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      <title>HottaWorld：：「活・喝・勝」</title>
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      <description>「活・喝・勝」は、堀田信弘の”君ならなれる！確率より可能性で選ぶリーダーに！”を伝えるリーダー養成塾コラムです。</description>
      <language>ja</language>
      <copyright>Copyright 2010</copyright>
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      <item>
         <title>やめたらあかん、やめたらそれで負けや</title>
         <description><![CDATA[成功した人とは、過去の人のことである。現在、成功しているように見えても、それはまだ途中にしか過ぎない。その途中で辞めれば、成功を収めた人で終わるかも知れないし、あるいは、これまで積み上げてきた実績が一気に崩れ去り、失敗で終わるかも知れない。
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だから、成功した人とは、過去の人のことを言うのだ。

オリンピックで金メダルを取った人は、試合が終わった時点で、成功した人になる。その時点で、試合は過去のもの。もし、金メダルを取る実力がある人であっても、当日の本番で、一位になれなければ、成功した人とは言えない。

しかし、一方で、その人は失敗した人かと言えば、そうとは言えない。

成功とは何か。

一位になることだけではない。

国内選抜で選ばれて、オリンピックに出場できただけでも、順位に関係なく、出場したという過去に対しては、それはオリンピックに出場できることに成功した人である。

あるいは、二位に終わった人でも同様である。八位以内の入賞が目標の人にとって、ふってわいたような二位なら、それはその人にとって成功したと言えよう。

さて、それでは、金メダルを取る実力がある人であっても、当日の本番で、一位になれなければ、成功した人とは言えないと言ったが、それではそれは失敗であろうか。

もし、そこで辞めれば、失敗だ。常に金メダルを取る実力を持ち合わせながら、その能力を当日発揮できなかったということは、大きなミスである。しかし、私は、この時点では失敗とは思わない。

誰でもミスはする。そのミスを克服するために、再度挑戦するならば、その人はミスはしたが、成功するまでの途中過程にしか過ぎないのである。

だから、再度挑戦するという道を捨て、そこで辞めてしまえば、それはミスではなく、その時点で失敗したということになる。もし、次の大会で、実力が発揮でき、金メダルを取れれば、ミスを克服した成功した人と言えよう。

私は、成功した人とは、過去の人のことだと思っている。

もし、仮に現在、成功しているように見えても、それはまだ途中にしか過ぎないのだ。辞める時が、良い時に辞めるのか、悪い時に辞めるのかで、結果は異なるのである。

もし、途中が良くても、悪い時に辞めれば、結果成功した人とは言えなくなる。これまで積み上げてきた実績が一気に崩れ去り、失敗で終わるのだ。

もちろん、私は、自分が成功した何てことを一度も考えたことはない。現に、何ら上手く行っているという訳でではなく、全てが道半ばであり、全てが不満足である。そして全てが消化不良だ。

だから、この時点で私が辞めれば、失敗した人だというレッテルを張られても、何ら不思議ではないし、私も甘んじてそれを受ける。そう、成功していないのだから、その通りなのだから、反論することなどできやしないのだ。

だが、今の私は、成功していないが、現時点で失敗もしていない。

失敗とは、その過程で辞めてしまうことだ。

成功するとは、成功するまで続けるのみである。そして、成功するとは、何かを成し遂げることであり、途中ではない。終わりになってから気がつくものである。

言いかえれば、負けたら終わりではなく、途中で辞めたら終わりなのだ。勝つまでやり続けることができれば、その時点で勝ちなのである。

負けとは、自分の限界を知り、そこで挑戦を辞め、負けを認めること。もし、まだまだ自分ならやれると思えるのなら、負けを認めず、何度でも挑戦し続ければそれで良い。相手に負けるのではなく、自分が自分の限界を、負けとして認められるまでは負けではない。

私は、今、辞めれば、負け犬が逃げるだけである。一度も勝ってもいない人間が、あるいは、まだ負けが確定していないのに、こちらから負けを認めたら敗北者に過ぎないのである。

私はまだ敗北者にはなりたくない。それは、負けたくないのではなく、あるいは勝ちたいのでもない。私の自分の能力の限界をまだ認められない、受け入れられないのだ。それは、まだ私には、全てが中途半端であるという認識が強いからである。そして同時に、まだまだ自分には気力があるからである。

結局、自分の限界を認め、負けを認めるということは、気力がなくなった時なのである。

気力があるうちは、誰も、勝ちでも負けでもない、途中経過だ。誰も成功した人でも失敗した人ではないのだ。

そして、それはすなわち、現時点で、勝った、成功したと思っているようでは、負け、失敗へのカウントダウンが始めっているとも言えよう。

成功とは、今を言うのではなく、過去を言うのだ。それを、成功したと今思っているとしたら、それは成功ではなく好調なだけであって、後は下るだけの途中経過にいることを知らねばならない。

もし、本気で成功したと思っているのなら、最も好調な今、辞めれば良い。そうすれば、成功者となるであろう。

私は、そういう辞め方をしたい。

それまでは、勝つまでやり続けること。勝つまでやり続ければ、決して負けない。やめたらあかん、やめたらそれで負けや。

だが、それでも私は、近い将来、自身への負けを認めなければならない時が来るであろう。逃げた負け犬と言われようとも、仕方ない時も何れやってくることは覚悟しなければならないであろう。]]></description>
         <link>http://www.hottaworld.com/archives/2010/03/post_792.html</link>
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         <category>経営者について</category>
         <pubDate>Wed, 10 Mar 2010 05:23:01 +0900</pubDate>
      </item>
      
      <item>
         <title>仕事を指示する側と指示される側</title>
         <description><![CDATA[宇宙飛行士の選抜試験には、指示を出す能力と、指示を受けて作業をする能力をテストするというものがあるらしい。指示を出す側は、ボードに書かれた絵柄を、別の部屋にいる指示を受ける側に、無線を用いて、できるだけ正確に再現できるように言葉で指示する。
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このテストは、指示する側の指示能力と、指示された側の指示遂行能力を図るためである。

わが社は、日本とベトナムとの間で、業務の遂行を"共同"で行っている。

先週まで私はベトナムに滞在したが、どれほどまでに日本側がこの"共同"という認識を持っていないか、痛感する。

宇宙飛行士の試験も、仕事の"共同"認識を図るものなのである。"共同"は、コラボレーションと訳され、どちらかがこの意識が乏しいと、前述の"共同"作業は上手く行かない。

つまり、どんなに指示する能力が高くても、指示される側の遂行能力を図りながらでないと上手く行かないのである。あるいは、どんなに遂行能力が高くても、指示する側の能力が低ければ、当然、それも上手く行かない。

両方の能力が高いことはもとより、相手側の状況、能力を推測し、時には補うつもりでいなければ、この"共同"作業はできないのである。その要因が、作業が"共同"で行われているという認識を、どれだけ共有できるかということなのである。

わが社の場合、日本側が指示を出す側である。つまり、どれだけ確実に、かつ判り易く、そして、相手の環境がどんな状況で、どのような体制、どのようなスキルの状態かを図りながら、指示しなければならない。

一方、ベトナム側は、指示を受ける側である。指示を受ける側は、仮に指示が不明瞭な場合には、できるだけ明瞭になるように、勝手に判断せず、指示側の指示にできるだけ正確に着実に例外なく無条件で従わなければならない。

宇宙飛行士と、わが社のような仕事の違いは、指示を出す側が上、指示を受ける側が下という主従関係に陥り易いことだ。しかも、これに対し、対価が発生するとすれば、それは発注側と受注側という関係になり、もはやその時点で"共同"などという意識など微塵もなくなる。

しかも、一方は母国語である日本語を使い、片方は外国語である日本語を理解して作業をしなければならない。つまり、最初から対等な関係になれない状況であるにも関わらず、そのことを理解されずに進めば、当然上手く行くはずがない。

指示を出す側は、ボードに書いてある絵柄を、どのようにしたら相手に正しく伝わるのかを考えなくてはならない。しかも、どのようにしたら誤解されず、そしてどの順番で指示したほうが書きやすいかを考えるのである。

指示を受ける側は、複雑であろう絵柄を想像しながら、受け取り側が誤解していないかを随時確認する必要がある。指示通りに行ったとしても、必ず勘違いがある可能性があるからである。そうして、片方しか見えない絵を、言葉や文を用いて、どこまで見えているかを伝えながら進めるのである。

障害者と健常者に例えることもできよう。

指示を出す側は、目は見えるが、指示を受ける側は目が見えない。これはどんな仕事でも当てはまる。上司と部下との関係でも同じである。上司には完成後のイメージが目で見えるが、初めて仕事をする部下は、当然イメージできない。

仕事を出す側と受ける側というのは、このような関係なのである。

このことを理解している、仕事を出す側の人間はどれほどいようか。

受ける側は、いつも評価を受ける側で、いつも立場の強い指示を出す側に何とか喰らえつこうと必死である。そう、指示を受ける側は、いつも弱い立場なのだ。

さて一方、今度は、仕事を受ける側にも問題がある。

私は、上司として多くの部下に様々な仕事を指示する。つまり、指示する側の人間である。指示された仕事を、快く引き受けてくれる部下は、皆無に近い。

それは少し厳し目の表現であるが、内心を図れば、誰だって新しい仕事が舞い込むことに抵抗があるからだ。自分で生んだ仕事ならまだしも、人から指示される仕事というのは決して嬉しいものではない。

受け取った仕事に値段がついていて、それを行えばその分が自分の取り分になるのであれば話は違うであろう。しかし、多くの場合、上司からの指示があった瞬間、その時点で仕事が増えることになる。それを快く受け取る人はいないのである。

もし、それが私の部下だけだとしたら悲しいことであるが、人間の本心を考えれば、当然なことだと思う。そして、そのことは、１００％顔に表れる。かつ、言葉に表れる。

できるだけ受けたくない心を抑えながら、どれほど重要で、どれほど自分の責任範囲なのか、頭の中で計算している様子が手に取るように判る。

特に、私が指示する部下は、全員が部下を持つ幹部である。そのような幹部は、基本的に仕事を指示する側であるのだ。その指示する側に、私からの仕事を受けなければならない時、とっさに、どのようにしたら部下に仕事を指示できるのかを考えるのであろう。

もし、私からの指示を受け取って、さらに部下に指示できなければ、仕事が溜まる一方になるからだ。だから余計に、私からの指示は快く受け取れる状態にはないのである。

中でも、仕事を部下に指示することが下手、あるいはできない人、あるいは部下に仕事を任せられない人ほど、仕事を受け取ることができない。そして、仕事を指示される度に不満が募り、仕事も溜まる。簡単に言えば、仕事を指示できない人は、仕事を受け取れない人と言えるのである。

前半では、仕事を指示する側の問題点を述べたが、最も知ってほしいことは、仕事を受け取ることができない人が、仕事を指示する側になるということは、組織にとって致命的だということである。

自分で仕事を受け取れず、仕事が溜まってしまうような人が、仕事を的確に指示する側になどなれるはずがないのである。

仕事を指示する側と指示される側、詰まる所、指示される側のことを十分に配慮できなければ、上手に指示することができないということだ。]]></description>
         <link>http://www.hottaworld.com/archives/2010/03/post_791.html</link>
         <guid>http://www.hottaworld.com/archives/2010/03/post_791.html</guid>
         <category>求める人材</category>
         <pubDate>Mon, 08 Mar 2010 05:22:00 +0900</pubDate>
      </item>
      
      <item>
         <title>鹿を逐う者は山を見ず</title>
         <description><![CDATA[数週間前、京都大の依田高典経済学研究科教授と西村周三副学長らの研究グループが、禁煙に成功した人としない人との違いについて研究した内容を発表した記事を見つけた。
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それによると、日本人成人約７００人を選び、禁煙実験を行った。５ヶ月後に禁煙に成功した人は、約半数の５２．８％である。

彼らを行動経済学の手法で分析し、禁煙にした成功した人と失敗した人それぞれに、将来の利益のための忍耐度を調べた。

それによると、　「いますぐもらえるお金と、１年後に９０％の確率でもらえるお金」を比べたところ、禁煙に成功した人は、いますぐもらえるお金の平均１．８３倍のお金があれば、１年間待てると回答した。

それに対し、禁煙に失敗した人たちは、平均で２．５３倍以上ないと１年後まで待つことはできないという結果になったそうだ。

このことから、二つのことが判った。一つは、禁煙成功者は、禁煙に成功することができるだけあって、忍耐強い傾向を持っているということである。

二つ目は、忍耐強い傾向が強い人ほど、目先の利益より将来の利益を重視し、その逆に、将来の利益よりも、目先の利益を重視する人ほど、忍耐強くないという傾向が見られたそうだ。

この話を先日、タイ人と話をしたら、面白い話を聞くことができた。

「私が知っているほとんどのアジア人は、目先の利益を優先する」そうだ。

タイ人は、昨日の友を今日の敵にし、今日の敵を明日の友にするくらい、その場、その時点で最も自分にとって有益と思われるほうを選択する傾向があるという。

さらに、目先の利益を優先すると言えば、中国人、韓国人、ベトナム人がその代名詞だそうだ。

中国人は、取れるところから取れるだけ、しかもできるだけ短期間でという考え方がある。韓国人は、そもそも我慢する事に価値を認めておらず、我慢をしてまで将来に期待する意味がないと考えるらしい。

そしてベトナム人は、世界で最も楽観的な人種と言われ、将来のことは将来考えれば良いとの思想であり、見の前のことをおいてまで将来のことを考える必要はないと目先の利益を優先する。

彼らは、将来何が起こるか判らないものに期待するよりも、今すぐに最も近く、最も容易に手に入る方法を選択するのだ。

そのタイ人は、「日本人ほど、目先の利益よりも、将来の利益を見据える人種はない」とのこと。

そして、彼は、「我慢強く、忍耐強いのも日本人だ」と続けた。

私はかつて『<a href="http://www.hottaworld.com/archives/2009/08/post_681.html" target="_blank">辛抱と我慢</a>』の中で、『辛抱と我慢。未来のためなら辛抱できるが、不満のためには我慢できない。これが私の回答である。』と書いた。その中で、私は、『辛抱強さは、誰にも負けないつもりだ』と書いている。

私は、今のために我慢することはできないが、未来のために辛抱することは誰よりもできると自負している。

さて、鹿を逐う者は山を見ずということわざがある。

鹿を撃つことに夢中になっている人は、鹿の姿しか頭にないため、山にいながら山全体が目に入らずに道に迷ったりすることがある、という意味だ。

目先の利益ばかり追いかけていると、ほかのことまで気を回す余裕がなく、大きな利益をつかみ損ねたり、小さな利益のために大きな失敗をするということである。

私は、経費削減や人員削減などのコストカットを否定しないが、それを行うのは、マイナスを消すことで、目先の利益を生む手段にしか思えない。マイナスを削減することは重要なことだが、プラスを生むことがどんなに難しいか、将来の利益を考えた経営も重要である。

将来の利益を生むには、投資以外にない。経営とは、投資の連続であると言っても過言ではないであろう。投資ができなくなれば、そこで止まる。止まれば、後は、身を削るだけだ。

マイナスを見直し、プラスを伸ばす、この何れか一方だけを進めても、それは決して経営とは言えない。目先の数値を良くするだけの短絡的で、かつ理想のないやり方である。

このような考え方は、経営者だけでなく、営業マンにも言える。

私は、これまで多くの営業マンを見てきたが、成績の良い営業マンは、粘り強い。そして、簡単には諦めない。逆に言えば、諦め易く、粘ることができない人は、総じて、営業力が弱い。誤解してほしくないのは、しつこいのと、粘り強いのではない。

私が言う粘り強いというのは、しぶとい、打たれ強い、へこたれない、くじけない、あきらめない、根気良く、そして、何と言っても忍耐強いということである。

冒頭で、忍耐強い傾向が強い人ほど、目先の利益より将来の利益を重視し、その逆に、将来の利益よりも、目先の利益を重視する人ほど、忍耐強くないという傾向が見られるという話をした。

本来、営業マンというのは、目先の利益を追うような職業に見えようが、実際には、人間としての信頼関係を構築するという将来の利益のために行動しなければ、数字がついてこないのである。

つまり、粘り強い人ほど営業成績が良いということは、目先の利益よりも、将来の利益のために行動しているのである。

そして、その逆に、営業成績が悪い人は、目先の利益を優先し、将来の利益のためには行動しない。すなわち、粘り強くなく、諦め易い人である。

これは、私の経験論である。だから、タイ人が言う目先の利益を優先するタイ人、中国人、韓国人、ベトナム人には、この論理が必ずしも通用するものではない。現に、アジアが世界中の中心になりつつあり、その中でも稀だと言われる日本人の我慢強く、忍耐強く、将来の利益を追いかけているようでは太刀打ちできないのかも知れない。

しかしそれでも、私は、何人がどうだということに関係なく、目先の利益を追求し、将来の利益のために行動できないようでは、鹿を逐う者は山を見ずというように、何れ、大きな利益をつかみ損ねたり、小さな利益のために大きな失敗をするということになると確信している。

しかも、私は、コストカッターと称し、マイマスだけに注目し、プラスを伸ばせないようでは、それが例え日本人でも、タイ人、中国人、韓国人、ベトナム人に関係なく、決して企業を成長させることはできないと思っている。それは、辛抱強いだとか粘り強いとかという曖昧なことではない。

目先の利益よりも、将来の利益のために行動できなければ、必ず目先の一瞬の鹿に目をくらみ、山を見ることができない経営者であることには間違いない。

私は、鹿を逐う者は山を見ずというような経営者にはなりたくない。そして、マイナスを削ることよりもプラスを増やす生き方をしたい。それが、将来の利益になると確信する。]]></description>
         <link>http://www.hottaworld.com/archives/2010/03/post_790.html</link>
         <guid>http://www.hottaworld.com/archives/2010/03/post_790.html</guid>
         <category>技術者と営業</category>
         <pubDate>Sat, 06 Mar 2010 05:20:28 +0900</pubDate>
      </item>
      
      <item>
         <title>人間は矛盾だらけの生き物だ</title>
         <description><![CDATA[楚の国に盾と矛とを売る武器商人がいた。「この矛はどんなものでも貫く鋭さだ」、「この盾はどんなものも防ぐ堅さだ」と言っていた。「その両方をぶつけるとどうなるかね？」と問われ、答えることが出来なかった。矛盾の語源である。
<div id="ranking">
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私は、常に自分の矛盾と葛藤している。

例えば、私は『<a href="http://www.hottaworld.com/archives/2008/12/post_572.html" target="_blank">オンリーワンよりナンバーワン</a>』の中で『規模の拡大より質の向上を重視する、売上よりも利益を重視する、経営と執行の役割を明確化する、この３つの事業方針により、私たちはナンバーワンよりオンリーワンを目指す、とある。立派に掲げた事業方針だが、実態とそぐわない。』と書いた。

オンリーワンという言葉の響きは良い。規模の拡大よりも、小さくてもキラリと光るオンリーワンを目指すという思想は決して間違いではない。

しかし、自分の胸に手を当てて真剣に考えてみると、キラリと光る世界でナンバーワンのサービスと言いきれないことに気付く。ナンバーワンという言葉の響きが、オンリーワンよりも露骨で、ハングリーに感じる、スマートでない。

ナンバーワンであれ、オンリーワンであれ、どちらでも一番であることに変わりないのに、規模を表す印象が強いナンバーワンを正々堂々と口に出せないのである。

心の中では、この製品を世界一にしたいと思っていながら、実際には世界一になれないことを悟り、オンリーワンという言葉にすり替えるだけ。まさに『<a href="http://www.hottaworld.com/archives/2008/12/post_574.html" target="_blank">負け犬の遠吠え</a>』である。

私は、このような心の矛盾と葛藤している。

しかし、人間とは、実に矛盾に満ちた動物である。

言っていることと、やっていることが矛盾するばかりではなく、昔言っていたことと、今言っていることが違ったりする。部下の時に言っていたことと、上司になってから言うことが違い、立場が変われば、考えも変わったりする。

それを信念がないからだと批判するのは簡単だ。

このブログには、多くの批判が寄せられる。実に正論的で、鬼の首を取ったが如く批判する。私のこの文体が厳しい口調だからこそ、余計に批判するに値するのであろう。

トップに立つものは、常に批判にさらされる。当然なこととだ。批判の窓口のためにトップがあるようなものだ。つまり、強い者、権力があるものほど、批判の矛先が向けられるのである。それは否定しない。

だが、批判する人は、批判するに値する行為、人間性を備えているのだろうか。

矛盾している。

強い者が、弱い者に批判される時、批判する側は名を隠し、匿名を用いることで、強力な武器を持つ。強い者よりも、もっともっと強くなれる瞬間だ。その武器を手に入れた側は、堂々で批判し、強い者を引きづり下ろそうとする。

矛盾している。

匿名の相手に抵抗することもできず、一方的に非難を受ける。それも強い者の宿命だから仕方ないとしよう。

だが、その匿名の人間は、人を批判するほどに、立派な人間なのか。立派ならなぜ匿名という武器を持たなければならないのだろうか。かつ、何のために、わざわざ批判するためのコメントを投稿するのだろうか。私に、私の考えの問題点を気付かせようということか。

それとも暇なのか。

またこのように書くと、ここぞとばかりに喜んで批判する人もいよう。私は、それでもそれを百も承知で書いている。正々堂々と名前を出して。

それでも批判する人は減らないであろう。それも織り込み済みである。なぜなら、人間は、矛盾だらけの生き物だから。

だから人間は、悩み、苦しみ、あるいは矛盾しないように努力しようとする。

言っていることと、やっていることが矛盾してしまったとしても、またそれを反省し、矛盾しないように心がけようとする。矛盾と葛藤し、矛盾の解消を目指すことが、人間の成長になる。

それを、矛盾と知りながら、あるいは矛盾していることに気付かず、矛盾を解消しようとしない人間は、成長しない。

私は、偉そうなことを言ってと思われるかも知れないが、自分を偉いなどと思ったことなどない。そして、偉そうなことを言ってと、自分のほうが偉いという批判もしたくない。

さらに、私は、自分の考えに矛盾がないか葛藤し、矛盾だらけの情けない姿を戒めようとしている。人間は、矛盾だらけの生き物であることを自覚して。

自分は、何ら矛盾したことはないという人はいようか。

私は、とてもとてもそのような人にはなりきれない。矛盾に満ちた自分から、一つの矛盾を解消するにも四苦八苦している様だ。

だから多くの批判を受けるのであろう。矛盾に満ちた姿が憎いのであろう。それなら、甘んじて批判も受けよう。それは、私の姿だから仕方あるまい。

ただ、自分も矛盾だらけの生き物であるに過ぎないことを知ると、自分が矛盾したことをされても、それは必然的だと受け止められるようになる。人間は、矛盾した生き物なのだから仕方ないと。]]></description>
         <link>http://www.hottaworld.com/archives/2010/03/post_789.html</link>
         <guid>http://www.hottaworld.com/archives/2010/03/post_789.html</guid>
         <category>世の中について</category>
         <pubDate>Thu, 04 Mar 2010 05:19:00 +0900</pubDate>
      </item>
      
      <item>
         <title>結果より後悔しない</title>
         <description><![CDATA[粉屋のおじいさんが子供を連れて、市場にロバを売りに行くという内容のイソップ物語『<a href="http://www.hottaworld.com/archives/2006/08/post_257.html" target="_blank">ろばをかついだ親子</a>』。この話は、人の話に一喜一憂して、考えがコロコロと変わっていると、何事も上手く行かないということを物語っている。
<div id="ranking">
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途中で二人を見た人が「暑いのに汗をかいてロバを引いて歩いているよ。ロバに乗っていけば良いのに。」と言っているのを聞いたおじいさんは、なるほどと思い子供をロバに乗せる。

しばらく行くと、今度はおばさんが「この頃の子供は、自分がロバに乗ってすましている。年寄りを歩かせて平気でいる。なんと悪い世の中だろう。」と言うのを聞く。

なるほどと思った二人は交代する。そして、またしばらく行くと、旅人が「この頃の年寄りは、子供を歩かせて平気でいる。なんと悪い世の中だろう。二人とも一緒に乗っていけば良いのに。」と言った。

なるほど思ったおじいさんは、子供も一緒に乗せた。すると、後ろから来た人が、「かわいそうに。いっぺんに二人も乗るから、ロバはひょろひょろに弱っている。こんなに弱り切ったロバはいい値段で売れるものか。二人でかついで行ってやれば良いのに。」と言われる。

なるほどと思ったおじいさんは、ロバの四本足を綱で縛って棒でかついだ。この様子を見た町の人に「この暑いのに、ロバをかついで行くなんて、ばかだな。」と言われながらも、「市場はもうすぐだからがんばろう」と歩き続ける。

市場の手前の橋の上についた時、つるされて苦しかったロバが暴れ出し川に落ちてしまう。

私はかつて、この話を取り上げ、これからのビジネスは、ニーズからシーズへの転換が重要だと述べた。

しかし、改めて、この経済状況の中で、ニーズとシーズとを考えてみる。

消費者の志向を常に感じ取りながら、消費者の移り気に対応して行くのがニーズ志向マーケティングである。

例えば、デフレ経済のような流れをいち早く捉え、低価格路線を打ち出すというようなもの。高景気の高級志向と正反対に一気に舵を取る戦略である。

これに対し、シーズ志向というのは、新たな市場を開拓するようなもの。

例えば、環境ビジネスなどはこれに近いかも知れない。顧客が求めているよりも、顧客に新たな考えをもたらすようなものだ。

さて、私はかつて、ニーズからシーズへの転換が重要だと述べた。この考えは、今でも変わっていない。

しかし、変わったことがある。

それは、『<a href="http://www.hottaworld.com/archives/2006/08/post_257.html" target="_blank">ろばをかついだ親子</a>』のように、人の話に一喜一憂して、考えがコロコロと変わることが、必ずしも上手く行かないことばかりではないという点である。

さらに付け加えれば、ニーズからシーズへの転換が重要だが、ニーズ志向マーケティングが悪いという点もである。しかも、ニーズ志向は決してなくなるものではないし、時代の流れを読みながら、コロコロと変えてと言われながらも、顧客の要望、経済状況に対応することは、必要なことである。

もっと言えば、ニーズ志向を理解していなければ、シーズなど生み出せるはずもないとも言えよう。シーズを生み出すにあたって、ニーズを否定するということなどあり得ないからである。

さて、今回、私が述べたいのは、ニーズやシーズのことではない。

私が、子供を連れた粉屋のおじいさんだったらどうするであろう。

粉屋のおじさんは、粉が売れずに、生活に困り、そのために、粉を乗せて運ぶロバが不要になる。泣く泣くロバを売ろうとしたのだろうか。それとも、粉に変わる売り物が見つかったと思ったのだろうか。何れにしても、ロバを手放さなければならない苦しい状態であったに違いない。

ロバは大切な商品だからできるだけ疲れないように、二人はロバを引いて歩いた。恐らく、多くの人はそうするであろう。

そんな時、「子供に辛い思いをさせて」と言われたら、あなたならどうするか。それでもロバが大切だからと、気にせず平気で子供を歩き続けさせられるであろうか。

迷わないか。ロバを手放さなければならない苦しい状態にいる家族、そして自分の子供。これ以上、子供に苦労をさせたくないと迷うであろう。

こうして考えていくと、粉屋のおじさんが、その場、その場で判断したことを、自信を持って非難できるであろうか。自分だったら、一旦売ると決めたら、どんなことがあっても、一切耳にせず、貫くことができるであろうか。

そんなに大切なロバなら、最初から歩かせずに、吊るして運んでやろうとは考えないか。吊るされるのは、ロバにとって苦しいと断言できるか。

経営と似ている。

後になってから、そのやり方はおかしい、考え方を変えるのは問題だ、と言うのは誰だってできる。

その過程、過程で、最善の策を考えることは当然である。かつ、どんなに最善な策であろうが、結果が悪ければ判断ミスであり、結果が良ければ先見の目があるということになる。

私は『<a href="http://www.hottaworld.com/archives/2009/06/post_654.html" target="_blank">変化し続けることが変化しないこと</a>』の中で、『変わり続けることこそが、変化に対応できるからだと考えているからである。世の中は、放っておいてもどんどん変化して行く。変化していく中に、変わらずにいれば、取り残されてしまう。だから、私は、最低でも世の中の変化についていけるぐらいの変化は必要だと思っている。』と述べた。

私は、状況に応じて、変えることがあるのは当然だと思う。

その判断は、その時に置かれた状況でなければ、評論家のように簡単に語ることはできない。変えようが、変わらないであろうが、その判断によって生じる結果を受け止めるのみだ。

それは、決断できず、ただ迷ってしまう優柔不断とは違う。その過程、過程で、最善の策を考え、速やかに判断し、その判断した結果に責任を持つことである。

「この暑いのに、ロバをかついで行くなんて、ばかだな。」と言われながらも、「市場はもうすぐだからがんばろう」と歩き続ける。最後の最後に、このおじさんは、自らの判断で、ばかだと言われても、自分の考えを信じ、それを貫いた。

その後に起こることは、もう後悔しても仕方あるまい。残念ではあるが、私は、自分で判断したことに後悔はしない。

後悔しない覚悟さえあれば、どんな結果が待ち受けていようとも、寛容するしかない。結果より後悔しないほうが遥かに重要だ。

起きた結果は残念でも、失敗でも、やったこと、判断したことに後悔しなければ、それで良い。私は、そういう生き方をしたい。]]></description>
         <link>http://www.hottaworld.com/archives/2010/03/post_788.html</link>
         <guid>http://www.hottaworld.com/archives/2010/03/post_788.html</guid>
         <category>企業経営について</category>
         <pubDate>Tue, 02 Mar 2010 05:17:26 +0900</pubDate>
      </item>
      
      <item>
         <title>曖昧性や不確実性に堪える</title>
         <description><![CDATA[私もかつては、デジタル人間だった。白黒はっきりしない曖昧なことは大嫌いだ。しかし、今から振り返ると、当時は、白黒はっきりさせることと、曖昧を排除することとを混同していたように思う。
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私の先輩は、上司の曖昧な態度を見て、デジタルのように白か黒をはっきりするように要求していた。私もその頃は、先輩の要求が正しいように思っていた。

先輩は「やるか、やめるかはっきりしましょう。」と上司を問いただす。

上司は「やめる前にやり残したことはないか確認しろ」と言う。

どうやら先輩には、上司の態度が煮え切らないように映ったようだ。

だが、今、考えてみると、その上司の態度が、曖昧なのか、どうかはその時点では明確でなかったと思う。

私はかつて、『<a href="http://www.hottaworld.com/archives/2010/01/post_760.html" target="_blank">過猶不及（かしふきゅう）</a>』の中で、『私にとって、中間を取ることでないというのは、私の生き方の中で、とても大きな考え方のベースになっている。二つを足して二で割るような考え方ではなく、自分の判断で、一方を選び、一方を捨てるという考え方である。少し乱暴な考え方かも知れないが、玉虫色決着は好きでないのだから仕方あるまい。』と書いた。

だから私は今でも、白か黒かはっきりしないような二つを足して二で割るような考え方は好きでない。それは明確な判断をするということであり、中途半端な姿勢を持ってはならないということである。

つまり、曖昧を排除するということは、明確な判断基準を持つということであり、結果として白と黒のいずれかになることとは異なる。

二つを足して二で割ったものではなく、答えが白でも黒でもない場合ということは十分にあり得るのだ。その色が何色であろうと、明確な判断基準を持って出された答えは、決して曖昧とは言えないのである。

このような状況は、日常では茶飯事である。むしろ、世の中というのは、曖昧なことや不確実なことが氾濫しており、白か黒かの何れかを選べるような単純なことは少ない。

リーダーとは、曖昧なことや不確実なことの中でも、答えを出さなければならない立場である。曖昧なことや不確実なことを理由に、曖昧な態度をしたり、判断を先送りしたりできないのだ。

どんなに情報が不完全で、不足していたとしても、その限られた情報の中から、ある一定の答えを出さなければならない。

冒頭の「やるか、やめるかはっきりしましょう。」ということに対し、「やめる前にやり残したことはないか確認しろ」と指示を出したのは、明確な態度を表明しているのである。やるかやめないかという二者択一の答えを出すのが、リーダーの役目ではなく、明確な指示、考え方を示すことが重要なのである。

どうやら誤解している原理主義者は、すぐに白か黒かの二者択一を迫るものだが、明確な答えというのは、白か黒かだけではないのである。

このことは、私自身もそうであったように、下の立場からすると、非常に判りにくい。二者択一こそが明確の答えだとの誤解を招くのである。

しかし、それには理由がある。

それは、そのリーダーが、普段から曖昧な姿勢なのかどうかで決まる。

「やめる前にやり残したことはないか確認しろ」という同じ言葉であっても、普段のリーダーの姿勢から、それは答えを出すのを引き延ばしていると思われることもあろう。

そのように見えるのは、リーダーがいつも、曖昧なことや不確実なことに右往左往しているからである。どんなに曖昧なことや不確実なこと状況に置かれても、毅然として、あるいは、素早い判断で、明確な答え、方向性を示すことが求められていることを避けようと思われているのだ。

下の者は、どんなに曖昧なことや不確実なこと状況でも答えを出すのがリーダーであるべきだという当たり前の心理が働く。それは、自然で当然のこととして理解し、曖昧な態度を見せないことをしなければならないのである。

リーダーであれ、人間は、誰しもが悩み、時には心が揺れ、迷うこともあろう。それは人間である以上、自然なこと。だが、その自然なことから逃れようとせず、そのプレッシャーに押しつぶされないようにしようとする姿勢を、リーダーだからこそ、求められる立場なののである。

「やるか、やめるかはっきりしましょう。」と迫られた上司は、きっとやるか、やめるかを決められない、はっきりとした答えを出せないと思われたいたに違いない。

このことは、その上司がどう反論しようとも、そのように思われているのだから、それを弁明しても仕方あるまい。虚しいだけだ。

もっと言えば、はっきりとした答えを出せないと思われた時点で、その理由がどうであれ、その人のリーダーシップが不足しているのは間違いないのである。つまり、優柔不断と思われた時点で、リーダーとしては言い逃れができない、リーダー失格なのだ。

それほどまでにリーダーというのは、曖昧な姿勢は命取りであり、致命的なのである。

答えがないものに答えを出さなければならない。

方向が見えないものでも、方向を示さなければならない。

勝つ確率が全く見えなくても、戦わなければならない時も、あるいは、どんなに勝ち目があっても、引かなければならないという判断をしなければならないこともある。

どんな場合でも、どんな場面でも、リーダーは答えを出さなければならないのである。それがリーダーの役目なのだから、それができないのであれば、リーダーではない。

どの答えが正しいかどうかは、すべて結果論である。結果がどうなろうとも、自分の判断を信じ、その考えが正しいことを理解してもらうような明確な説明が必要なのである。

結果責任を問われる前に、まずリーダーが果たさなければならないことは、曖昧性や不確実性な状態に堪え、自ら、答えを出すことである。結果は、その次である。

結果を恐れて、曖昧な態度を取るほど、リーダーとして見っともないことはない。私は、そのようなリーダーにはなりたくない。結果は、その次だ。]]></description>
         <link>http://www.hottaworld.com/archives/2010/02/post_787.html</link>
         <guid>http://www.hottaworld.com/archives/2010/02/post_787.html</guid>
         <category>リーダーについて</category>
         <pubDate>Sun, 28 Feb 2010 05:58:30 +0900</pubDate>
      </item>
      
      <item>
         <title>未来に向けて約束する</title>
         <description><![CDATA[責任の重さは、上位になるほど比例して重くなる。さて責任とは何か。私は、責任とは、未だ見ぬ未来に対して、過去、現在よりもより良くする、あるいは悪化させないということに対し、コミット（約束）することだと思っている。
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つまり、未来という将来どのようなことが起こるか判らないことに対して、自分の力量、能力に照らし合わせ、見通しを持って、受け入れることである。

その観点から言えば、自己責任というのは、未来に何が起ころうとも、自分で、見通しを持って、他人のせいにせず、自分の問題として受け入れるということである。

こう考えると、いかにも自己責任というのも重いことが判ろう。

さて、私は、責任を端的に言えば、未来への約束と答えるだろう。

そして、責任を持つというは、あるの事柄、事象、内容に対して、未来に対し、太鼓判を押す、保障することを受け入れることである。

そして、責任を負うとは、あるの事柄、事象、内容に対して、未来に対し、過去、現在よりもより良くする、あるいは悪化させないということを受け入れるということである。

そして、責任を果たすとは、責任を持つ、あるいは責任を負うと約束したことに対し、着実に、確実に、諦めずに、途中で投げ出すことなく、遂行することである。

責任とは、現時点で、未来に対し約束することだ。未来に対して約束することだから重いのだ。

恋人と出会い、結婚する。生涯に渡って愛し、幸せにすると約束する。これは、まさに将来という未来に約束することである。実際には、どんな未来が訪れるのか判らないのにだ。

それになのに、約束できなければ結婚できない。約束を破れば、離婚する。責任とは、そういうものである。

何が起こるか判らないことに約束する訳だから、責任の大小、重さに関係なく、責任を受け入れることはとても厳しいことなのである。

しかも、誰しも未来に対して、保障することなどできやしない。しかし、それでも、それをしなければならないのは、その地位にある人がそれを受け入れなければ、未来が開けないからである。

言い換えれば、未来を開くことを責任とも言えよう。

誰しも未来に対して、保障することなどできやしない。だから、その地位になければ、責任など負いたくないと考える。そんな危険な道を歩きたいと思わない。言い換えれば、それは、責任から遠い存在の人のことである。

責任から遠い人は、時に言う、責任を取れと。責任から遠い人ほど、軽々しく責任を口にする。それは、責任から遠い存在にいるから、責任の重さを認識できずにいるにも関わらず、その逆に最も責任の重さを痛感している責任を取る立場にいる人に対し、責任という武器を投げ掛けることで、追い込もうとするからである。

責任を取るということは、過去に約束した、過去、現在よりもより良くする、あるいは悪化させないということに対して、それが果たせなかったという結果を招き、それに対してけじめをつけることである。

私はかつて、責任の取り方について、二つのことを述べた。

『<a href="http://www.hottaworld.com/archives/2007/07/post_369.html" target="_blank">私の責任の取り方</a>』の中で、『私は、責任を取るとは、辞めること以外にないと確信している。』と書いた。

一方、それに対し『<a href="http://www.hottaworld.com/archives/2009/07/post_669.html" target="_blank">辞めることで責任は取れない</a>』の中では、『責任を取るとは、自分が償い、地位が下がっても、これまで以上に報いることである。例えば、部長から一般職になって、給与を半減しても、これまで以上に頑張ることである。それこそが、責任の取り方だ。』だと書いた。

この二つは、矛盾していない。

責任を取って辞めるのは、トップのみが行う責任の取り方である。それより下の責任の取り方は、辞めれば済むというものではないのだ。

責任を取るというのは、簡単に言えば、けじめをつけることである。失敗を認め、未来への約束を果たせなかったことに対し、償うことである。

責任というのは、とても重い。

未だ見ぬ未来に対して、過去、現在よりもより良くする、あるいは悪化させないということに対し、コミット（約束）するというのは、簡単にできるものではないのだ。

だが、その役割に応じて、その責任という約束をしないようでは、頼りが無いということである。だから、責任を逃れようと、責任を負わないような人では、誰が信用できようか。

ましては、組織のリーダーなら、自ら進んで責任を持つ気概がなければならないのは、当然なことである。

だからこそ、一方で、軽々しく責任を取るなどと言うことを言うものではない。責任を取る前に、何としても、やりぬく、何とかすることを全力でするべきである。その上で、自分の限界を認めた時、けじめをつけるのだ。

責任というのは、とても重い。

それは、どんなにこうして説明しても、その地位に立った人でないと判らないであろう。

ならば、このブログを読んでいるリーダーは、軽々しく責任という言葉を発するべきではない。それは、自分の責任に対しても、他の者の責任に対してもだ。

責任とは、未来への約束なのである。未だ見ぬ未来を開拓するということは、誰しも難しいということである。

だが、それでも、リーダーならば、責任という言葉を簡単に用いずも、未だ見ぬ未来を開拓するという約束ができなければならないのである。もっと言えば、未来を開拓できない、開拓しようとしない人は、リーダーではない。つまり、責任を負う能力がないということ。

あなたは、何の確証を持って、未来に約束ができるか。

確証がなくても、やり遂げようとする覚悟はあるか。

途中で投げ出さない意気込みは十分か。

それを未来に向けて約束できるか。

それが責任である。

私は、未来を切り開く。自信を持って。それが私の責任だ。それができなければ、私は、私流のけじめをつける。]]></description>
         <link>http://www.hottaworld.com/archives/2010/02/post_786.html</link>
         <guid>http://www.hottaworld.com/archives/2010/02/post_786.html</guid>
         <category>リーダーについて</category>
         <pubDate>Fri, 26 Feb 2010 05:57:45 +0900</pubDate>
      </item>
      
      <item>
         <title>一事が万事と洞察力の違い</title>
         <description><![CDATA[私はかつて、『<a href="http://www.hottaworld.com/archives/2006/10/post_268.html" target="_blank">情熱と洞察力を併せ持つ</a>』の中でマックス・ウェーバーのリーダーシップ論について書いたことがある。その中で、ウェーバーの考えるリーダーの資質は、１．情熱　２．洞察力　３．責任感　だと書いた。
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そして私は、『私は、情熱の次に重要で、かつ欠けてはならないものがこの洞察力ではないかと考えている。実は、私自身も他のどの資質よりもこの洞察力を高める努力をしていると言って過言ではない。』と述べ、私自身はこの洞察力が弱いということを認めている。

さて、改めて洞察力とはどのような能力のことであろうか。

洞察と似たような言葉に、観察がある。

観察とは、観て察することである。事物の現象を注意深く客観的に見ることを言う。観察能力とは、事実を見逃さない能力である。観る能力であるから、例えて言えば、監視カメラを見つめ、問題が発生することを見逃さないということであろう。

洞察は、観察とは違う。

洞察とは、物事を見抜き、見通すことである。見えないものを、奥に隠れているものを察する力である。監視カメラを眺め、何やら動きがあったとしても、それが不自然なことか、あるいは問題となりそうなことかを察することができなければ、洞察能力がないということになる。

観察して観えるものだけでなく、仕草、顔つき、手つきなど全体の流れから、その後に起こり得ることを事前に感じ取るのが洞察力だ。

簡単に言えば、観えるものを見逃さないのが観察力で、観えないもの本質を見抜くのが洞察力である。

このように考えると、洞察力が優れている人など、そうはいないことが判ろう。もちろん、私自身も自覚しているように、優れた洞察力があるなどとは一度も思ったことがない。

しかし、冒頭で書いたように、リーダーにとって洞察力とは非常に重要な要素であることを、私は痛感している。だからこそ、洞察力を高めなければと意識しているのである。

一事が万事という言葉がある。

私は、この言葉が好きでない。

一事が万事というのは、一つのことを見れば、他の全てのことが推察できるという意味だ。

人のある仕草を見ただけで、あるいはほんの僅かな姿を見つけただけで、その人の本質が判るということである。

そんなに人は単純ではない。

ほんの僅かな仕草を見ただけで、あたかもその人の全てを知ったかのような洞察力を、誰もが備えているとは思えない。だから、私は、一事が万事という言葉が好きでないのだ。

そんなに単純に人を見抜こうなどという試み、考え方を持つこと自体が、間違っている。

その上で、世の中には、一事が万事という見方が多いことも知る必要がある。それがどんなに間違っていると言おうが、現に、一般的には、全く洞察力がないのにも関わらず、直観とやらを洞察力と混同し用いることが多いのだ。

私も決して例外ではないかも知れない。

私はかつて『<a href="http://www.hottaworld.com/archives/2005/03/post_48.html" target="_blank">顔が人格を表す</a>』の中で、『服装や髪型などの身なりは、その人の考え方、性格を表現している。本当に仕事のことを考えているならば、スタイルを優先するよりも、ＴＰＯを優先するはずだ。それができないというのは、どこかがおかしい。さらに、顔というのは、身なりよりも、もっと人格を表すと言っても良い。どんなに身なりを整えても、顔に表れる人格は変えようがない。』と書いた。

これは、顔や服装、髪型が一事が万事ということを示すということを述べたのである。

顔じゃないよ心だよと簡単に言うが、実際のところ、心の隅まで一瞬にして理解できるはずもない。心じゃないよ顔だよというのが、本音であろう。

私は、このことを否定しない。人の心など簡単に把握できないのだから、むしろ簡単に把握できる顔やスタイルから、その人となりが見えるというのはあながち間違っていないと思う。

このことを否定しているようでは、洞察力がどうだこうだという資格など微塵もない。まずは、一事が万事という言葉が表すように、相手が一方的であろうが、主観的であろうが、印象の悪い点を元に、その人の人格まで想像されてしまうのは、仕方ないのである。

仕方ないのだから、一事が万事にならないようにするのは当然のことだ。顔やスタイルまでは言い過ぎにしても、行動、言動の一旦で、その人の考え方が表れるのは、自然なことなのだ。

私は、『<a href="http://www.hottaworld.com/archives/2007/05/post_349.html" target="_blank">中身じゃないよ見た目だよ</a>』の中で、『社員数が増え、社員を見渡すと、ひげを伸ばす人が増え、ネクタイをしない社員が普通になっていた。私のスタイルがそのまま社内に伝染したのだ。ある人から「軽い社員が多いね」と言われた。』と書いた。

そして、私はそれ以来、ひげを剃ったのだ。

それから３年が経とうとしている。

１ヶ月ほど前、私はお客さまから「あれはだらしなく見えるね」という言葉を聞いた。私は、残念で仕方なかった。

私は、相手が、洞察力があろうがなかろうが、一事が万事と、感じ取ったことは甘んじて受けとめるべきだと痛感した。

それができなければ、今度は、こちらが相手をどう観えるだのこうのだの言えないのである。

私も決して偉そうなことは言えないのは承知している。しかし、その上で、敢えて、一事が万事、あるいは直観で人間の全てをあたかも知ったかのようなことは間違っていると言いたい。

特に、ウェーバーの言うように、リーダーなら、真の洞察力を持つべきだと思う。

洞察力は、観えないものを観る能力である。

将来を見抜く能力でもある。それは、決して山観ではない。

感じ取る力だ。

部下が何を考え、何を悩み、何を言わんとしているのか、言葉にされない心の様子を察することである。

そんなことが、そう簡単にできるはずもない。できないからこそ、普通には持ち合わせていないからこそ、リーダーにはその能力が求められるのであろう。

リーダーは、他人から一事が万事と観られることを、相手には深い洞察力を持って接することが大切なのであろう。

私は、これからも、他のどの資質よりもこの洞察力を高める努力をしていきたいと思う。

そのためには、できるだけ多くの人と接し、多くの人を知り、洞察力のバックボーンとなる人のデータベースを経験で増やすことが重要だと思う。]]></description>
         <link>http://www.hottaworld.com/archives/2010/02/post_785.html</link>
         <guid>http://www.hottaworld.com/archives/2010/02/post_785.html</guid>
         <category>世の中について</category>
         <pubDate>Wed, 24 Feb 2010 05:57:09 +0900</pubDate>
      </item>
      
      <item>
         <title>継続なければ信念にあらず</title>
         <description><![CDATA[先日、大変親しくさせて頂いている年配の方から、「お前も年取ったなぁ」と言われてしまった。その理由は、以前に話をした同じ内容を、私がまた同じ話をしたからだ。どうやら、同じ話は、２度目ではなく、数度目になっているらしい。
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自分では気づかずにいた。だから、私は一瞬、言ったことを忘れてしまっているので、それで"年老いた"のかと思った。

しかし、彼が言う"年取る"というのは、どうやら"年老いた"とは違ったようだ。

「若い頃から、信念が固まっている人は少ないよ。我々のような凡人は、人生経験を重ねるにつれて、次第に自分の生き方も確立するんだ。実際には、確立させようと言うよりも、気が付いたら自然にそうなっているものだよ。同じ話を何度もするということは、年を重ねても、どうしても知ってほしい、何度も伝えたいことなんだろうよ。若人にはないことだよ。」

「なるほど」

そう言われれば、私が知っている多くの年配者は、何度も何度も同じ話をする人がいる。そんなとき、私は、「また始まった。この人、ボケているのでは」と内心馬鹿にしているところがあった。

私は、その馬鹿にされる対象者の人になったという訳だ。

同じ話をするということは、言われてみれば、どうしても知ってほしい、何度も伝えたいことなのかも知れない。

それが、若い頃は、そんなことは知らないし、しかも、どうしても知ってほしい、何度も伝えたいことということ自体がなかったのかも知れない。つまりは、信念を語るには、至っていなかったのであろう。

私は、改めて信念という言葉の意味を考えてみた。

辞書には、固く信じて疑わない心。行動の基礎となる態度とある。つまり、揺るぎない考えと言えよう。

私は、これまでこのブログで"信念"という言葉を75回も用いてきた。しかし、改めて読み直してみると、"私の信念"という表現は、僅か６件しかない。しかも、最初に"私の信念"という言葉を用いたのは、今から僅か１年半前の『<a href="http://www.hottaworld.com/archives/2008/06/post_484.html" target="_blank">拳銃を持った優しさと厳しさ</a>』の中である。

私は、そこで『私は、このブログで何度も言っているが、経営者は指導者でありリーダーである。これは、このブログのテーマであり、私の信念でもある。』と書いた。これが、"私の信念"という言葉を用いた最初の内容である。

つまり、それより以前の私が書く内容は、"私の信念"だと言い切る状態ではなかったということでもある。

私は、『私は、このブログで何度も言っている』と、事実何度も同じことを繰り返し言ってきた。しかし、それを信念だと言い切るまでに、何年も要し、何回も言い続けることでやっと確信を持てるようになった。

私は、同じ話を何度もするようになり、どうしても知ってほしい、何度でも伝えたいことが持てるようになったのである。それは、人生経験を重ねるにつれて、次第に自分の生き方も確立したのかも知れない。あるいは、実際には、確立させようと言うよりも、気が付いたら自然にそうなっていたのであろう。

彼は言った。「若者が信念何て簡単に口にするものじゃないよ」と。

「なるほど」

何年も要し、何回も言い続けることでやっと確信を持てるようになるのが信念であるとすれば、そう簡単に信念何て持たないのかも知れない。

時々、上司に向かって部下が「これは私の信念です。」と大見えを張っている姿を目にする時がある。どうやら信念と意地を誤解し、あるいは好き嫌いをはっきりさせること、または頑固、もっと言えばわがままを、信念と勝手に置き換えているのであろうと思われる。

嫌いないこと、やりたくないこと、できないことを自分の断固たる主張として、信念という言葉を持ち出し、論破しようとしているのだ。それは、辞書にある固く信じて疑わない心から程遠く、食わず嫌い、言い訳に他ならない。

人間の信念何て、そう簡単に確立できるものではない。

信念とは、嫌だということを述べる道具ではなく、生き方、考え方を示すものである。しかも、辞書にあるように、行動の基礎となる態度であるならば、信念とは、その人の行動の原点であり、堂々して恥ずかしいものではないはずである。

ならば、「これは私の信念です。」と上司に対して大見えを張る行動は、その人の信念の浅さ、軽さを示すものであり、決して褒められたものではない。大体にして、信念がその人の行動の原点だとすれば、信念という言葉をわざわざ口にせずしても、日々の行動を見れば、自ずと見えてくるものである。

信念とは重い。これに尽きる。この重さは、一朝一夕に生まれるものではない。年月を重ね、その人がこれまで生きてきた中で、改めて振り返って見たときに、自然にその中心にいることができたものが信念である。それは、過去の積み重ねの、その行動のカラーを示すものである。

信念とは過去の積み重ねだ。

過去の経験がない人に信念はない。過去の経験が多いほど、それでも揺るがない信念は重い。それは、まさに<a href="http://www.hottaworld.com/archives/2005/06/post_81.html" target="_blank">継続は力なり</a>を表すものである。継続なければ信念にあらず。]]></description>
         <link>http://www.hottaworld.com/archives/2010/02/post_784.html</link>
         <guid>http://www.hottaworld.com/archives/2010/02/post_784.html</guid>
         <category>求める人材</category>
         <pubDate>Mon, 22 Feb 2010 05:56:27 +0900</pubDate>
      </item>
      
      <item>
         <title>未だ来ない未来に恐れるな</title>
         <description><![CDATA[先日、ある人を病院に見舞いに行った。彼は、「夜になると眠れない」と言っていた。病気の痛みが辛いから眠れないのではなく、病気が治るかを考えて不安で眠れないのだと。
<div id="ranking">
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「体が辛いのではなく、不安なことのほうが辛い」と彼は続けた。あんなに明るくて、元気な人だったのに、とても弱々しく見えた。

病は気からと言うが、病になれば、気も弱くなる。気が弱くなれば、病も良くならない。一方、その逆に、体が治れば、不安も解消される。そう考えると、気も体からということも言える。

気が先か、体が先かは別にしても、一体であることが良く判る。

気持ちというのは本当に厄介なものだ。体が丈夫でなければ、それをコントロールするのは難しい。

前向きな考えを持つというのは、体が資本なのかも知れないな。

私も、このようなブログを書きながらも、私は決して強い人間ではない。悲観的で、そして弱い人間である。しかし、リーダーたるものは、それを表に出す訳には行かないのだ。だから尚さら苦しい。

私は、『<a href="http://www.hottaworld.com/archives/2009/01/post_584.html" target="_blank">経営者は悲観的楽観主義者だ</a>』の中で『私は、極めて悲観的な人間だ（中略）誰よりもできるだけ悲観的な要素を洗い出し、そのひとつひとつを徹底的に叩いて行く。そんなに簡単に、そんなに楽な方法で上手くいくはずがないと、将来を悲観し、自分を追い詰めることで、自分への甘えを炙り出す。』と書いた。

『悲観主義は気分のものであり、楽観主義は意志のものである。』とは、『<a href="http://www.hottaworld.com/archives/2009/12/post_757.html" target="_blank">幸福だから笑うわけではない。笑うから幸福なのだ。</a>』の中で紹介したフランスの哲学者アランの言葉である。

その言葉の通り、人間は、放っておけば悲観的になるのは、自然である。それでも、強い意志を持って、前向きに生きようと歯を食い縛って楽観的になろうとするのだ。

『私の頭の中は、常に半年後のイメージで一杯である。未だ、２年後や１０年後などの中長期をイメージする余力はない。しかし、今の時代のスピードと、経営の効率性を考えると、１０年先のどうなるか判らないようなことよりも、半年先、１年先の短期計画のほうが遥かに重要である。

しかも、私の場合には、半年後の計画を如何にそれ以前に前倒しするかと、同時に、さらに半年後のイメージ作りに相当な時間を費やす。』

これは、『<a href="http://www.hottaworld.com/archives/2006/12/post_294.html" target="_blank">一年の計は年末にあり</a>』で書いた一文である。

私は今でも常に、私の頭の中は、常に半年後のイメージで一杯である。半年後を考える時、明日を考え、明後日を考える。そうして常に、未来を考える。

私は、夜、寝るのが早い。努めて早くしている。それは、眠れなくなることが怖いからである。

寝る前に未来を考えると、私は、決まって悲観的になる。

ある人から、人間は、昼は理性が働き、夜は感性が働くという話を聞いたことがある。このことは、気分とは感性であり、意志とは理性であるとも言い換えられよう。

つまり、夜は、悲観主義という気分が働くことは、これもまた自然なことなのかも知れない。

私は、自身でそのように感じているから、悲観的な感性が働く、怖い夜を避けようとする。これは、経営者になってからの習慣だ。

夜早く寝るから、朝早く起きられる。正確に言うと、起きられるというよりも、長く眠れずに起きてしまうというほうが近い。

どうせ起きてしまうなら、少しでも時間を有効に使おうと考える。

例えば、明日のことを考え、明後日を考え、そして半年先を考える。

そして、『<a href="http://www.hottaworld.com/archives/2005/07/post_84.html" target="_blank">見えぬものに怯える</a>』。未だ来ない、未来という猛獣に押しつぶされそうになる。

目の前には、猛獣などいやしないのにだ。なぜ、人間は、未来に怯えるのであろう。どんなに怯えても、目の前の敵ではない。自分で一方的に作り上げた勝手な敵だ。

その敵の実力も判らないのに、こちらの弱点を考えれば考えるほど、相手の強みと思えてきてしまう。こちらが弱いだけで、あちらがそれを上回る強い力を持っているかどうかも判らないのにだ。

このようなことを毎日毎日繰り返していると、もう一つ気づくことがある。

明日は未だ来ない、今は今日だということに。明日のことを考えることも重要だが、今日のことも考えねばと気づくのだ。

その瞬間から、私は、意志を持って、楽観主義になろうとする。

そして、自分の弱みを考えることよりも、自分の強みを考えるようにし、それで物事を打開しようとする。そして、もしそれで失敗したとしても、その時は、未来の架空の猛獣ではなく、現在目の前に見える敵だから、食べ殺されることも無かろう。

私は、今日、この瞬間、健康だ。歩くことも、話すことも、そして書くこともできる。もし、病室のベットに横たわらされたら、そうも行かない。

私は、今日、この瞬間、病気ではない。病気の不安と比べたら、その他のことなどチッポケなことだ。

私は、今日、この瞬間、生きている。

ならば、未だ来ない未来に恐れる必要もない。今、歩ける、話せる喜びを味わうべきだ。

未だ来ない未来に恐れるな。どうせ明日になっても、また次の明日は来る。明後日の次にも、明日は来る。

まだ明日は来ない。今を見つめて生きるべし。

幸せとは、今この瞬間、こうして生きていることだ。明日の幸せも、明後日の不幸せも、今日の幸せより、良いとも悪いとも判らない。判らないことにかまっていても仕方あるまい。]]></description>
         <link>http://www.hottaworld.com/archives/2010/02/post_783.html</link>
         <guid>http://www.hottaworld.com/archives/2010/02/post_783.html</guid>
         <category>世の中について</category>
         <pubDate>Sat, 20 Feb 2010 05:53:59 +0900</pubDate>
      </item>
      
      <item>
         <title>一人で出来ることなど高が知れている</title>
         <description><![CDATA[私が起業した年の元日、『<a href="http://www.hottaworld.com/archives/2005/01/post_6.html" target="_blank">私の目指す組織</a>』の中で、『"真の友"となれる、人生観や価値観といった難しいものだけでなく、遊び仲間や、飲み友達など、何かひとつでも友人として、会社や仕事を離れても付き合える友とタッグを組みたい。』と書いた。
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私はそれ以来、社員を単なる部下としてではなく、仲間として意識するようにした。

彼らとは、時には大いに遊び、大声で笑う。私にとって仲間とは、仕事を離れても付き合える友のことである。そのような人たちでチームを構成できれば、それほど頼もしいことはない。

『<a href="http://www.hottaworld.com/archives/2009/11/post_731.html" target="_blank">晴天の部下と雨天の部下</a>』の中で、『私は、晴天の部下にも雨天の部下も排除しない。しかし、雨天の部下こそ真の部下として、決して苦労はさせるが不幸にはしないと誓う。そして、雨天の部下が、将来上司になった時、私はその上司の下で支え、恩返しをしたいと考えている。』と書いた。

私にとって、雨天の部下は、部下という前に仲間だ。ともに苦しみも悲しみも、あるいは楽しみも分かち合える仲間である。

私の仲間は、皆、私よりも優れた能力を持っている。有能で馬力も、体力もある。私の足りない分を彼らはいつも補ってくれている。そして、私も彼らの足りない分を補い、彼らと共に成長したいと考えているのだ。

『自分と同じ時は、自分より上。自分より下の時は、自分と同じ。自分より上の時は、ずっと上。』とは、『<a href="http://www.hottaworld.com/archives/2009/03/post_616.html" target="_blank">自分と同じ時は自分より上</a>』で書いた言葉だ。

つまり、自分より下などいないのである。自分の存在など高が知れているのだ。

高が知れているという高とは、大した高さではないという意味だ。自分のほうが高い、上だと思った時点で、その人の成長は止まっている。まさに、そのような人こそ、人間として高が知れているのである。

『<a href="http://www.hottaworld.com/archives/2009/03/post_613.html" target="_blank">私は身の程を知っている</a>』。つまり、高が知れているということを十分に認識しているということである。だからこそ、私は仲間を大切にしたい。そして、新しい仲間が増える『<a href="http://www.hottaworld.com/archives/2010/01/post_769.html" target="_blank">出会いを求めて生きる</a>』のだ。

『私は、組織創りこそが経営だと思っている。どのような組織を、どのような方法で創りだすことができるか、これが経営である。』と『<a href="http://www.hottaworld.com/archives/2009/12/post_746.html" target="_blank">組織創りこそが経営だ</a>』の中で述べた。

私の経営の柱は、これまでもこれからも、一貫して組織創りなのである。これは、仲間を募っているのと同様の考え方である。

私のこの考えの根底には、一人で出来ることなど高が知れているということが強くあるからである。

人間は、一人では生きていけない。様々な人と出会い、様々な人との関わりなくしては生きていけないのだ。しかも、私のような無能な人間であれば尚更である。

平凡どころか、凡才な私が、会社経営をしていけるのは、有能な仲間が傍にいるからである。私は、彼らの支えなしに生きられないのだ。

その上で、私は、経営者として、組織のリーダーを任せられている。だから、視点を変えて、リーダーは、私が一人では生きていけないことを述べるのではなく、誰もが一人では生きて行けないことを知らせる役目がある。

様々な人と出会い、様々な人との関わりを大切にしなければならないことを伝えなければならないのだ。同時に、一人で出来ることなど高が知れていることを教え、仲間、すなわちチームを大切にすることを指導する立場にあるのだ。

リーダーとは、支えられ、支える役目がある。そして、支えることと、支えられることの大切さを、リーダーシップを持って、チームに浸透させなければならないのである。

一人で出来ることなど高が知れている。

しかし、仲間が集まれば、一人では出来ないことも可能になる。これが組織であり、組織創りこそが経営なのである。これが私の経営の根本的な考え方だ。

一人で出来ることなど高が知れているという気持ちを持っていれば、仲間を求め、出会いを求めることであろう。

ところが、一人で出来ることなど高が知れているという気持ちを持つには、きっかけが必要だ。そのきっかけがなければ、自惚れ、自分は何でもやれると思うであろう。

そのきっかけとは、失敗することである。挫折することである。そして、悲しみ、辛い思いをすることである。そのような経験を通じて、自分の無能さをどれほどまでに痛感できるかである。

自分の無能さを痛感できなければ、一人で出来ることなど高が知れていると思えるはずがない。

世の中には、どんなに頑張っても無理なことがあるということを知ることも重要である。一人の力より二人の力、三人の力のほうが遥かに大きいことを知ることは、それだけでもその人を成長させよう。

私がこのような考えを持つようになったのは、生まれながら障害を持つ長男が生まれてからだ。

もし、彼が生まれていなかったら、生活の内容も、私の考え方も大きく異なっていただろう。

どうしても支えなければならない人が傍にいる、そして、同時に支えてくれない人がいないと成り立たない自分がいる。支えているつもりが、支えられている。

そして、彼は病気ではなく障害であるという事実。病気は、直せるかも知れないが、障害は病気と異なって、付き合わなければならないものだ。世の中には、どんなに頑張っても、どうしようもないこともあるのだ。それを受けとめて、それを前提に、前向きに生きなければならない。

このことは、親が寝たきりになったりしても同様であろう。あるいは、連れが動けなくなっても同様だ。もし、たった一人であるなら、そのような経験もしないかも知れないで済むかも知れない。でも、それを経験するからこそ、支えることと支えられることの大切さも知るのである。

そして、一人で出来ることなど高が知れていることになるのだ。でもそれを知った人は、仲間を求め、出会いを求めるに違いない。

一人で出来ることなど高が知れている。私はこのことを大切にして生きて行きたい。

だからこそ、経営の柱は、組織創りなのである。良い組織を創る、これに尽きる。

]]></description>
         <link>http://www.hottaworld.com/archives/2010/02/post_782.html</link>
         <guid>http://www.hottaworld.com/archives/2010/02/post_782.html</guid>
         <category>世の中について</category>
         <pubDate>Thu, 18 Feb 2010 05:52:54 +0900</pubDate>
      </item>
      
      <item>
         <title>明日することを今日してしまえ</title>
         <description><![CDATA[2009年１月１日、私は『今年は、やることに、やらなければならないことに一々優先順位などつけていられない。全てが同じ優先順位で、どれもが重要だと考える。今年は、例年と同じような安直な考えでは到底乗り切れないのである。
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優先順位などつけている場合でない。どれもこれも、次から次からすぐにやらなければならない。このような考えで、行動しないで、いつできるのか。』と『<a href="http://www.hottaworld.com/archives/2009/01/post_575.html" target="_blank">今やらないでいつやるのか</a>』の中で書いた。

学生時代に初めてアルバイトをした時、私が最初に叱られたのは、動かなかったことだ。

私の最初のバイトは、パブレストランのウェイーターであった。注文を取ったり、片付けたり、出来上がった料理を運んだりする。

仕事をし始めて間もない頃、少しだけ間が空いた時間があったため、私は、ホールの端に立って、お客さまの様子を覗っていた。私なりに、食べ終えて片付ける皿がないか、あるいは注文を告げようとしているお客はいないか、立って見てた。

すると店長が傍にやってきて、「歩き回れ、突っ立ったままでは、お客の様子が判らない。動け。働くというのは動くことなんだよ」と叱られた。

働くということは動くことというのが、今でも忘れないない。動かなければ、働いていないということだ。

私は、歩いてみた。すると、お客さまから声が掛かったり、空いている皿が見つかることに気づいたのだ。動かなければ、何も見えないし、何も始まらないことを、初めて知った。

ほんの些細なことだ。ずっと動き回れば良いだけなのだ。これは、『<a href="http://www.hottaworld.com/archives/2009/10/post_720.html" target="_blank">あなたは仕事が大好きですか</a>』と尋ねられた時、自信を持って大好きだと言えない人には、無理であろう。

それ以来、自分が客として食事に行くと、ただ突っ立っている店員がいる店がいかに多いか気づいた。時には、店員同士で話をしている姿も嫌に感じるようになった。

私は、18才の時から、人は動くことが働くことだと、思うようになった。

今では、その考えは、どんな仕事にでも言える。

動いていない人は、働いていない。

そして、最も怖いことは、それが当たり前だと日常化してしまうことである。

その結果、今日できることでも、明日やるようになる。直ぐできることでも、後回しにするようになるのだ。私からすれば、その姿は、ただ突っ立っているように見える。

なぜ、直ぐにやれることを直ぐにやれないか。直ぐに終わることを後回しにしてしまうのか。

一言で言えば、能力がないということだ。

能力には、処理能力と瞬発能力がある。処理能力は、時間当たりに処理できる能力である。この能力が高ければ、一つの仕事を終える時間が短いということになる。

瞬発能力とは、仕事が発生してから、取り掛かるまでの時間である。この能力が高ければ、一つの仕事が発生してから終えるまでの時間が速いということになる。

一つだけの仕事なら、処理能力も瞬発能力も関係ない。同時に複数の仕事が発生した時に、その差が出るのだ。

ウェイーターをやって気づいたことは、動き回っていると、仕事が溜まらないということであった。自ら仕事を見つけに行くという動きをしているから、いち早く事象に気づき、すぐさま対応に当たれるのである。この考えは、忙しいときほど、その差は歴然とした。

ただ突っ立っている時は、仕事の発生に気づくことが遅れる。つまり、瞬発能力がない状態である。そのため、気づいた仕事を処理しようと動き出すと、すぐ傍に片付けなければならない仕事が次々にあることに気づき、処理できなくなる。

そうして、一旦バタバタすると、そんな時に限って、次々とお客から声が掛かる。もう、処理能力が一杯一杯な状態である。

同じ人間でも、ただ突っ立っている時と、動き回るようになってからは、これほどまでに差がでるのだ。

仕事ができる人というのは、多くの仕事をこなせる人でもある。そのような人が、動いている人であり、それこそが働いていることなのである。

自らが動いていない人は、仕方なく動かされている人であり、働いているのではなく、働かされている人。そのような気持ちでは、能力もクソもない。

なぜ、今日できることを明日するのか。今すぐできる些細なことを、後回しにするのか。それほどまでに仕事が嫌いか。

私は、スーパーコンピュータのエンジニアをしていた時、マルチタスクについて徹底的に調査、分析していた。

限られたコンピュータの資源、処理能力の中で、どのようにしたら、多くのジョブ（仕事）を効率良く処理するかということを、設定する。

例えば、異なる３本のジョブを全く同じ優先順位で実行するとしよう。３本全てが終わるまでの時間を計測すると、この考え方が、最も多くの時間を費やすことになる。その理由は、簡単に言うと、それぞれが資源を取り合いになるからである。

最も早く終えるには、最も短い時間で終わるジョブを優先して終えてしまうという考え方である。最も短いジョブを短時間で終えることに資源を割り振ると、当然、同じ優先度で処理するよりも、その短いジョブは一気に終えることができる。

そのため、今度は、残り２本のジョブで、資源の配分を考えれば良いのだ。次に考えるのは、どちらのジョブがより大きな資源を使用するのか、処理時間を要するのか分析する。

このようにして、どうしたら、全てのジョブをできるだけ早く終えるには、どうしたら良いかを常に考えながら処理するのである。その時に重要なことは、資源に空きがでないようにすることと、資源が枯渇しないようにすることという、両方を考慮することである。

似たようなことは、パソコンを利用していても体験することがあるはず。多くのアプリケーションを同時に起動していると、資源の取り合いになって、全ての処理が遅くなる。最も早く処理したいものを優先しなければ、優先しない使われていないアプリケーションのために遅くなってしまうのである。

このことは、人間にも言える。

仕事が溜まりやすい人とそうでない人は、処理能力の差もあろうが、それ以上に、優先順位のつけ方に大きな差があるのである。もっと言えば、処理能力よりも、すぐに仕事を始めるという瞬発能力に対する考え方に大きな差があるのである。

その差こそが、ボーと考えている時間を少なくし、動く時間を多く持つということだ。つまり、動くことこそが働くことなのである。

今日できることを明日するな。今すぐできる些細なことを、後回しにするな。それだけで変わる。

そして、もっと言えば、明日することまでをも今日してしまえ。早め早めに処理するのだ。そうすれば、明日どんな割り込みがあっても、バタバタしないはず。

今日できることを明日しているようでは能無しだ。今日できること今日のうちにするのは、普通だ。明日することを今日してしまうのが、仕事の達人ではないか。

そして、それは仕事が大好きでなくてはできないであろう。まずは、仕事を好きになることだ。それは、経営者なら当然なことである。]]></description>
         <link>http://www.hottaworld.com/archives/2010/02/post_781.html</link>
         <guid>http://www.hottaworld.com/archives/2010/02/post_781.html</guid>
         <category>求める人材</category>
         <pubDate>Tue, 16 Feb 2010 05:52:20 +0900</pubDate>
      </item>
      
      <item>
         <title>守れない約束でも守る</title>
         <description><![CDATA[誰しも、子供のころから約束を守ることの大切さを教えられてきたはず。誰だって、約束を破られることがどんなに嫌なのかを知っている。知っているからこそ、一旦約束したことは、何としても守ろうとするのは当然なことだ。
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約束とは、例え口頭であっても、立派な契約行為である。あるいは、刑事訴訟ともなれば、誰からの指示があったとか、誰と何を約束したかなどの供述は、口頭で言ったという記録がなくても、立派な証拠となりえるのである。

それほどまでに、約束は重い。

その重い約束を平気で破る人のことは、簡単に許せるものではない。

誰しも、平気で約束を破る人のことを、好きになるはずもないであろう。

だがしかし、私も含めて、そんなに簡単に約束を破る人のことを許せないと言い切って言いものだろうか。ならば、約束を破った人が、あなた自身なら、あなたは自分のことを許さないのか。嫌いになるのか。

そう、誰しも約束を破る人は許せないと思いながら、以外にも、多くの人は、約束を破る側になっているということがあるのだ。

遅刻だってそうだ。これは完全に約束違反である。だが、遅刻をする人は、それほど重い約束との認識が薄く、遅刻を平気で繰り返す。まさに、約束を破ったという感覚がないから、罪意識がないのだ。

大体にして、それとこれとは違うだろうと、約束と遅刻を一緒にするなと反論するような人に限って、本当に平気で約束も破るものである。

そして、詫びる。誠意を持って謝れば、何とか許してもらえるという期待があるからである。これまでもそうして、破った約束の対策を講じることで、破ったということを帳消しにできると考えているのだ。

だがこのことは、極一部の人の話ではない。私も含め、ことの大きさは別にして多くの人が同じような過ちを犯しているはずである。本人は、小さなことだから、すでに記憶からないかも知れないが、本来、約束に大きいも小さいもないのである。

約束したことが、小さい、大きい、軽い、重いと考えている時点で、約束を軽率にとらえているということである。重い約束は守ろうとするが、些細な約束は破っても影響が少ないというのは、破る側の勝手な論理で、破られた側からすれば、大小に関わらず、約束を反故にされた事実には変わりない。約束を破った人と思うのは、当然である。

こうして約束を考えてみると、簡単に約束などすべきではない。

守れない約束などするなというべきであろう。

これもごもっともな意見だ。

約束をしなければ、守る必要も、破ることも、前提がないのだから、おとがめがない。これは、もしかして守れないかも知れないとしたら、約束をしなければ済んでしまう。

だが、私はこの考え方は好きでない。ましてや、このブログを読んでいるリーダーならば、約束をしなくて済むということでは到底リーダーシップが図れない。

守れない約束はするなと言ったら、100％守れるであろう約束しかしなくなるだろう。１％でも守れないかも知れない可能性があるとしたら、それは守れない部類に入ってしまう。

しかし、現実的に、100％守れるであろう約束など存在しないに近い。

例えば、時間を守るということ。決められた時間に行くという約束は、普通に考えれば、100％守れるであろう約束と安易に考えてしまうはず。でも、守れない約束はするなという視点で考えたら、電車が止まるかも知れないし、予期できないことが起こらないとは限らない。

「それは、不可抗力ではないか」と言っているようでは話にならない。不可抗力であろうがなかろうが、約束を破られた相手にとってはどんな事情があれ関係ない。その不可抗力とやらのために、あなたが約束を破り、その結果、重大の事象をもたらしてしまうことだってあるのだ。

それでも、人は、守れるだろうと思って約束する。だったら、守れない約束はするなと言うのではなく、守れない約束でも、守らなければならないのである。

しかも、リーダーなら、一瞬、100％は守れないかも知れないという交渉事は山ほど発生する。それをもしかして守れないからも知れないという考えで、約束ができなければ、結果として交渉できなかった、交渉決裂ということになる。

50％はもしかして守れない可能性があるかもというものでも、何としても守るという行動力を持っていなければ、約束ができる範囲は大幅に減る。それが器量だ。守れない約束でも守る。それがどれだけできるか。

その上で、守れなかった時の責任をどれだけ覚悟しているかということである。

子供でも約束を破ることは悪いことだというのは知っている。それはリーダーなら尚更である。どんな理由であろうとも、何としても守るのだ。

守れない約束はするななどと、正論を言っているのではなく、守れない約束でも守る、それがリーダーの務めだ。

そもそも、会社では、守れないかも知れない目標を掲げる。それでも、最初から守れないかも知れないと考えているようでは、到底、目標をクリアーできるはずがない。

それと、守れない約束はしないという論理で、達成確実な目標を掲げているようでは、ナンセンスである。

守れない約束でも守るとは、そういうことだ。]]></description>
         <link>http://www.hottaworld.com/archives/2010/02/post_780.html</link>
         <guid>http://www.hottaworld.com/archives/2010/02/post_780.html</guid>
         <category>リーダーについて</category>
         <pubDate>Sun, 14 Feb 2010 05:51:42 +0900</pubDate>
      </item>
      
      <item>
         <title>海外に志しある者</title>
         <description><![CDATA[満31歳で亡くなった坂本直陰。生前は全く知られていなかったが、死後になって有名になった。司馬遼太郎の小説『竜馬がゆく』の主人公とされているが、小説の竜馬ではなく、龍馬のほうが正しいが、これは本名ではなく通称だ。
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今年のＮＨＫ大河ドラマ「龍馬伝」により、人気となっている龍馬。私が、最初に龍馬のことを書いたのは、2005年11月の『<a href="http://www.hottaworld.com/archives/2005/11/post_162.html">龍馬のベンチャー精神</a>』である。以後、『<a href="http://www.hottaworld.com/archives/2009/03/post_618.html">謙虚さの器の内</a>』の中でも書いた。

海援隊の隊長であった龍馬は、 隊に、脱藩者など出身藩を分け隔て無く迎え入れ、自由な発想と雰囲気を求めていた。そのことは、会社の定款に相当する海援隊約規にある隊員の資格について、「土佐藩を脱する者、他藩を脱する者、海外に志しある者」と明記されている。

私が、坂本龍馬に最も興味を示す点は、この海援隊約規があるからだ。

私が2004年に会社を設立した時、中途採用者も、新卒者も、あるいは、日本人も外国人も、分け隔て無く迎え入れたいとの気持ちがあった。たった一人で独立し、社員を募集しようにも集まらない。たった一人では何もできないとの思いが強く、早く仲間を持ちたいと思ったものだ。

その考え方は、今でも変わっていない。そのため、事務所には、様々な国の人が集まるようになった。私の理想は、半分が日本人、半分が外国人。かつ、男性も女性も半々が良い。年配者も若年者も半々で、障害者も健常者もいたらもっと良い。

そして、何よりも集いたいのは、海外に志しある者である。

社員の半分は日本にいて、残りの半分は海外にいる。そんな会社を目指したい。

日本人は、海外にどんどん出かけ、外国人をどんどん日本に向かいいれる、これが私の理想である。

竜馬がゆくの中で、龍馬は、「衆人がみな善をするなら、おのれ一人だけは悪をしろ。逆も、またしかり。英雄とは、自分だけの道を歩くやつの事だ」と言っている。

私は、善、悪は別にしても、他の人がやっていないこと、逆のことをやろうとする意気込みはとても重要だと思っている。みんなが右を向いたから右を向くのではなく、左を向くくらいの考え方は必要であろう。

この考え方は、ある意味で自由奔放であり、失うことを恐れない勇気があるということである。

私は、『<a href="http://www.hottaworld.com/archives/2007/10/post_394.html">失うことを恐れない</a>』の中で、『元々無かったものなのだから、無くなっても慌てる必要はない。そんな気持ちを持つことは、ベンチャー企業には重要なことである。そして、いつまでこの気持ちを持ち続けられるか、持ちつけられている間がベンチャー企業である。この気持ちが無くなったら、もはやベンチャー企業とは言えない。

私は、生涯ベンチャー企業を目指したい。攻めて攻めて、戦って、開拓して、新しいことに挑戦する、これがベンチャー精神である。』と書いた。

攻めて攻めて、戦って、開拓して、新しいことに挑戦するということ、これこそが、龍馬の言う、自分だけの道を歩く英雄ではないか。他人と同じことをせず、他人がしていないことに挑戦することが、ベンチャー精神である。そのためには、失うことを恐れない覚悟が必要なのである。

龍馬は言う。「人の一生というものは、たかだか五十年そこそこである。いったん志を抱けば、この志に向かって事が進捗するような手段のみをとり、いやしくも弱気を発してはいけない。たとえその目的が成就できなくても、その目的への道中で死ぬべきだ。生死は、自然現象だからこのことを計算に入れてはいけない」と。

そして龍馬は31歳で死んでいった。

私は今、弱気を発せず、死ぬ気で生き抜いているであろうか。成就できなくても、その目的への道中で死ぬ覚悟はあるであろうか。

龍馬は、生前は無名であったこともあって、数々のエピソードは、後世になって作られたものも多いらしい。しかし、死んでから、例え架空なエピソードであったとしても、これほどまでに龍馬が愛されるのは、生前の行動力があったからに違いない。

そんな私も全く無名の経営者である。生前に有名か無名かではなく、人知れず、計り知れないほどの行動力があればこそ、死んでも、エピソードが作られるのであろう。もし、行動力がなければ、架空のエピソードもあるまい。

私は、海援隊の如く、「藩を脱する者、他藩を脱する者、海外に志しある者」という集団を本気で作り上げたいと思っている。それが当面の小さな目標だ。こんな小さな目標なら、本気でやろうと思えば、必ずやできるはずである。

そして、商いの内容は別物である。何を売るか、何を作るかではなく、「藩を脱する者、他藩を脱する者、海外に志しある者」という集団を構築し、何ができるかを常に模索したい。何をもたらすかは二の次だ。

何を売るかではなく、何でも売る覚悟である。世界中、どこにでも、何でも、誰もがやらないようなことに、挑戦し続けたい。海外に志しある者、これがこれからの日本や、わが社で求める人材である。

海外に出ようとする意気込み、これこそが最大の行動力ではないか。だから、日本に来たいという外国人にも大きな舞台を用意したい。

海外に志しある者、これぞ求めず人材だ。]]></description>
         <link>http://www.hottaworld.com/archives/2010/02/post_779.html</link>
         <guid>http://www.hottaworld.com/archives/2010/02/post_779.html</guid>
         <category>求める人材</category>
         <pubDate>Fri, 12 Feb 2010 05:51:03 +0900</pubDate>
      </item>
      
      <item>
         <title>信賞必罰</title>
         <description><![CDATA[私は、日々の運営の中で、二つ視点を持って、部下と関わりを持っている。一つは、私と最も近い関係にある幹部、つまり上司たちとの関わりである。そして、もうひとつは、中堅社員から下の若手社員との関わりである。
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まず、コミュニケーションという意味では、上司たちとの関わりは多く、濃い。それに対し、若手社員との関わりは、薄い。その理由は、私にとって、私の代弁者である上司には、最も私の考えを理解してほしいからである。

彼らが、私の考えを、彼らの自分の言葉で部下に伝えるという上司として当然の行為をしてくれれば、私が、直接一般社員に関わらなくても、間接的に関わっているのと同等だと考えるからである。

それに、私が、一般社員と関わる場合は、一対一ではなく、私と大人数という構図であるべきだと思っている。それに訳は、一つは、本来、直属の上司がやるべきことと明確に異なるようにしなければならないことである。私が、一人一人と話しをすること自体は悪くないのだが、それでは上司の役目を私が奪うことであり、上司の立場がないであろう。

それと、大人数という集団での話し合いや、交渉、時には会社への不満、不安などについては、末端の声をトップに伝えたいということがあろう。個人のことではなく、会社がどうなって行くのかというような方向性については、私が対応すべきだと思っている。

このように、私は、上司たちへの関わりと、若手社員との関わりを明確に別けている。

そして、私が、それを明確に別けている最大の理由は、さらに別にあるのだ。

それは、このブログにも表れている。

私は、全社員向けの朝礼ブログと、このブログでは、全く内容も文体も表現も変えている。それは、読む対象者が異なるからだ。だから、言わんとすることも当然に異なるのである。

このブログで私が書くこの内容は、リーダーやリーダーを目指そうという人のためのものであって、一度たりとも、全社員に読むことを押し付けたりはしていない。大体にして、この厳しい口調の文体は、怖ささえ感じる若手社員が出ることもあろう。ここで私が言っていることは、全社員への指示でも要求でもなく、あくまでもリーダーへのメッセージなのである。

そして、なぜ、このブログの文体は、厳しく、怖く、怒っているのだろうか。

それが、上司たちへの関わりと、若手社員との関わりを明確に別けている最大の理由の答えである。

私は、このブログを通じて、私という自身も含めて、上の立場に立つ人への喝を入れているのである。簡単に言えば、叱っているのである。褒めることは１あったとしても、残りの９９は叱ることである。

その意味が分かろうか。

中国の兵法書である六韜（りくとう）に、「殺は大を貴び、賞は小を貴ぶ。刑、上に極まり、賞、下に通ずれば。これ将威に行なわれる所なり」 とある。

この意味は、罰を与える場合は上位者に対して行うべきであり、賞を与える場合は下位者に与えた方が良いという意味だ。

ある人を昇格させる時、私は皆に向かって、「これからは、この人の指示に従って下さい。この人の指示は私の指示だと思って下さい。もし、皆さんが彼に不満があったとして、それを私に言ってきたとしても、私は彼と同じ答えを言うことでしょう」と紹介するのだ。

それは、その昇格した人間への支援の証であり、同時に、責任の重さを痛感させるためである。私が選んだ、私の代弁者となるべき上司は、私と一心同体でなくてはならないのである。それを示すと共に、それができない場合の罰の重さも担うということである。これが、組織である。

大昔、仁、義、徳を基本とする韓の国は、次第に国勢が衰え、周囲から侵略され領土を削り取られ、国家滅亡に危機に陥っていた。その最大の理由は、韓王が、仁、義、徳から、さらに情が生まれることになり、仁、義、徳という曖昧な考えと、情による不合理、理不尽な采配が行われるようになって、組織の統制が取れなくなっていたからだ。

そこに、韓非という思想家が、韓王に意見を具申した。それが、韓非子という意見書である。その中の有名な言葉が、信賞必罰だ。

信賞必罰とは、功の有った者には必ず賞を与え、罪を犯した者には必ず罰を与える。賞罰を厳格に行うことという意味だ。

韓非、韓王に情に流されず、賞罰を厳格に行うことが組織を統制する上で、最も重要なことだと説いた。それまでの韓王は、仁、義、徳だという、一見人間として素晴らしいように思える主観に頼っていた。しかし、人間とは、悪知恵が働くもので、韓王に伝わってくる仁、義、徳が、必ずしも実態を反映しているとは言えない。

王に好かれるために、様々な裏工作をして、仁、義、徳を偽装できるのだ。これが人間の差がであり、同時に、そう簡単に仁、義、徳を主観ではなく、客観的に把握しようとすること自体が間違っているのである。

私は、これまでも厳格に信賞必罰を行ってきた。

降格も、給与削減も、情や理由に関係なく。

これができなような組織は、間違いなく腐る。そして、韓の国のように、滅亡に危機に陥るであろう。

特に、部長等の幹部への必罰は、全体に避けて通ってはならないである。私は、誰が何と言おうとも、遂行する。それで、組織が腐るというのなら、そんな組織解体したほうがまだましだ。]]></description>
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         <category>組織について</category>
         <pubDate>Wed, 10 Feb 2010 05:50:03 +0900</pubDate>
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