことが見えてくるように思えます。

健常者の見方では、他人の情緒を理解することが苦手で、行間を読むことが苦手だと、決め付けますが、自閉症の人から見ると、相手が発した言葉通りに純粋に受け止め、裏に隠された他人の情緒を理解する必要がないと言えます。

また、行間を読むことが苦手なのではなく、健常者は行間を読まなければならないような面倒なコミュニケーションをする不思議な動物と受け止めることもできます。

私たちは、彼らのことを自閉症というレッテルを貼って、心が閉ざされているかのように考えがちですが、実際には、感情がないのではなく、健常者とは違ったコミュニケーションの方法を取っているのです。

先日、障害者の集まりに、アスペルガー症候群の男の子がいました。

彼は、健常者や障害者という区別なく、積極的にコミュニケーションを取ろうとしていました。しかし、彼は、健常者の言うことが理解できず、何度も何度もイライラしていました。

なぜ、自分が話をしようしている時に、突然話を遮られるのか、相手が話しをしている時に、なぜ自分は直ぐに自分の考えを言ってはいけないのか、など、自分の思うように進まないことに苛立ちを感じているようでした。

それでも彼は、私たちのような不思議な動物を相手に、何度もコミュニケーションを試みようとしていたのです。まるで、地球人と宇宙人が、言葉とテレパシーというそれぞれが異なった手段を用いて会話を成り立たせようとしているようでした。

彼を見ていると、明らかに、コミュニケーションに対する意欲を感じました。これこそが、気力だと思ったのです。

私たちが、もし逆の少数派の立場だったらどうなることでしょう。全くかみ合わず、自分の気持ちや考えが一つも通じないと思ったら、耐えられるでしょうか。それでも、何とか理解してほしい、理解したいと思うでしょうか。あなたが宇宙から地球にやってきたら、地球人と会話できますか。

私は、これまで日本語も英語も何も通じないような国に何度も行きました。身振り手振りで何とかしようとしたこともありました。何を注意されているのかさっぱり判らないことも沢山ありました。

しかし、それでも何とかしなければなりません。言語が異なっても、必死でコミュニケーションしようとすれば、同じ人間なのだからきっと判ってもらえるはずだと思いました。その時は、理屈も気力も関係ありません。メリットもデメリットもありません。

それなのに、言葉も通じ、行間も読め、相手の感情も理解できると、どうして人は嫌な思いや、億劫になったり、面倒になったりするのでしょう。いっそのこと、言葉など通じないほうが良いのでしょうか。口は災いの元というくらい、時に言葉は厄介なものなのです。

私は、アスペルガー症候群の男の子の姿を見て、他人との関わりから、必死で何かを学ぼうとしていることを感じました。理解したい、理解しようとするのがコミュニケーションだと思いました。言葉ではないのだと痛感したのです。

如何に知的に優れていて、多くの書物を読もうとも、学べないものが沢山あるのです。彼ら少数派からすれば、私たちのような動物は、他の動物と明らかに違い、心という目には見えないテレパシーを送って会話する特異な生き物なのです。我々のほうが動物の中では、少数派なのです。

この特異な動物は、人に対する思いやりや、自分の感情の扱い方、他人への洞察力、機微を察した行動など、人と関わりを持てば持つほど成長していくのです。関わりを持たなければ成長できないのです。

だから、コミュニケーションという道具を持った特異な人間という動物は、コミュニケーションを捨てて、一人で生きて行けないのです。

アスペリガー症候群の男の子が、他人との関わりから、必死で何かを学ぼうとしているのに、コミュニケーションを取れる私たちが、意図的に意識して、他人との関わりを避けていたらどうなることでしょう。恐らく、多くの何かを失い、衰退することでしょう。

（次回に続く）]]></description>
         <link>http://www.hottaworld.com/archives/2010/07/post_859.html</link>
         <guid>http://www.hottaworld.com/archives/2010/07/post_859.html</guid>
         <category>障害者について</category>
         <pubDate>Thu, 22 Jul 2010 06:39:01 +0900</pubDate>
      </item>
      
      <item>
         <title>聞く・聴く・訊く</title>
         <description><![CDATA[相手に上手に話をすることや、人が感動をするような話をすることは、とても難しいことです。そのためか、話をすることよりも、話を聞くことのほうが簡単だと思われがちです。
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しかし、聞き上手ということを勘違いしている人がいます。断じて言いますが、話をすることより、聞くことは簡単ではありません。だから、ただ黙って聞いていることが聞き上手だと勘違いするのは誤りです。

政治家が出る討論番組などを見ていると、決して話が上手には思えません。しかも、あのようなデシャバリ、出たがりの態度の人は、全く聞くことができていません。

つまり、聞き下手であり、話下手なのです。あれは、話をしているのではなく、言いたいことを喋っているに過ぎないのです。ただのお喋りは、話上手にも聞き上手にもなれないのです。

聞き上手というのは、一言で言えば、相手に話しをさせるのが上手という意味です。もう少し違った言い方をすると、聞き出し上手とも言えるでしょう。

だからただ黙っているだけでは、相手は話をし易くないのです。何も言わない人形やロボットの前で話をさせられているような状態なのですから当然です。

もっと簡単に言うと、耳で聞くのではなく、真剣に聴くことです。聴くという漢字は、耳と目を＋して、心で聞くという文字です。

耳から音を聞くのではなく、相手に関心を持って、心から聴くのです。相手の話に耳を傾け、集中して、しかも同調して、真剣に聴くのです。

さらに、相手の考えを聞きだすことを、訊くと言います。訊ねるという意味です。訊くという字は、言うという字から成っていますから、こちらから声を出して訊ねることです。

つまり、訊くは、質問することなのです。

相手がもっと話をしたくなるように、話をし易くしてあげるには、訊くことをしなければならないのです。どんなに真剣に心から聴いていると言っても、そのことを態度で示しには、訊くという行動で相手に知らせなければ、心の中は伝わらないのです。

つまり、聞き上手というのは、心から真剣に聴いて、相手が話をしやすいように訊くことなのです。聴く＋訊く＝聞き上手ということなのです。

しかし、このことは簡単ではありません。

まず、聴くことですが、耳と目で、心から聞くと言いましたが、ポイントは目です。耳と目を使うことで、初めて聴くことができるのです。

例えば、異性の相手が、一生懸命に、あなたに恋の告白をしたとします。元々自分のほうもその相手に関心があって、好意の気持ちを持っていたのです。そのような場面を想像してみて下さい。

相手が一生懸命にあなたに話をしようとしています。その時、あなたの目はどうなっているでしょう。

恐らく、真剣な眼差しで、目を丸くして、心をドキドキさせながら、相手の顔を見つめているのではないでしょうか。

まさに、耳と目を使って真剣に聴いている様子が目に浮かぶことでしょう。このようなことが聴くということです。誰でも簡単にできますね。ただし、問題は、このような場面ではない時にできるかということです。

真剣な眼差しで、目を丸くするのは、相手に関心があるからです。目が丸くなって真剣に聴いている態度は、相手にも伝わります。つまり、目に心の様子が態度に表れるのです。

もし、営業マンであるならば、言葉少なめなお客さまで、あまり話しに乗り気でない人であっても、真剣に聴こうとする態度を目で表さなければならないのです。どのような人にもこのような態度ができるのは簡単なことではないのです。

そして、訊くことですが、これは、聴くことができなければ不可能です。興味も関心もなく、相手の話が詰まらないと思っていたら、とても訊くことなどできないのです。そして、訊くことができないということは、相手に話をさせられないということなのです。

相手に話をさせるには、できるだけ質問をすることです。こちらが関心を持っていれば、質問をしたくなるはずなのです。

質問をすることは難しくありません。一番簡単な方法は、オウム返しをして、疑問系に変えれば良いのです。

例えば「こういうことがあるのです」と相手が言ったら、「そういうことがあるのですか。それはなぜですか。」と続きを訊ねれば良いのです。なぜ、どうして、いつ、どのように、と疑問符を相手の言葉に続ければ良いのです。

そのように話に協調して、頷いて、相手の話に同調するのです。どんどん相手に話しを膨らませて行くのです。

これが聞き上手というものです。とても難しいことだと気づくことでしょう。

話し上手な人は、聞き上手のことを知っています。その逆に、聞き上手の人は、実は話し上手でもあるのです。

一方、話し下手な人は、聞き上手ではないことが多いです。それは、自分が話すことが苦手だと思っていると、話す側の気持ちや考えを察知することができないからです。

明さまに詰まらない態度をしたり、あくびをして退屈そうにしたり、あるいはソワソワと早く帰りたい素振りをしたりと、まるで聞きたくないということを相手に判ってほしいとしているかのようです。

誰しも、詰まらない話を聞いたら、時にそのような気持ちになることでしょう。しかし、詰まらないのだから仕方ないという気持ちを持っていると、いつの間にか、どのような人にも詰まらない態度が出るようになってしまうものです。だから聞き下手になるのです。

きっとそのような人は、人と話をすることも、聞くことも好きではないのかも知れません。つまり、コミュニケーションを取りたくないのかも知れません。

そのため、人とコミュニケーションを取るのは自ずとおっくうになり、もっともっとコミュニケーションを図るのが苦手になるのです。好きでないのだから、仕方ない、という考えもあるかも知れません。

しかし、そうして好んで引きこもってしまう状態に入ってしまうことには賛同できません。なぜなら、そのような状態に入ったら、中々抜け出せなくなるからです。

人付き合いが面倒になり、関わりを避けるようになると、人間として心の成長をそこで閉ざすことになるからです。それはとても不幸なことです。不幸という意味は、人間は一人では生きられない動物なのに、自ら生きられない方向に歩むからです。

人間にとって、人との関わりは、生きていく証なのです。生きていく術なのです。だから、人間が折角手に入れた他の動物にはないコミュニケーションという方法を捨ててはならないのです。

（次回に続く）]]></description>
         <link>http://www.hottaworld.com/archives/2010/07/post_858.html</link>
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         <category>世の中について</category>
         <pubDate>Tue, 20 Jul 2010 05:38:29 +0900</pubDate>
      </item>
      
      <item>
         <title>意識しなければ見えない</title>
         <description><![CDATA[私たちの会社は、サービス業です。ＩＴ技術を駆使して、お客さまが満足するようなサービスを提供するのが仕事です。
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究極的に言えば、技術を提供するのではなく、技術を用いて、お客さまの業績が良くなるようにお手伝いするのです。

お客さまが満足するのは、技術が優れているからというだけの理由ではなく、お客さまの業績を向上させたり、あるいはお客さまの不便さを取り除いたり、効率化して、喜んで頂くことなのです。

喜んで頂くということが、サービス業の原点です。そのためには、営業に携わる人だけがお客さまを意識して、謙虚さを身に着ければ良いというのではありません。

会社全体が、サービス業に携わる一員であることを認識しなければならないのです。事務部門でも、技術部門でも、サービス業で働く一員なのです。役目が異なるだけなのです。

そこで、サービス業として、お客さまに喜んで頂くには、全社員一人一人が、気配りができなければなりません。気配りとは、サービス業に従事する全社員の共通の姿勢です。

さて、難題ですが、気配りについて考えてみましょう。

私も、気配りについては、多くのことを学ぼうとしておりますが、それでもいつも誰よりも出来ていないという気持ちを持っています。そして、気配りに限りはなく、複雑であり、個別であり、答えが一つではないことも十分に認識する必要があるとも思っているのです。

ですから単純でありません。そこで、気配りの本質に入る前に、気配りをするためには、目配りが必要である、ということを知ることから考えて見たいと思います。

目配りというのは、色々な所に注意を行き届かせることを言います。つまり、周囲の様子を良く見て、知るということです。

しかし、目配りというのは、見ようという意識、知ろうという意識がなければできないのです。

私は一ヶ月ほど前、眼球にばい菌が入り、急に充血して痛みを感じました。

これまで、会社の近くの病院に行くということなどほとんどありませんでした。会社周辺の眼科を調べ、早速、近くの眼科に行ったのです。

するとその眼科は、休診日となっていて受診できませんでした。そこで、さらにもう一箇所の診療所に行きました。

すると今度は、受付時間が過ぎており、受診できないということでした。偶々、その近くの薬局に行くと、近くにもう一箇所別の眼科の病院があることを教えてもらい、無事にそこで受診することができました。

その周辺は、会社の近くで、私が単身で住んでいるマンションからも近くです。ところが、その周辺に眼科があることなど全く知らなかったのです。

しかも、眼科を探して、病院らしき看板を見ながら歩いてみると、これまで全く気にも留めなかった様々な診療科の病院や診療所が沢山あることを知ったのです。

普段、毎日歩いているようなところでも、関心を持たないと全く気にも留めず、何があるかなど見えていなかったのです。

これは一つの例ですが、人間というのは、意識をしないと見えないことが沢山あるのです。

まず、このことを知ることは重要なことです。関心や興味がなければ、目に映っていても見えないのです。意識しなければ、見えないのだということを十分に知ることが、目配りができる第一歩なのです。

つまり、目配りをするということは、関心や興味がないとできないのです。目配りというのは、色々な所に注意を行き届かせることですが、言い換えれば、色々な所に注意を行き届かせたいという考え、気持ちがなければ、行き届かないのです。これが目配りです。

人と向かい合って話しをすると、相手が退屈な態度をしているか、詰まらない様子なのか、時間を気にしていないかなど、様々な様子が判るはずです。

落ち着かない様子、手に汗をかいている様子、反対意見を言いたくてじれったい様子など、相手の様子に関心を持てばもつほど、相手の心の様子が手に取るように見えてくるはずです。

しかし、相手に目配りをするどころか、自分のことで精一杯になっていると、全く相手の様子に気づけません。目の前にいて、この目で見て見えているのに、心の様子が見えてこないのです。それは、見ようとしないからなのです。

人間は、意識しなければ、目に映っていても見えないのです。何度も何度も足を組み替えたり、肩を左右に揺すったりする動作というのは、心の様子を体で示しているのです。

これが人間の自然な姿なのです。その姿を冷静に注意深く見れば、相手がどのような心理状態にいるかおおよそ感じ取ることができることでしょう。

目配りができなければ、当然、気配りなどできるはずがありません。目で見て、その様子に応じた対応をするのが気配りなのですから、見えないことに対しては行動できないのです。だから、意識して、見ようとする気持ちがなければならないのです。

目配りというのは、相手に関心を持つことです。相手が心を開いてくれているか、信頼してくれているのか、相手をもてなしたいという気持ちがあれば生まれる御もてなしの気持ちなのです。

御もてなしの気持ちこそが、目配りができるということなのです。接客業であれば、困っているお客さまはいないか、空いたままの皿がそのままになっていないかなど、まさにお客さまへの御もてなしの気持ちの表れが目配りなのです。

このことは、お客さまとだけではありません。上司であれ、部下であれ、コミュニケーションを潤滑に行いたいと思えば、相手のこと思いやる目配りが大切なのです。

目配り上手は、コミュニケーション上手と言えるでしょう。

そこで今度は、目配り上手が、もっともっとコミュニケーション上手になれるように、聴き上手になる方法を考えてみます。

コミュニケーションというのは、話をしたり、聞いたりすることです。半分話をして、半分聞くという程度では普通です。

１／３話をして、２／３を聞くというくらいでなければならないのです。しかも、話をするのではなく、相手に話しをさせるための話、例えば質問などが１／３で、残りの２／３は、ただ聞くのではなく、真剣に聴くことなのです。

これもまた出来そうで簡単にできることではないですね。そういう私も、とてもとてもできずに苦しんでいる一人です。それでも、何とかコミュニケーション術を見につけたいと願ってやまないのです。

（次回に続く）]]></description>
         <link>http://www.hottaworld.com/archives/2010/07/post_857.html</link>
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         <category>教育について</category>
         <pubDate>Sun, 18 Jul 2010 05:37:55 +0900</pubDate>
      </item>
      
      <item>
         <title>謙虚さと積極さ</title>
         <description><![CDATA[もし本当に能力があるのとしたら、なぜ自信過剰に振舞うのでしょうか。実力があるのであれば、そこまで過剰に自己アピールしなくてもと思うのですが、常に評価に対し欲求不満なのでしょう。
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それとも、謙虚になれない理由があるのでしょうか。それとも、謙虚の意味が理解できないのでしょうか。

実は、そういう私も、かつては謙虚ということを正しく理解していませんでした。

謙虚というのを辞書で引くと、『控えめで、慎ましやかなさま。自分の能力・地位などにおごることなく、素直な態度で人に接するさま。』とあります。

控えめということは、一歩引いて、出しゃばらずということでしょうか。慎ましやかというのは、黙って、おとなしくしていろということでしょうか。

もしその通りだとしたら、謙虚というのは、自分を抑え、我慢し、目立たないようにするということになってしまいます。

しかし一方で、素直な態度で人に接するさまともあります。素直に接するということは、自分を抑え、我慢し、目立たないようにすることではありませんね。何となく、謙虚というと、消極的なイメージがしますね。

ところで、諸国を修行して歩く僧のことを、禅宗では、雲水と言います。雲水修行では、余計なものを何も持たないということこそが修行にとって大切な条件だそうです。所有するものが少なければ少ないほど、「我」を捨てることができ、謙虚になれるのだそうです。

雲水修行では、行き先々で、食べ物を頂いたり、お寺に宿泊させて頂いたりします。しかし、お寺では、簡単には宿泊させてもらえません。何度の何度も頭を下げてお願いするそうです。

お寺の住職は、「我」を捨て切れずにいる雲水のことを簡単には受け入れません。住職の指導に完全に従い、お世話になりますという心境が見えなければ、何度でも断られるそうです。

ここで雲水が学ぶことは、「我」を捨てて謙虚になることです。謙虚さを理解するために雲水修行があるのです。

私は、そのような修行をしたことがありませんから偉そうなことは言えません。しかし、この話を聞いて少しだけ理解できたことは、謙虚さというのは、我を捨てることだということと、お世話になるという気持ちが大切であることを知りました。

そして、もう一つは、謙虚さとは消極的なことではなく、むしろ積極的に、前向きに何かを吸収しようとする強い意思の表れであるということです。

この話は、今から20年近く前、生まれて初めての営業研修の時に聞いた話です。営業マンにとって、如何に謙虚さが必要であるかを教えてくれた研修でした。

謙虚というのは、自分を抑え、我慢し、目立たないようにすることではないのです。素直に、自分らしさを出して、積極的に、教えや、学びを吸収したいという気持ちを表し、お世話になるという感謝の気持ちを表すことなのです。

つまり、謙虚というのは、単に消極的になるのではなく、積極的に吸収しようとする意思を示すことなのです。

このように聞くと、消極的に、控えめになるというイメージとは少し異なると思います。

さらに、重要なことで、最も難しいことは我を捨てるということです。これが簡単にできないから、謙虚さが伝わらないです。謙虚さがあっても、それが伝わるかどうかはどうやら我を捨てることができるかにかかっているようです。

どんなに謙虚な気持ちを持っていても、我があれば、謙虚さは伝わらないのです。謙虚さが伝わらないということは、どんなに控えめにしても、心の中で慎ましやかな気持ちを持っていたとしても、謙虚には見えないということなのです。

それではどうしたら我を捨てることができるのでしょう。

我が強い人というのは、心の中が、自分のことだけしか受け止められないように小さく、そして硬くなっているのです。そのため、他人の忠告を聞く余裕もないし、他人のことを気づかう余裕もないのです。

それに対し、心の中が、他人のことも受け止められるように大きく、柔らかくなっている人は、我が強くありません。つまり、心の器量が大きく、柔軟なのです。

それは、心が、教えや、学びを吸収したいという気持ちになっているからなのです。

我を捨てるということは、我が強くなっているところを改めるということです。教えや、学びを吸収したいという気持ちになることなのです。

ある年配の社長から「年下の人から好かれるのは、勢いや新しさ、憧れを感じさせるからだ。年上の人から好かれるのは、謙虚さがあるからだ」と言われたことがありました。

なるほど、謙虚さというのは、相手から教えや、学びを吸収したいという気持ちを伝えることなのだと思いました。

自分の能力・地位などにおごることなく、相手から何かを吸収しようという気持ちがあるということは、営業行為においても重要なことです。

「なるほど素晴らしい」「その方向で進めましょう」などと、相手の考えを受け入れ、尊重し、それを自分のことのように考え、もっとより良い形になるように提案する、これこそが、提案営業の形なのです。

営業は、押し付けではいけないのです。受け入れること、そして、それを膨らませること、それが謙虚であり、そしてかつ、積極的で前向きな姿勢なのだと思います。

謙虚さが大きければ大きいほど、その内数であるならば、積極的な態度を示しめすことは大きな意味があります。つまり、積極的というのは、謙虚さという大きさよりも小さくなければならないのです。

それが逆転して、謙虚さよりも、積極的が上回れば、時には強引に思えたり、我を張っているように思えたり、あるいは、自己中心の自信過剰に見えることでしょう。

どんどん自己アピールすることは良いことです。しかし、その積極的な姿勢は、謙虚さという大きさの器の中の範囲で行うべきなのです。もっともっと自己主張したいのなら、もっともっと謙虚になる必要があるのです。

謙虚さは、何かを吸収したいという強い意思の表れです。このような気持ちになることは、とても前向きであり、積極的な思考です。このように考えれば、如何に謙虚になれない人が、何かを吸収しようとしていないか、消極的で、自己保身かが判ることでしょう。

営業マンに限ったことではありませんが、謙虚さがある人のほうが、何をやっても上手く行くように思えます。もし、何か今、上手く行っていないということがあるとすれば、きっとどこかで謙虚になれていないのかも知れません。

（次回に続く）]]></description>
         <link>http://www.hottaworld.com/archives/2010/07/post_856.html</link>
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         <category>技術者と営業</category>
         <pubDate>Fri, 16 Jul 2010 05:37:26 +0900</pubDate>
      </item>
      
      <item>
         <title>自信過剰の落とし穴</title>
         <description><![CDATA[「気づき」というのは、コンサルティング用語なのです。人間が、自分や自分の会社を改善するためには、この気づきが必要とされており、問題点に気づかないと反省も、対処もできないのです。
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問題点に気づくことによって、品質や、生産性や、組織の改善をしようとする原動力となるのです。

人間で言えば、自分の問題点に気づくということは、対人関係を向上させたり、交渉力や折衝力をアップしたりと、少しでも成功体験を増やすための成長の源なのです。

気づきがなければ、成長も進歩はないのです。だから、素直になって、気づこうとする気持ちを持つことは重要なのです。

失敗や嫌なことばかりが重なってしまうと、愚痴を言ったり、機嫌が悪くなったりして、素直な気持ちが薄らぐものです。いつも、他人のせいにしたり、イライラしたりするのは、自分の問題に気づこうという意識が欠如しているのです。

しかし、最も成長したり進歩したりするのは、むしろ、そのような失敗や嫌なことばかりが重なってしまっている時なのです。上手く行って有頂天になっている時は、気づこうという気持ちなど生まれないのですから。

だからこそ、反省というのは重要なのです。失敗や嫌なことがあった時には、「自分は悪くないのに」とか「自分は一生懸命やっているのに」とかと自己防衛、自己保身して、誰かや環境、状況のせいにせず、ただただ反省するのです。

自分のせいだと思えば良いのです。悔しいかも知れませんが、そのように反省の気持ちが生まれるような、考え方に自己暗示するのです。

そうすれば、反省から感謝が生まれ、やがて素直になれるでしょう。そして、その時こそ最大の気づく機会を得られることでしょう。

これは、自己暗示を通じた訓練です。しかし訓練というほど大げさでなく、それほど難しいことでありません。愚痴を言う前に、反省すれば良いだけですから簡単です。

問題は、失敗や嫌なことが起きている時ではなく、上手く行って有頂天になっている時のほうです。どんなに気づけと怒鳴りつけても気づけないのです。これが一番厄介なことです。

このことは、上手く行って有頂天になっている時だけでなく、自分は他の人より優れていると自惚れている時も、同様に気づくことができません。

何れの場合も、気づく必要を感じていないのですから当然なことです。しかも、上手く行っているだとか、自分はやっていると思っているのですから、気づきなど頭の片隅にもないのでしょう。

どうやら、自分には他より優れた力があると勘違いしているのでしょう。勘違いするのも仕方ありません。経験が浅いせいか、社内など自分の周囲の中で、比較して、背伸びして見比べているのですから。

もしこれが勘違いでないとしたら、それは自信過剰です。自信過剰家タイプは、使いづらい、使えない部下の代表格です。しかも、プライドが高く、それでいて口が達者ですから、面倒な存在です。仕事の出来ない部下よりも、はっきり言って面倒です。

仮に、一歩だけ他より優れていたとしても、納得するまで説明するのにも手間がかかり、議論の時間を費やされ、トータルではマイナスの存在なのです。面倒くさい存在なのです。それを気づいていないのは、本人だけなのです。

自信過剰というのは、厄介な存在です。折角の魅力が半減どころか、嫌な存在になってしまうのです。

例えば、人がうらやむほどの美人で、スタイルも才能もある素晴らしい女性がいるとします。

誰もがそれを認めるとしましょう。それなのに、あえて自分から「私は美人で、才能もあります」というような人だったら、周囲の人はどう思うでしょう。

綺麗な人かも知れませんが、性格が綺麗ではないですね。可愛くありません。これは、部下と上司でも同じなのです。可愛くない部下は、例え優れていても使いたくない存在なのです。

上司は、少しばかり煙たい存在の部下でも、上手に使わなければなりません。煙たいから使いたくないというのはいけませんが、自分の実力以上に自信過剰で、自己中心的なものを使うことが組織にとって良いはずがありません。

また、好きだ嫌いだという理由で、部下を選ぶのもいけません。しかし、それは能力がある人間なのに嫌いだからという理由で使わないことはいけないのであって、大した能力もないのに、あるふりをしている自信過剰で可愛くない人を誰が好んで使うでしょうか。

いたずらに自信過剰ぶりを発揮すると、イヤ味のある人間だという印象を与えてしまうことになるのは言わずと知れたことです。

そして、そのような人は自分より優れた人を認めたくないのか、人と接する場合でも、常に自分と比較するとことがあります。相手の人が自分より劣っているところがあったりすると、何となく軽蔑したような態度をとってしまうものです。

自信のある人は、自分から「自信がある」とは言いません。「自信がある」という言葉は、自信がない人が強がっている時に口にする言葉です。

「自信がある」と言わないまでも、自信過剰な態度で、他人を上から見下ろすような姿は、誰もが嫌に思っているのです。自分で「自信がある」と言って歩いているように見えるのです。

本当に自信がある人は、笑顔が素敵です。そして余裕があります。

自信がないよりも、自信があるほうが良いです。しかし、強がるのと自信とは違います。自分の背丈以上に見せようと背伸びをしても、周囲の人は背伸びをしている様子を滑稽に見ることでしょう。

自信があるということは、自分を信じることができるということです。自分に偽りなく、信じることができるということです。自信を見せ付けることが自信ではないのです。

自信過剰というのは、厄介な存在です。折角の魅力が半減どころか、嫌な存在になってしまうのです。

それは、自信がある人が陥る罠なのです。その落とし穴に落ちると、自分は穴に落ちたことに気づかないまま、周囲の人が離れて行ってしまうのです。気づかない、これこそが、自信過剰家の人の問題なのです。

気づかないのですから、反省しようとしません。気づかないのですから、感謝もしません。気づかないということは、怖いことです。本人が認識していないのですから、周囲にとっては厄介なのです。

ただ、本当に能力があるとしたら、それはもったいないことです。残念なことです。何とかして、気づかせてあげたいものです。将来のために、気づいてほしいものです。

それほどまでに、気づきということは、誰もが普段から意識していなければならないことなのです。誰だって、有頂天になっていると、気づきから離れてしまっている存在になりかねないのです。

（次回に続く）]]></description>
         <link>http://www.hottaworld.com/archives/2010/07/post_855.html</link>
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         <category>求める人材</category>
         <pubDate>Wed, 14 Jul 2010 05:36:44 +0900</pubDate>
      </item>
      
      <item>
         <title>気づきが行動を変える</title>
         <description><![CDATA[自分との約束を守るというのは、例えて言えば、禁煙に成功した満足感、あるいは富士山頂登山に成功した達成感、フルマラソンを走りきった後の充実感、そして、自信のようなものが混ざった晴れ晴れとした気分です。
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だから自分との約束を守るというのは、何も高貴の生き方をするというのではなく、自分が自分をコントロールできるというこれまでと違った力を手に入れるようなことなのです。

試してみる価値はあります。しかも、もしその行為を通じて、ベンジャミンが言うように幸福になれるとしたら、なおさらに、自分と小さな約束を守るということは人生を豊かに生きる方法だと言えるでしょう。

是非、自分との約束を持って、何とかして守り抜いてみてください。そして、その数を少しづつ増やしてみませんか。ほんの少しづつで良いのです。

しかし、それをやるかやらないのか、そして、自分はどう考えるのかは、まさに人それぞれです。

「余計なお世話だ」と苦々しく感じる人もいるでしょう。それは、自由です。「偉そうなこと言って」と不機嫌になる人もいるかも知れません。それも自由です。どう考えるかは、自分自身なのですから、他人からとやかく言われる筋合いではないのです。

但し、自分の欠点や自分の悪い癖、当たり前だと思っている習慣などは、他人から指摘を受けなければ気づかないことというのは、以外に多いものです。

行動を変える原点は、気づきだと言われています。気づきがなければ、行動は変わらないのです。そして、一方で、変わろうとする気持ち、変わりたい、直したいという気持ちがなければ、決して気づくことができないのです。

つまり、「余計なお世話だ」とか、「偉そうなこと言って」と言うような人は、恐らく、この中の考え方に納得しないだけでなく、感情的に認められない、あるいは好きじゃないという気持ちがあるのだと思います。

そのことは否定しませんし、批判するつもりもありません。そのような感情があるということは、この文を読んでも、何の利益も生まないばかりか、時間の無駄なことでしょう。

それなら、もっと別のものを読んで、何かそこから得ることをしたいと思われるものに興味をもったほうが懸命なのです。自分が素直にそれを受け入れられ、何らかの感銘や共感を持てるというものでないと、ストレスだけが募ることでしょう。

以前、何人かの部下を個別に呼んで、同じような指導をしたことがあります。上司は自分の話を、部下が素直に聞いているか、それとも反抗的な態度で聞いているかは、恐らく簡単に感じることができるでしょう。

なぜなら、部下は簡単にその気持ちを言動や態度で表すからです。恐らく、部下のほうも、「自分は納得しない」ということを知らせたいのですから、当然にその気持ちは上司に伝わります。

このような経験を繰り返していると、ある内容について論理的に納得できない場合と、どんな内容であっても不満を持っている場合と、その内容に興味を持っていない場合など、部下の特性が見えてくるものです。

そんな中で、どんな内容であっても不満を持っている部下というのは、もはや上下関係は崩壊しています。

このような場合には、お互いに不幸になりますから、配属を変えるなどして、環境を変えたほうが懸命でしょう。

なぜなら、そのような関係では、何も生み出さないからです。勿論、上司というのは、そのような関係にならないように努力をすることは当然ですが、人間関係の中の、感情の縺れというのは、そう簡単ではありません。はっきり言って諦めたほうが良いでしょう。

本来、上司というのは、部下に対して指導する立場にあります。指導をするというのは、気づいていないことを気づかせることです。

「なるほど」「そういう考えもあるのか」など、上司の指導から学ぶものがなければならないのです。

もし、そのような上下関係になれないとしたら、それは、上司だけが悪いのではなく、部下と上司の相性ですから、仕方ないのかも知れません。

「なるほど」「そういう考えもあるのか」などと言った共感や感銘というのは、上司の話し方がどうだというだけの問題ではないのです。

理屈なしに好きか嫌いかというような感情も含め、素直に話を聞けるかどうかということであり、多分に部下側の感情に左右されてしまうのです。

つまり、気づきというのは、素直な気持ちになれる状態でないと、絶対に生まれないということなのです。反抗、反発する気持ちがあるとしたら、まず気づきは起きません。

気づきが起きないとしたら、真から行動を変えることはできないのです。仕方なく上司の命令に屈するかも知れませんが、自らの意思で行動しているのではないのです。

それでは、効果が半減どころか、その部下にとっては苦痛であり、何の改善にもならないのです。

トヨタのカンバン方式というのは、如何に気づきを起こさせられるかというところから出発しています。

小さなことや些細なことでも、問題意識を持たせ、気づきが起こることを奨励しているのです。

何か発見した際には、ボタンを押して、ラインを止めてまで、気づきの大切さを共有しているのです。そして、気づいたら、行動に移し、どうしたら改善するのかを話しあい、改良を繰り返すのです。

これは、人間関係でも同じです。自らが、問題意識を持ち、自分を成長させるためには、何かを変えて行きたいという気持ちがなければ、気づきは生まれません。

まだ若いのに、自分は完璧で、自分には自分のやり方があるという自惚れた考えがある人は、他人の言葉に耳を傾けません。だから、全うなことを言われても、素直に聞けず、批判されたとしか思えないのです。

親子関係を見れば判るでしょう。やがて思春期になり、反抗期になると、親の言うことがどんなに理に叶っていても、正しくても反発している間は、決して直そうとしないでしょう。

それが、信頼できる友たちに僅か一言いわれただけで、注意しなくてはと思ってしまうのです。

まずは、気づきを求めているかどうかです。それは裏返せば、自分の欠点を直し、成長しようとしているかどうかです。求めていないのなら、何を話しても無駄でしょう。

でも、気づきを求めているのなら、どうせなら、目先の感情はさておいて、他人の言葉に耳を傾けることです。それができないから気づけないのです。

気づけないというのは、素直になっていない証拠です。それは、人生において、あまり得な生き方とは言えないでしょうね。

（次回に続く）]]></description>
         <link>http://www.hottaworld.com/archives/2010/07/post_854.html</link>
         <guid>http://www.hottaworld.com/archives/2010/07/post_854.html</guid>
         <category>教育について</category>
         <pubDate>Mon, 12 Jul 2010 05:36:06 +0900</pubDate>
      </item>
      
      <item>
         <title>自分が自分と約束する</title>
         <description><![CDATA[自分が相手に時間を守ってもらえなかったとき、自分のスケジュールだけでなく、その後のお客さまのスケジュールまで影響を与え、時間を気にしない、仕方ないでは済まないことを経験します。
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このような経験は、会社に入って、外の人と接するような仕事をしなければ中々経験できないのかも知れません。社内だけにいて、相手と時間を合わせるというようなことがないと、時間を守らないと相手に迷惑をかけるということを理解できないのでしょう。

これまでは「規則が厳しい」と不満を言っている社員がいましたが、そのような人に限って、遅刻が多いものです。ベトナム人だから全員が守れないのではなく、最初からずっときちんと出来ていた社員もいるのです。

時間を守るというのは、約束を守るということの基本なのです。時間を守れない人が、約束を守ることなどできないでしょう。約束を守れないということは、規則も守れないということです。

約束を守れない人は、自分との約束も守れません。自分との約束が守れない人が、他人との約束など守れるはずがないのです。

自分との約束とは、自分がやると決めたことや、自分がやめると決めたことを、継続することができないということです。つまり、意思が弱いということです。

会社や上司から、遅刻するなと言われて、しぶしぶ仕方なく「次回からは遅刻しません」と答えている間は、恐らく再び遅刻することでしょう。それは、ある意味で仕方ないことです。本人が納得して何が何でも遅刻しないと思っていないのですから。

厄介なことは、誰からか言われたのではなく、自分自身で、「よし、明日からは早く出勤しよう」と自分に約束したのに、それを守れないことです。自分でやると決めたのに、それを継続することができないのですから、他人に言われても治るはずがありません。

人間は、他人に対して、約束を守れない、言ったことと違うではないかと問い詰めますが、そういう自分は、自分が自分とした約束を守れているのでしょうか。自分に問い詰めてみてください。

他人に言うことは簡単です。このように言えば、言ったことは、そのまま自身に跳ね返ってきます。「そう言うお前はできるのか」と、言われるのです。

上司やリーダーというのは、部下に対して、言う側です。その言う側は、「そう言うお前はできるのか」といつも言われているということを認識しなければならないのです。

他人に言う前に、自分ができていなければならない、そのことは、上司やリーダーだけでなく、誰しもに言えることでしょう。

散々約束を破っている人に、「あなたは約束を守らない」と言われても何の説得力もありません。泥棒に泥棒をするなと言われているようなものです。

しかし考えてみれば、他人との約束を守ることよりも、自分との約束を守ることのほうが難しいのです。

他人とは、約束を破れば迷惑をかけるし、大きな問題にもなることでしょう。しかし、自分との約束を破っても、自分に迷惑をかけるわけでもなく、大きな問題にもなりません。

そもそも、あなたは、自分と何か約束をしていますか。

どんな約束をしていますか。今でも、それを守れていますか。それとも、何も約束していないですか。

何ら自分と約束をしていないという人は意外にも多いようです。なぜ約束をしないのでしょう。守れないからですか。約束をするものがないからですか。それとも自分と約束をする意味も必要もないからですか。

多くの人は、自分と約束して、堅苦しく、息苦しいようなことなどしたくないというのが正直なところではないでしょうか。それは、私も同じです。

100ドル紙幣に描かれているアメリカの独立宣言を起草したベンジャミン・フランクリンは、次のように言っています。

「人との約束を守る前に、まず自分との約束を守れ。自分をコントロールできれば、自分を高めることはたやすい。しかも、自在感が気持ちいい。自分をコントロールできるようになるには、自分と小さな約束をいくつも結び、それを守ること。」と言っています。

さらに、「忍耐ができる人は、欲するものを得ることができる」。あるいは「怠けているのを自分自身に見られていることを恥じなさい」とも言っています。

つまり、自分との間で小さな約束を作り、それを守り、忍耐できる人は、何かを得られ、一方、自分との約束も守れず、怠けている人は、そのことを自分が一番知っているのだから恥じなさいということなのでしょう。

自分のことは、自分自身が一番知っています。天から神さまでさえ見えていないことも、自分自身では十分に見えているのです。

自分が頑張っているか、自分を磨こうとしているか、あるいは、怠惰で、堕落した、退屈して人生を過ごしているかは、自分自身が知っているのです。

その自分を、誰からか言われるでもなく、自分のために、自分をどう変え、どう成長しようとするかは、自分次第なのです。そして、それを成し遂げるには、自分をコントロールできる意思と、行動力が伴わなければならないのです。

初めから立派な人間などいません。どんなにどんなに自分を磨き、見直しても、他人からすれば、まだまだ欠点だらけに見えるのも自然です。ただ、他人からどう見られるかということが重要なのではなく、自分の人生をどう楽しむかだと思うのです。

楽しいという意味は、それぞれにおいて価値観は異なることでしょう。フリーダムのように、何の規制も束縛もなく、笑って、気楽に暮らせれば良いと思う人もいることでしょう。

どちらかと言うと、私もその一人です。しかし、それを実現するには、何の規制も束縛もなく、笑っていれば気楽に暮らせるかというと、全くその逆になるのが、この世の常なのです。

ベンジャミンが言った「忍耐ができる人は、欲するものを得ることができる」という言葉が端的に表しているようです。忍耐できない人だから、怠惰で、堕落した、退屈な人生を送ってしまうのではないでしょうか。

一般の人が、宗教家のように自分自身に戒めを課し、哲学者のように自分の信念を貫くというような高貴な生き方など、そう簡単にできるはずもありません。私だって、偉そうなことは言っていますが、完璧な人間であるはずもないことは十分に認識しています。

けれども、自分との約束を持つということは、戒めというよりも、自分の理想を追い求めて歩いているような気がして、ほんの僅かですが、爽やかな気分になるものです。

（次回に続く）]]></description>
         <link>http://www.hottaworld.com/archives/2010/07/post_853.html</link>
         <guid>http://www.hottaworld.com/archives/2010/07/post_853.html</guid>
         <category>求める人材</category>
         <pubDate>Sat, 10 Jul 2010 05:35:34 +0900</pubDate>
      </item>
      
      <item>
         <title>時間を守ること</title>
         <description><![CDATA[ホーチミンは相変わらず暑いですが、東京の夏の蒸し暑さと比べると、むしろ過ごしやすいかも知れません。
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ホーチミンの朝は、早いです。早朝4時半を過ぎた頃から少しづつバイクの音が聞こえてきます。窓から外の様子を眺めていると、屋台で調理をするための材料を運んでいるようです。これから沢山の人が、この屋台で朝食を取るのでしょう。

今日もこのバイクの音から一日がスタートします。これから数時間もすれば、街中がバイクに埋め尽くされます。あと何年、ベトナムでは、このバイクの光景は続くのでしょうか。

地下鉄の工事が始まっているようです。やがてベトナム人ビジネスマンが通勤のために地下鉄に乗る日が訪れるのでしょう。とても想像することができませんが、上海がそうであったように、必ずその日がやってくることは間違いないでしょう。そして、バイクはやがて自動車に変わるのでしょう。

私がいるここ中心部は、5時半を過ぎるころから、日本人らしき人がゾロゾロと出て来ます。工場行きの会社のマイクロバスが次第に列を作って行きます。6時を過ぎる頃には、日本人ばかりが目につくようになります。

わが社のホーチミン事業所は、6時55分から始業開始です。これは、日本時間の8時55分始業に合わせているからです。ベトナムの会社では、最も早くから始まるほうではないでしょうか。遠方からの社員は、4時過ぎには起きているそうです。

もし、日本の会社で、6時55分が始業開始だったら、どれほどの人が通勤できるでしょう。そして、4時過ぎに起きられる人はどれほどいることでしょう。

4年ほど前、ここでは遅刻が絶えませんでした。遅刻をするが当たり前の国だと言われていました。遅刻をすることが悪いという認識すらなかったのかも知れません。

警告をしても、「どうせ許してもらえる」と言うような考えもあったようです。そして、なぜ、それほどまでに遅刻に対して厳しくするのかが理解できなかったのでしょう。

しかし、最近は、ほとんど遅刻をする人を見なくなりました。もしかすると、日本の事務所よりも遅刻をする人は、少なくなってきているかも知れません。

これまで30ヶ国近くもの国々に行っていますが、日本ほど時間に正確な国はないことでしょう。何百キロメートルも離れたところからやってくる新幹線が、1分もの遅れもなく確実に到着するのです。

飛行機の機内清掃時間は、日本の航空会社が世界で最も早いそうです。宅急便は、今や時間指定さえできるようになりました。

一方、僅か数分遅れただけで、山手線や中央線のホームでは、人だかりになってしまうことがあります。それほどまでに、時間に正確でないと、大混乱が起きる国なのです。

それに対し、ヨーロッパでもアジアでも、多くの国では、日本よりも時間がゆったりと流れているような感じがします。ここベトナムでバイクの渋滞を見れば、「急いでも仕方ない」という気持ちになるのは自然なことなのかも知れません。

しかし、それでも遅刻が良くないことを伝え続けました。何度も繰り返し、時間を守ることの大切さを言い続けたのです。

なぜ時間を守ることは大切なことなのでしょうか。

それでは日本では大切なことだと思っているのに、なぜ他の国では大切なことではないのでしょうか。時間を守らなくても平気なのでしょうか。

ところで、わが社だけのことではありませんが、これまで出会った多くの人の中で、忙しい人ほど時間を守るという習性があります。このことは、日本だけでなく、アメリカやイギリスのビジネス界でも、優秀な人ほど時間が正確だという考えがあるようです。

余談ですが、世界の企業家を見ると、朝が早いのも特徴です。むしろ、この点は、古くからある日本の社長出勤という考え方は遅れているようです。

アメリカ大統領や中国の国家主席も、朝早くからジョギングなどの軽い運動をしてから仕事に取り掛かっています。世界のリーダーから見れば、夕べ飲み過ぎて、朝が遅い社長などリーダー失格だということなのです。

それはさておき、忙しいからこそ、やることが沢山あるからこそ、時間を大切にして、無い時間を上手に確保して、効率良く時間を使っているのは間違いありません。そして、もう一つ、責任感が強い人ほど時間を守るとも言えることでしょう。

遅刻するかどうかよりも、始業時間よりも早く出勤する人は、総じて責任感が強い人が多いです。職位に比例するかのように、重い責任を担っているという自覚がある人ほど、時間を大切にしているのかも知れません。

ということは、暇の人ほど、時間にルーズだということも言えるのです。時間を持て余しているのですから、考えてみれば当たり前のことかも知れませんね。時間に余裕があり過ぎて、貴重な時間を大切にするという考えが生まれないのでしょう。

このように考えると、日本が特段に時間に厳しいというのではなく、日本は忙しい人が多いということなのです。あるいは、時間に余裕がない生活を強いられているのかも知れませんね。忙しい社会に生きているのでしょう。

同じ日本でも、沖縄は、非常にゆったりとした時間が流れています。初めて沖縄に行くと、時間にルーズな人が多いことを感じるかも知れません。しかし、沖縄では、時間にルーズというのとは少し違うようです。

沖縄には、沖縄時間（ウチナータイム）というのがあります。電車のない沖縄の、時間を気にしない人々の遊び方と、ダラダラとキリのない夜更かし好きから生まれたようです。

だから時間にルーズだとか、時間を守らないという感覚ではなく、たっぷりと時間があるのだから、時間を気にしないといったほうが沖縄時間を理解するには正しいかも知れません。

このことは、多くの沖縄の人は、皆知っています。時間を守らないのではなく、時間を気にしない人が多いから、多少の時間のずれについて、時間が理由で揉めることは少ないのです。「仕方ない」で済まされてしまうのでしょう。

それでも、沖縄の企業で働いている人は、勿論、遅刻はしません。つまり、時間を守らなければならないことは、百も承知なのです。

沖縄の普段の生活では、時間がゆっくり流れていますから、時間を気にしないことが多いから許されてしまうのでしょう。しかし、それでも、守らなくてはいけない場面では守るということは当然知っています。学校に行くのに、遅刻が許されるはずがないのですから。

南国沖縄と同様に、南国ベトナムでも、ベトナム時間があるのかも知れません。ホーチミン都市部よりも、地方に行けば行くほど、時間を気にしないのが習慣なのかも知れません。

それでも、時間を守ることの大切さについて、ベトナムの事務所でも少しづつ理解されてきているように思えます。

（次回に続く）]]></description>
         <link>http://www.hottaworld.com/archives/2010/07/post_852.html</link>
         <guid>http://www.hottaworld.com/archives/2010/07/post_852.html</guid>
         <category>企業経営について</category>
         <pubDate>Thu, 08 Jul 2010 05:35:01 +0900</pubDate>
      </item>
      
      <item>
         <title>素直になること</title>
         <description><![CDATA[私の家内は、学校の教師をしています。普段から「素直な子は伸びる」と口癖のように言っています。
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そのことを裏付けるかのように、先日、料理学校の先生をしている人と出会いました。

その人は、「プロが教える本格料理」と題して、専業主婦などを対象に、料理教室を開いています。

ある時、普段から思っていることがあって、それを実証するための実験を行ったそうです。

それは、その先生の話しを素直に聞く人と、そうでない人とのチームに別けて、料理対決を行ったそうです。

素直に話を聞かない人は、いつも先生が指導をしようとすると、「いつもはこのようにやっているのに」と反論をしたり、「そんなこと知っているわ」などと、必ず一言が多い人たちです。

一方、素直に聞く人は、「なるほどこのような方法があるのですね」とか、「さすがプロだわ」などと、いつも先生の説明に頷いている人たちです。

さて、勝負の結果は。勿論、素直に聞く人たちのチームが勝ったことは言うまでもありません。

なぜなら、「プロが作る方法を素直に聞いて、そのまま作ったのですから、プロの味がでるのです」と先生は言っていました。

なるほど、言われてみればそうですね。自分流のやり方をしたり、先生の注意点を聞かなければ、プロの作る味になるはずがありません。

先生は言ったそうです。「皆さんは、学びに来ているのですか。それとも、自分の料理をしたいだけですか」と。

料理は、プロの味でなくても、主婦にもできることです。しかし、普段と同じやり方なら、何も学ぶことなどありません。何かを得ようとして来ているのに、自らそれを拒否して、料理が上手になるはずがないのです。

素直になるということは、重要なことなのですね。素直になれないがために、習得できないばかりか、大きな損をすることもあります。そして、時には、我を通したために、自分の気持ちに反した結果を招くことだってあるかも知れません。

素直になるということは、他人の言いなりになるということではありません。

他人のアドバイスや考えに素直に耳を傾け、良い意見をできるだけ取り入れよう、吸収しようということです。

しかし、素直になるということは、実はそう簡単なことではないのです。素直になれる人のほうが僅かだとも言えるでしょう。

子どもの頃、先生に質問したら「そんなことも判らないのか」と言われたり、親に素直に謝ると、「謝るくらいなら、最初からするな」と叱られたりする経験があると、素直に行動したことで嫌な思いや、辛い思いをしたことがある人はいるでしょう。

素直になろうとしても、このような事象が積み重なると、先生に判らないのに質問できなくなったり、親に「素直に謝れ」と言われても悔しくて謝れなかったりするようになるものです。

やがて自分の気持ちを偽ったり、裏腹の行動を取るようになることでしょう。

このようにして考えると、素直になれない人は、二つのタイプに分類できそうです。

一つは、料理教室で素直でない人のように、自分の形、自分のやり方を崩されたくない人たちです。単純に言うと、他人の考えややり方を受け入れたくない人です。

もう一つは、子供の頃の出来事から、弱い自分を隠そうと、カモフラージュする人たちです。このような人たちは、自分に自信がない人が多いように見受けられます。

この二つの特徴は、一方は強く、一方は弱いほうですから、逆ですが、結果として素直でないことに変わりはありません。

つまり、強い人も弱い人も、素直になれない人がいるということは、前述したように、人間というのは簡単に素直になれるものではいのです。むしろ、素直な人のほうが遥かに少ないのです。

だからこそ、素直な人は伸びるのです。これは、勉強だけでなく、仕事でも、スポーツでも言えることです。

かつて、水泳で活躍した木原光知子さんは、「私が大切にしてきたのは、素直さ、真剣さ、敏感さの３つです。」と言っています。

そして、オリンピックで金メダルを取った北島選手は、まさにこの３つを備えた、天才的な努力家だったそうです。

何を努力したのかと言うと、練習のことは勿論ですが、素直になること、真剣にすること、敏感に感じることに対して努力したのです。

努力ができるということは、勝てるという自分を信じ、そして、それを支えてくれる人のことを信じることができるからこそ、苦しい練習にも耐えられるのでしょう。

素直になるということは、簡単なことではないのですね。

だからこそ、それを身に着けることは、素直でない人よりも成長するのでしょう。

中々素直になれず、ついつい感情的になって、気持ちと裏腹な行動を取ってしまいがちですが、せめて、「ありがとう」と「すみません」ということだけは忘れないようにしたいものです。

「ありがとう」と「すみません」という二つの言葉を発することさえできれば、将来の展望が開けてきます。

明るい未来が自然にやってくるような気持ちになれるでしょう。これが晴れ晴れしいという感情ではないでしょうか。

嫌な上司の話を素直に聞き入れることは簡単にはできるものではないかも知れませんが、「ありがとう」と「すみません」という二つの言葉だけは、どんなに嫌いな人にでも使えるようにしたいものですね。

それが、素直になる一歩のような気がします。

恋愛でも、素直になれず、意地を張ったために気まずくなることがあるはずです。しかし、そのような時は、「ありがとう」と「すみません」を意図的に使ってみたらどうでしょう。

きっと張っていた意地が、すぅーっと緩むような気がするはずです。肩の力が抜けて、これまでよりも、素直に話ができるようになることでしょう。

素直になるということは、自分に正直になるということなのです。

自分に正直になれなければ、他人にも正直になれるはずがないのです。正直になるということは、在りのままの自分を表に出すということです。

在りのままの自分を表に出すということは、素晴らしいことですね。凄いことです。自信の表れです。堂々と正しい道を進んでいる清々しい気分を、胸を張って表現しているかのようです。

そのような正直な生き方ができたら幸せなことでしょう。そうです、幸せになろうと思えば、素直になって、正直なれば良いだけなのです。

これから、成田空港に向かいます。ベトナム・ホーチミンで、多くの素直を見られることを期待しています。そして、その素直を吸収してきたいと思います。

（次回に続く）]]></description>
         <link>http://www.hottaworld.com/archives/2010/07/post_851.html</link>
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         <category>嬉しい出来事</category>
         <pubDate>Tue, 06 Jul 2010 05:34:29 +0900</pubDate>
      </item>
      
      <item>
         <title>機会損失は最大の損</title>
         <description><![CDATA[できるだけ機会損失をしないようにするということは、営業戦略上、とても重要なことだと思います。
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機会損失と言うのは、目の前に利益が得られるとわかっていながら、行動を起こさない、あるいは行動を起こすのが遅すぎたために、利益が得られなかった損失です。

簡単に言えば、損です。利益が得られなかった損なのです。

例えば、お客さまに訪問した時、お客さまのニーズと、こちらがもっている商品が異なっていたとします。

お客さまのニーズが聞き出せたことは大きな成果です。残念なことはそのニーズと異なっていたということです。しかし、ニーズを持っているお客さまと出会えたのですから、そこから何を学ぶかということが重要なのです。

ある人は、自社の製品の弱点を知り、それを改善しようとするかも知れません。またある人は、お客さまのニーズを上層部に伝え、新しい商品開発を提案するかも知れません。

またある人は、自社のリソースだけでなく、他社と協力することで、何とかお客さまのニーズに応えようとするかも知れません。

何れにしてもお客さまのニーズを知ったということは、セールスという営業の仕事だけでなく、もう一つ重要なマーケッターという営業の仕事を果たすことになるのです。

問題は、そのニーズをどう生かすかです。応えることができれば、得られるかも知れない利益が目の前にあるのです。

それを簡単に捨てているようでは、いつまで経っても有能な営業マンにはならないでしょう。自社製品や自社サービスがどうだという問題ではないのです。

その時、今度はその情報を得た上層部は、何をするかが問題です。現場の営業が、有益なお客さまのニーズを持ってきて、自社との違いを認識したのです。

さて、どうやったらお客のニーズの応えることができるかを考えることでしょう。

もし、同じような情報が、何度か現場から続いたとしたら、自社の商品は、ターゲットが間違っているか、お客のニーズとずれているか、などニーズとミスマッチを起こしている可能性があるのです。

それを知っているのに、何ら対策をしないのは、機会損失そのものです。

しかし、機会損失というのは、実際には財布からお金が出て行った分けではないので、損をしたという実感がないことが最大の問題です。

もし、損をしたという実感があれば、次回以降注意することでしょうし、改善しようとすることでしょう。しかし、損をしたという実感がなければ、いつまで経っても反省もしませんので、改善されません。

そういう意味で、機会損出というのは、ビジネスにおける最大の損だと思います。なぜなら、損をしたということから学ばなければならないのに、損をしたと思っていないのですから、学ぶ機会をも損失しているのです。

しかも、損をしたことに気づかないのですから、もったいないことです。

機会を得られるということは、営業にとって、まさに絶好のチャンスです。そのチャンスをチャンスと思えなかったら、次第に機会は減ることでしょう。

機会というのは、不思議に、平等には与えられていないものです。機会が多い人と、少ない人は、能力だけでなく、考え方も含め、いくつかの要因によって、多さが異なるのだと思います。

機会が多い人には、再び機会が訪れます。いわゆる運が良いという人です。それは、あたかも機会を求めて動き回っているかのようです。

ところが運が悪い人というのは、全く同じように動き回っても、中々機会が回って来ません。それはなぜでしょうか。

営業に関して言うと、欲するばかりで、与えることのほうが少ないのだと思います。

50：50ではなく、自分のほうが70だと思っている人のところに情報が集まるでしょうか。

同じ情報を提供するとしたら、50の人に提供したほうが良いと思われるはずです。

つまり、情報を提供したら、何かが返ってくる、この人と付き合うと得するというものがある人には、有意義な情報が集まるのです。それに対し、自分だけ得しようと思っている人で、情報を出し渋る人、有意義な情報を持っていない人には、人が集まらないのです。

良い機会が少ない人は、相手にも良い機会を与えていない証拠なのです。

考えてみてください。多くの人が近寄ってきて、様々な情報が集まる人というのはどのような人でしょう。きっと、その人と一緒にビジネスをすると、得するかもと思わせるものがあるからなのです。

このことは、営業に限らず、様々な業種や場面でも当てはまることでしょう。

例えば、伸びる技術者と伸びない技術者というのは、得られた機会を自分のものにしているかどうかに、大きな差があるのです。

入社したばかりの二人に単純な仕事をさせたとしましょう。

見方によっては、とても単純でつまらない仕事だと思えるかも知れません。何でこんな雑用をさせるのかと、能力がある人は思うかも知れません。

しかし、仕事に雑用などないのです。仕事というのは、どんな内容であっても、仕事なのです。ようは、それを雑用だと思って、雑に仕事をするかどうかなのです。

伸びる技術者というには、単純だとか、つまらないとか言う前に、確実に着実に、そして素早く仕上げます。

それに対し、伸びない技術者は、自分は能力があるのだと勘違いし、やりたくない仕事だと思っているから、時間もかかり、多くのミスもします。これはまさに心の表れです。

当然、能力に関係なく、素早く、正確に仕事を終えたほうは、それより上位の仕事を与えられることでしょう。

しかし、こんなにも単純な仕事ができない人に、どんなに学校の成績が良いからと言って、それ以上に難易度の仕事を与えようとするでしょうか。

仕事ができる人は、仕事を確実に自分のものにして、成長して行くのです。それに対し、仕事のできない人は、自ら機会を損失しているのです。

進んで仕事をする人と、上司が部下に頭を下げて、「頼むからやってくれ」という部下の、どちらが信頼できると思いますか。

これは能力という次元ではなく、部下として、上司を支えてくれる人なのか、信頼できる人なのか、そして可愛げのある素直な部下なのかということを感じているのです。

素直であるということは、どんな職業、どんな場面でも重要なことなのです。この差が、人間力の差とも言えるかも知れません。素直でない人は、他人から好かれないものなのです。

（次回に続く）]]></description>
         <link>http://www.hottaworld.com/archives/2010/07/post_850.html</link>
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         <category>ビジネスについて</category>
         <pubDate>Sun, 04 Jul 2010 05:33:52 +0900</pubDate>
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         <title>Win－Winと50：50の関係</title>
         <description><![CDATA[お互い様という気持ちは、ビジネスの世界で考えると、Ｗｉｎ－Ｗｉｎとも言えるのではないでしょうか。Ｗｉｎ－Ｗｉｎというのは、自分だけが勝つのではなく、相手も勝つという意味です。
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共に手を取り合って、一緒に勝とうということです。相手を踏み倒して自分だけ勝つのではなく、勝つための協力をし、成果を分かち合うということなのです。

Ｗｉｎ－Ｗｉｎには、上も下も無いのです。お互い様なのです。共にハッピーになるのです。

私の会社の場合には、多くの場合、お客さまが両方向にいるのが特徴です。このことは、わが社にとって、とても重要な考え方です。これを外れては上手く生きません。

一方は、お金を支払ってくれるお客さまです。そしてもう一方は、仕入れ側のお客さまです。

あえて仕入れ側をお客さまという言い方をしているのは、お金を支払ってくれる代わりに、技術やノウハウ、商品などを提供してくれるからです。大切なお客さまなのです。

もし、仕入れ側を粗末にすれば、どんなにお金を支払ってくれるお客さまがいたとしても、技術やノウハウ、商品を提供できなければ、お金が入らないからなのです。だから大切なのです。

かつてメーカーでは、下請けの会社を外注と呼んでいました。外注先として仕事をしている者にとって、「外注さん」と言われると、「害虫さん」と虫けら扱いされているような気分になるものでした。

やがて、「パートナー」という言い方をするようになりましたが、変わったのは言葉だけで、「害虫さん」という発注側の上から見下ろすような態度は、変わっていないように思えます。

そこで、わが社では、お客さまというように位置づけるようにしているのです。無くてはならない大切なお客さまだという意識がなければ、わが社にない技術やサービスや商品を仕入れて販売することができないのです。

Ｗｉｎ－Ｗｉｎという考えを持って、お互い様の気持ちを持って、手を取り合って一緒にビジネスをするというやり方でなければ、成り立たないのです。

どうしても発注側は、お金を払っているのだからという背景から、上から見る傾向があります。客だから当然だろうと思うのでしょう。

メーカーは、部品を仕入れて組み立てているのに、部品を供給してくれなくなったらどうするのでしょう。いくらでも他社から部品を仕入れられるから構わないと思っているのでしょうか。

Ｗｉｎ－Ｗｉｎには、50：50という考え方も含まれると思います。

例えば、採用活動もこれに当てはまります。

採用活動におけるＷｉｎ－Ｗｉｎとは、会社にとっては良い人物が採用でき、求職者にとっては、良い会社に入社できるということです。まさにお互い様ですね。

つまり、採用できた、採用されたということで初めて、お互いハッピーとなるのです。これがＷｉｎ－Ｗｉｎです。どちから一方ではなく、共に良かったということなのです。

ところが、会社側の面接の様子を見てみると、とても横柄な人事担当者を見かけます。

選んであげるという気持ちがあるのでしょう。多くの求職者の中から、採用してあげるといううがった気持ちがあるのでしょう。

しかし、考えてみれば、会社も選んでもらっているのです。求職者は、沢山の求人企業から選んでいるのです。当然、横柄な人事担当者がいる会社を選ぶはずがありません。

入社するまでは、自分の社員でもなければ、自分の会社でもないのです。つまり、どちらが上だ、下だというのではなく50：50の関係なのです。

そのために人事担当者が行うことは、会社が選ぶ前に、選ばれる会社になるように、会社の良さをアピールすることです。

この行為は営業と全く同じです。営業が会社を売り込むのと同じなのです。つまり、営業的な感覚がない、事務的な人事担当では駄目なのです。

一方的に求職者に質問をするのではなく、求職者に興味を持ってもらい、何としても入社したいと思わせることが重要なのです。

先日、若い営業マンと出会いました。その営業マンは、なぜ、自分が現在の会社に入社したのかを話してくれました。

いくつもの企業から内定を得た優秀な人なのに、その中で最も小さな会社を選んだそうです。

その彼は「私は、将来独立したいので、３年以内で辞めるかも知れません」とどの会社にも言ったそうです。

すると、最も小さな会社の社長が、「いつ独立しても良いから、いつでも独立できるように頑張ってほしい。そのような意気込みがある人にぜひ、来てほしいと思っている」言ったそうです。

その社長の熱意と熱く語る社長に惚れて入社したということでした。

結果として、この彼と、彼を採用した会社は、共にＷｉｎ－Ｗｉｎになったのです。

50：50という考え方は、営業行為の上でも重要です。

利益を折半するという考え方です。

例えば、人材紹介事業で考えてみましょう。

人材紹介会社同士は、時々連携して受注することがあります。人材を有している会社と、案件を有している会社が連携するのです。

どんなに人材がいても、案件を持っている企業が見つからなければ一銭にもなりません。一方、どんなに人材を探してほしいという企業からの案件を持っていても、それに見合った人材が見つからなければ一銭にもならないです。

そこでお互いに協力して、案件側に人材を提供して受注するのです。

この時、冷静に考えてみれば、案件側であろうが、人材側であろうが、その手間は同じなはずです。仮に、多少の考え方の相違はあったとしても、どちらかが欠ければ、決まらないのですから、対等な関係と言えるでしょう。

ところが、多くの会社では、50：50ではなく、70：30というようなことを言ってきます。

もちろん、自分のところが70に決まっています。

そして、そのような対等という考えが持てない会社では、「それなら組めない」と強気になるのです。そうすれば、こちらが降りると思うのでしょう。

こちらが提供しなければ決まらず、一銭にもならないという気持ちがないのかも知れません。

これは、完全に機会損失です。

営業にとって、100万円を追いかけて一銭にもならないより、その半分の50万円を得ようという気持ちがなければ数字があがるはずもありません。

１件も受注できないで機会損失するよりも、利益は半分でも協業すれば、もう１件で同じ100万円になることでしょう。

安売りはしない、という会社の理念がある場合も承知しています。それは、サービスや技術に自信があるから値引きをしないというのであって、利益が減るから協業しないというのは理解できません。

これからの時代は、単独ではなく、Ｗｉｎ－Ｗｉｎのアライアンスが重要なのです。

（次回に続く）]]></description>
         <link>http://www.hottaworld.com/archives/2010/07/post_849.html</link>
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         <category>技術者と営業</category>
         <pubDate>Fri, 02 Jul 2010 05:33:00 +0900</pubDate>
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